「エホバの証人と性の問題−その一−ロービジョンの場合」−ラハムより

(8-20-03)

  わたしの知りうる限り、日本においてエホバの証人ほど性に関して厳格さを示す
宗教は存在しないであろうと思います。これはピカイチでしょう。ほめられるべきこ
とだと思います。しかしまた、同じく日本においてエホバの証人ほど性に関して歪ん
だ見方と行動をとろうとする宗教も存在しないと思います。

  広場も含めてさまざまなサイトで男女の交際、男女関係、結婚について、性に関
する見方が述べられていますが、わたしが個人的に知っている幾人かの信者であり、
障害を持つ人々の扱い方から、エホバの証人が性に関してもっている歪んだ−いや、
組織から植えつけられたというか−見方や行動について述べて見たいと思います。こ
れから述べる事柄は、信者の多くが示した反応であり、少数ながらそうではない反応
もあったということを最初に申し添えたいと思います。

  まず最初にわたしとしては聖書を素直な気持ちで読む限り、性というものは美し
くて良いものであると思います。その理由は最初の人間であるアダムとイブに与えら
れたエホバからの最初の命令が子孫を産んで殖やすことだったからです。もちろん悪
い記録もたくさんあります。これらが真実かどうかはさておいても、性というものが
存在しなければわたしたち人類はここまで多くはならなかったでしょう。聖書の記録
では男女の性関係なしに存在したのはアダムとイブ、キリストと呼ばれたイエスだけ
です。

  最初に考えてみたいのは、ロービジョン(Low Vision−視覚機能が低下してい
る)の場合ですが、これは視覚に障害のある人々のことです。視覚に障害があると
いっても、いわゆる全盲という光をも感じないということでなく、ガイドヘルパーの
サポートが必要な人ということです。ここでは“ロービ”と省略します。

  通常晴眼者がロービをガイドする場合、ロービは晴眼者の後方で軽くそっと肩や
腕などに触れた状態でおこなわれます。彼らをガイドする場合に杖を引いたり、手や
腕を握り引くことは危険なこととされていますので、障害ゆえにやむをえない身体的
な接触です。この、障害を持つことを自ら選んだわけでなくやむにやまれず置かれて
しまった状況の人々に対する精神態度や対処方法にエホバの証人に植え付けられた性
に関する歪んだ見方が如実に現れていると思いました。以下に記す事柄はわたしの親
友であるロービの一兄弟(当時50歳ぐらい)を扱うさいに経験した実例です。

  彼がわたしの交わっている会衆の集会に出席し、伝道活動にも参加したいという
ことでしたので、わたしは朝早くから自動車で迎えに行きました。わたしは、その日
は講演の割当もあり、彼がせっかく来てくれるということでしたので昼食や夕食もわ
たしの家でもてなしたいと考えましたから、20歳ぐらいの若い学生の姉妹たちに応援
を頼んだのです。

  昼食を終えてから、その二人の姉妹たちに野外伝道で彼をガイドしてくれるよう
に頼み、伝道の集合場所まで自動車で連れて行き、わたしは夕食を自分で作りたかっ
たので自分のうちに戻りました。

  そのロービの兄弟は特に女性のガイドヘルパーのことを考慮して蒸し暑い夏でも
長袖のシャツを着用し、直接には素肌が触れ合わないように気をつかっています。そ
のようであっても女性がガイドするということで非難の声が上がり、長老たちふたり
そろって、自分の娘のようなひとりの若者に助言するということが生じたのです。

  その伝道地域は自動車の往来が激しく、人の声を聞き取ることが難しい場所でし
た。当然のことですが彼も視覚に障害があるわけですから、情報は声や音、接触によ
る以外にはありません。伝道に参加した姉妹たちから聞かされたことですが、年配の
女性たちの中にはその二人を見て「なんですか、ありゃ」と言った人もいたそうで
す。また、現場でともにいた長老にも聞いたのですが、そのふたりにガイドの交代を
申し出たけれども返事がなかったということです。  

彼らは人を毛嫌いすることはありませんから、なぜ交代の申し出に返事がなかったの
かわたしは不思議に思いましたので、直接彼らに聞いてみたところ、ふたりとも長老
のその声は聞こえなかったということです。そこは声が聞こえにくい場所であったこ
と、伝道中はおしゃべりに夢中になって他の人の声が聞こえないこともあること、な
によりその長老はふだんからぼそぼそ声で非常に聞き取りにくいことが多いことが重
なってしまい、生じた出来事だったのです。

わたしはふたりの姉妹たちにガイドを依頼したわけですが、ひとりは別の人と伝道し
ていたので助言されることはありませんでした。彼女ひとりが王国会館の第二会場で
長老ふたりから王国宣教の1988年2月号を用いて、異性に対する振る舞いに関して助
言をされたそうです。こののち彼女は会衆の人々に見られるところではガイドヘルプ
をすることを避けるようになりました。まったく嘆かわしいことです。

わたしはこれを聞いてショックを受け、大いに当惑し、動揺したことを覚えていま
す。見ることによって物事を判断することのできない人に、自分の申し出が聞こえた
かどうかどうして確認しなかったのか。「なんですか、ありゃ」といった人はそれがよ
くないと感じるのであれば、なぜ自分みずからガイドを申し出ようとしなかったの
か。これらの件についてぼそぼそ声の長老はわたしに対しても伝道に来て、彼らを援
助しなかったことを注意してきました。

その現場にはわたしと親しい奉仕の僕の兄弟がいましたので、彼がロービの兄弟たち
のことをどう思っているのかを、これらの事情を説明してから聞いたことがありま
す。彼の話では一緒にそのぼそぼそ声の長老がいて何もしないのだからそのままでい
いと思った、ということだったのです。彼の立場からすれば妥当な反応でしょう。障
害者をサポートすることについてはそれぞれの感性もあると思います。

たとえそうであっても、律法下におけるイスラエル人やヨブ記に現れる記述、またイ
エスご自身のことばによれば視覚障害の人々を異性であろうとなかろうと誰がサポー
トするかについて依存は何もないはずです。それを仲のよい男女が腕を組んで歩くこ
とと同じように感じて助けることに異議を唱え、交代の申し出が聞こえたかどうかを
確認もせず、助言するとはなんという非人間的な扱いでしょう。わたしはこうした非
人間的な扱いにはとてもついていけなくなったのです。

ある人々はロービの人をガイドすることが異性の接触を意味していると考える根拠と
して「さて,あなた方が書いてきた事柄についてですが,男は女に触れないのがよい
ことです」というコリント第一7章1節を持ち出します。わたしにとってはばかばかし
いとしか言いようがありません。性的な接触とガイドヘルプをごちゃまぜにしている
のです。気の毒なぐらいであり、この人たちはほんとうに聖書を真剣に読んでいるの
だろうかと考え込んでしまいます。

これは文脈を読めばわかることですが、性的な接触をさしていますし、ものみの塔は
1973年の4月15日号の読者からの質問でこの意味をはっきり説明しているのです。神
と聖書の精神がはっきりわかる人にはこのものみの塔の説明すら必要ないはずです。
視覚障害者のガイドにこれを当てはめるなどとは愚の骨頂と言わざるを得ません。

ロービの人々をガイドヘルプする場合は腕を組んでいるように見えますが、恋人同士
のようにしっかり組むことはないのです。それはとっさの場合すぐに離れることがで
きなくて危険なことだからです。それで、そっと触れてヘルパーの位置や動きがわか
る程度であり、彼の場合手のひらでなく、手の甲で触れることが多いのです。

付け加えるのであれば、彼は鏡で自分を見ることができないこと、自分の外見を確か
めることができないためでしょうか、外部から見ていると女性との接触の仕方に誤解
を招きそうになることも事実です。しかし、たとえそうであったとしても上記のよう
な非人間的な扱いをしてもよいことにはなりえないと思うのです。

わたしはこうした扱いを知るとき、安息日に片手のなえた人を癒したイエスを訴えた
人々のことを思い出します。イエスは彼らを憤りをもって見まわされました。それは
彼らの心の無感覚さを深く憂えたからだとマルコ3章1から6節に記されています。

なぜ、エホバの証人はそのような聖書を信じていると主張するのに心の無感覚さに気
がつかないのでしょうか。この次は、もうひとつの実例をあげて考察してみたいと思
います。

わたしはペンネーム ラハムです。感想やご意見がおありでしたら、どうぞお聞かせ
ください。よろしくお願いいたします。

メールアドレスは kenbouoh@ybb.ne.jp です。

《編集者より》
この体験談も、エホバの証人がいかにイエスの当時のパリサイ人とそっくりであるかを物語るものだと思います。ありがとうございました。