「気持の整理がつきました」

(8-2-03)

 私は昨年の11月に「永久追放により−排斥者への対応」を投書した者です。
私のたわいない愚痴に対して編集者様にコメントを頂いたり、またお二人の方には反響の
投書を頂き本当にありがとうございました。

 今回はその後の私の思いを変化させる出来事を、簡単にご報告したいと思います。
 排斥後、先回の投書にも書いたように思いの動揺がありましたが、結局この組織でしか
生きられないと思い復帰に向けて行動を起こそうとしていました。
 そういった中で、数ヶ月の内に兄弟姉妹達とばったりと出くわす事が立て続けにありま
した。
 ある時に、一人の兄弟と小さなパン屋で出会いました。私は突然の事に動揺してしまい
ましたが、相手の方はお互いにトレイを持って向き合い目があったにもかかわらず、全く
見ず知らずの他人を見るように何の反応も見せることはありませんでした。その兄弟とは、
私の未信者の父を含め家族ぐるみで十数年付き合いのある方でした。
 また別の時には、ある姉妹とスーパーでお会いしました。その時その姉妹は私の顔を確
認するなり、スーパーのカートを押しながら猛スピードで逃げていきました。私は別に逃
げなくても良いのではないかと思いながら苦笑いするしかありませんでした。その姉妹と
は以前同じ群れの司会者と成員の関係でいろいろ親しく接していた仲でした。
 更に別の姉妹と病院の待合室で出くわしました。私はすぐに気付きましたが別に声もか
けずに同じソファーの少し離れたところに座りました。しばらくすると彼女は私に気付い
たようで、急にそわそわし始めました。やがて立ち上がり待合室の端に隠れるように身を
潜めました。その姉妹のご主人さんとは排斥直前まで家庭聖書研究を行なっており、その
後又聞きで彼が私のことを大変心配していると伺っていました。

 こうした事は自分が悪いのだから仕方がないのでしょうが、正直言って気分の良いもの
ではありません(もちろん今回お会いした兄弟姉妹たちを個人的に恨んでいるというわけ
ではありません)。これは私のわがままですが、せめて話が出来なくても「心配しているよ」
とか「待っているよ」といった表情をすることさえしてはいけないのでしょうか。これで
はたとえ復帰したとしてもわだかまりなく付き合うことは難しいと思います。ついさっき
まで汚いものを見るように避けていた人がいきなり笑顔で近づいてきても無条件に喜んで
は受け入れられないと思います。
 「困った時の友が真の友」と言いますが、結局ものみの塔の中では真の友は作れないと
いう事に気が付きました。もちろん決して個人個人が悪いわけではありませんがこの組織
の枠組み上これはどうしようもないことなのでしょう。こうした経験により、今では完全
に吹っ切れて気持ちの整理もつきもう組織に未練はなくなりました。
 最近は少しずつ「この世」の友達も出来てきました。決してものみの塔の言うようなひ
どい人達ではありません。これからは簡単には損なわれない真の人間関係を培っていける
ように頑張っていきたいと思います。
 また、このJWICを丹念に読み進めるうちに私の決断が間違っていない事を確信出来て
います。

 このように排斥者にとって現役信者の方とお会いするのはがっかりさせられる事が多い
のですが、ひとつだけ嬉しい事もありました。
 スーパーでレジに行ったら、ある姉妹の娘さん(身献身でしばらく前から交わっていな
い)がアルバイトをしていました。私を見るなりにこやかに話し掛けて来ました。たわい
ないことを一言二言交わしただけですが、とても嬉しかったのを覚えています。
 また愚痴になってしまいましたが、読んでくださりありがとうございました。
 これからもホームページを楽しみにしています。

P.S. ちなみに、現役信者の母や肉親の兄弟とは今でも絶縁状態です。

《編集者より》
他の投書にも書きましたが、エホバの証人の人間関係の根本的な問題は、組織が人間個人の人格、個性、独立した思考を無視し、人間を十派一からげの「模範的クリスチャン」という個性のない一律の組織成員に仕立てることに躍起になっていることです。その弊害として、人間の個性は無視され、独立した思考は押し殺され、人間はものみの塔の作った型によってプレスされた、規格品としての部品のように、取替えのきく道具の一部としてしか扱われなくなることです。その規格品、たとえば一本の釘が「ものみの塔」という道具箱に入っているうちは、有用な釘として重宝されますが、その道具箱から出た釘は、その個性に関係なく、規格をはずれた部品として一律に不要の釘、危険な釘として葬り去られます。またたとえ道具箱に入っている釘でも、その釘が重宝されるのは釘自体の価値によるのではなく、組織という道具箱の中に入って組織に使われているという価値によるだけです。従って、箱の中の釘もまた取替えのきく部品にしか過ぎません。

研究生の扱い方の問題でも、エホバの証人が一人一人の研究生を取替えのきく部品として利用していることで、その不可解な行動は理解できます。排斥者に対する態度でも、それまでの仲間が豹変して無視や憎悪に変わるその奇妙な行動は、彼らが個人個人の人格に興味や視点があるのではなく、ただ組織という道具箱に入っているか入っていないか、その人間が規格品であるかないかだけに視点があることによります。

このような人間性の疎外は、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」にも出てきますが、現代社会がもたらした大きな問題です。この問題に気がついた多くの人々により、現代社会の中での人間性の復権が叫ばれる中で、エホバの証人だけは、ますますその人間性疎外の社会にのめり込んでいるように見えます。人間性疎外は、強力な権力社会、たとえば独裁政権、スターリン、毛沢東型の社会主義、などによく見られますが、ものみの塔協会という権力社会の中で同じ人間疎外が横行し、それがこの投書にあるような悲劇をもたらしていることは、ものみの塔宗教の本質を見抜く上で重要なヒントを与えていると思います。