「君に伝えたい事」

(7-8-03)

君から最後に連絡が来たのは、今年の一月。
大学受験を控えた母の為に、過去の成績表を
"さがしとく"
と、メールでひとこと。
あれから母は、福祉大学を社会人入試。
なんとか合格したけれど、妊娠がわかり、入学を辞退。
あえなく流産してしまい、
すぐにまだ申し込める別の大学を受験しなおし、合格。
福祉大学の2年生に編入学しました。
何故今更大学なのか、母の事を良く知っている君にとって、
うるさい説明はいりませんね。

エホ証から、虐待を受けた人々の福祉のためにも、
君に対する罪滅ぼしのためにも、
そして、母自身のためにも

母は研究生の頃からすでに
司会者による虐待に苦しんでいましたが、
君も同じように
司会者からの虐待に苦しんでいましたね。

会衆で子供達を集めて催し物がある度に
私達の家族はいつも仲間はずれ。
そのときの主催者はいつも、君の司会者。

別のBが君を交わりに誘うと、
わざわざ君の司会者は
"彼はちょっと―――"と言って
誘わないようにみんなの前で暴言を吐く。
不審に思ったBが、
"何故、彼は駄目なの?"
ときくと、君の司会者は宙を見上げて、答えない。

こんなこと、母の見ている前でも平気でやる君の司会者だから、
見ていないところでは、もっとやっているだろうと
容易に想像がつきます。

ある時、見るに見かねて、
ある姉妹が母に忠告したほどです。
"この間もみんなの前で、カズ が彼を中傷してたのよ
姉妹、彼がかわいそうよ。なんとか、司会者を変えたほうがいいんじゃない?"

母がこの言葉を無視したわけはありません。
すぐに会衆の主宰にのべて、
"君の司会者を変えて下さい"
と懇願しました。
でも、主宰の答えは
"それは、出来ない"
の一点張り。

別のある時、
会衆全体で"お楽しみ会"が開かれる事になり、
君は司会者じきじきに、"ある役をやってくれるよう"頼まれた。
君は最初、丁重に断っていたけれど、
司会者にどうしてもと強く頼まれ、
"お楽しみ会"の練習に参加した。

それなのに
30分もしないで
君は泣きながら帰ってきた。
どうした事かというと

みんなの見ている前で
"君にやる役はないよ"
と司会者にののしられ、
そのあとすぐ、司会者は、
みんなの見ている前で
大声で笑った。
みんなの見ている前で、
君を愚弄し
平気で虐待しつづけた。

まるで、ゲームを楽しむかのように―――

邪悪な カズ
君の司会者。

司会者は、何故君が駄目なのか、明確な答えは何も言っていない。
中傷としては、極めて悪質。
良く考え抜かれた、最も、人を虐待できる残虐な中傷。

そう、カズ は、中傷の達人です。

物事を論理的に考えるのが得意な母にとって
極めて考え抜かれた カズ の中傷に勝つ事は不可能でした。

母は カズ のような性格ではないからです。
同じ穴のムジナになれなかった。
そこまで落ちる事が、どうしても、出来なかった。

申し訳ありませんでした。
申し訳ありませんでした。
申し訳ありませんでした。

たとえ同じ穴のムジナになろうと、なんであろうと、
君を守るべきでした。
だって、親というものは、
"我が子の為なら、たとえ火の中でも、飛び込むはずでしょう?"

母は君の尊厳よりも、君の名誉よりも、君の心よりも、
自分を守る事を選んでしまったのです。

母を許してくれとは言いません。
許される理由など母にはないからです。

そして、最も大きな理由は
この件に関して
君はこれ以上傷つく必要はないからです。

泣き叫ぶ赤ちゃんを前にして
自分が赤ちゃんの母だとそれぞれ主張した2人の女。
ソロモンも、大岡裁きも、答えは同じでしたね。
泣いている赤ちゃんの体を引き裂いて、
それぞれの母に渡すようにと。

その時、本当の母がとった行動は
読書好きの君が、良く知っているとおりです。

"子供の体を引き裂くくらいなら、どうぞ彼女にその子を与えてください"

母も同じです。
この件で、母を許そうとして
君が心を引き裂くのなら、
どうか、母を恨みつづけてください。
憎みつづけてください。

これ以上
君の心が、引き裂かれる事のないためにも―――

からだを引き裂く事を憎んでも、
心を引き裂く事には無頓着なこの組織。
からだを守るためなら、
心を引き裂く事を奨励しているこの組織。

この組織にとって、大切なのは、
心ではなく
からだなのです。
だから、
"心の傷は許すか忘れるか"などと言う残虐な言葉も出てくるのでしょう。

残虐な心無い組織。

心のない人々の虐待によって
何故、自分の心を、引き裂いて良いものでしょうか。

《編集者より》
エホバの証人と精神疾患の記事でも触れましたが、ものみの塔の人間観には人間の心の深みに対する考慮が根本的に欠けています。それは人間はエホバの(つまり組織)の「道具」であり、独立した人格、独立した心という見方より、十派一からげの「大群衆」という見方が優先するのです。一人一人の人間には、それだけでかけがえのない独特の貴重な「人間性」というものがあり、それらを個々に見て尊重するという観点は、ものみの塔の視点からは出てきません。組織に忠実であれば、全ての人間が模範的クリスチャンとして型どおりの一律な人格になるはずだ、という発想で、個人の置かれた特殊な状況への配慮は無視されます。あなたの書かれたような悲劇や、多くの個人の人格を無視した協会の方針や指導は、そのような起源があり、それが証人の間に多くの悲劇や精神病を引き起こす理由になっているのだと、私は考えています。