「JWとしての自分を振り返って」−pendulumより

(7-1-03)

こんにちは。お久しぶりです。pendulumです。いつもJWICを訪問させていただいています。
先生の定期的な更新には、本当に頭が下がります。村本先生ご自身はお元気で
いらっしゃいますでしょうか。

こちらのHPも読者からの投書、とりわけ現役や元現役の人たちのところの投書が年々増加
していますね。村本先生のご負担も相当なものとお察しします。今回は非常に長い投書を
してしまったのですが、私のこのような長い投書が先生の負担になることは望みませんので、
その点は先生の便宜を優先していただければと思います。

実は、私は昨年の4月から集会をお休みしています。99年にJWICに出会ってから、私自身、
様々な外的・内的世界の変化を経験してきました。今回は、自分がJWという存在を多少は
客観的に見ることができるようになったとの気持ちから、自分の中に生じたJW2世としての
内的な変化を昔から遡って振り返って見たいと思います。

今思いますと、私はJWの教えをかなり素直に、逆に言うと無批判に受け入れていました。
幼少の頃より、私にとって「エホバの証人」は「唯一真の神エホバ」が用いておられる地上で
唯一の「見える神の組織」でした。そう教えられていましたし、そう信じていました。組織は
不完全な人間の集まりですが、エホバはその不完全な人間を用いておられるのであり、
統治体を始めとした責任ある兄弟たちの言うことは、彼らが言ったというだけで正当化される、
権威ある言葉でした。組織の言うこと≒エホバの言うことでした。旧約聖書時代の、悪い王が
良い王より多かった時代でさえ、エホバは彼らを導いたのですから、それを考えれば、エホバの
証人は良い人の多く集まる正しい組織と思っていました。

エホバが全てを想像された絶対神であること、そのエホバがハルマゲドンで間もなく地球を
変えられること、そこでは生き残る者と滅ぼされる者があること、生き残るためにはできるだけ
自分をJWに合わせた人生設計をすべきであること、これらすべてを私はそのまま受け入れて
いました。それは自分にとって事実と呼ぶにも似た感覚で捉えられており、私は小学生のころ、

自分のやっていることが宗教であるという認識すらありませんでした。宗教といわれると、
なんだか、胡散臭い習慣を大事にした人たちの集まりであって、それはその人たちだけで
成立する閉じた社会であるというイメージがありました。しかし、自分のやっていることは世界に
関係した「真理」であるのだから、それとは違うと思っていたのです。その意味で、私は自分の
やっているJWの活動を宗教と呼ばれることに違和感を覚えていました。それほどまでに、JWの
世界はそのまま自分の内的世界となっていました。

それでも、自分の信じていることが他の多くの人たちとは異なるものであることは理解
していました。でも、私の中で、正しいのは常に私(JW)であり、JWのことを知らない人たちは
間違っている、もしくは知らないでいる「カワイソウな人たち」でした。

エホバの意思に反することは恐ろしいことでした。神から逃れることなど人間にはできません。
私は元々、規則を覚えそれを守るということに関してはかなり四角四面に受け入れ当てはめる
頭の固いタイプだったようです。その性質も手伝ってか、多くの「してはいけないこと」に対して私は
敏感でした。この点ではかなり注意していたように思います。しかし、後になってあれはいけない
ことをしていたのだったと知ることもあり、そういうときはひどく落ち込みました。

例えば、小学生のあるとき、私は(JW2世のある人たちが経験するように)、クラスからの推薦を
得てクラス委員になりました。私はそれがJWにとっていけないことであることとは知らず、むしろ、
みんなから選ばれたことに得意な気持ちすら感じながら、信者である母親にそのことを知らせました。
返ってきた言葉は、当然褒め言葉ではなく、叱責でした。私は叱責されたことに腹は立ちません
でした。むしろ、今後しばらくの期間、その「悪いこと」をしていかなければならないことを考え、
非常に暗い気持ちになりました。「大変な罪を犯してしまった」と思ったことを覚えています。

義の原則は私の行動を一貫して規律し、根拠づけるものでした。成長して、教理に対する
疑問点を感じるようになってからも、それを面と向かって質問し、納得いくまで尋ねるということは
憚られることでした。質問の内容よりも、そう質問する姿勢(謙遜でないなど)が問題だと
感じていたからです。

このような、JWの「真理」=エホバのご意志=世界の真理という図式を基本的にはそのまま
受け入れていた状態が高校生のときまで続きました。ここまでがJWの世界観が非常に強く
内面化されていたときの自分でした。

その後、JWの教理が間違いであると知ったときのショックは今思い返せばやはりとてつもなく
大きなものでした。自分と言う存在を根拠付ける最も土台となってきたものが急に全くなくなって
しまったという感じでした。「では人はなぜ生きるのか?」、「JWを辞めてどうすればいいのか?」
「聖書は信頼できるのか?」、率直に言えば、これらの疑問が現実的な生きるための問題として
降りかかってきました。ですから最初は、頭ではもうJWの教えを擁護できえないと分かっていても、
気持ちでは中々それを認めることができませんでした。それは理性的・論理的な反応ではなく、
全く感情的な反応でした。フリーダムさんが、以前こちらで投書されていた言葉がそのまま私に
当てはまりました。以下に勝手ながら引用させていただきます。

「自分が信じているものが崩れていくのがとても怖かったのです。それは
自分の人生そのものが崩れていくことを意味しました。私にはまだエホバの
証人の中での夢がありました。組織の中での男子の立場であれば誰もが
もっと多くの特権、長老、巡回区での特権、いつかは地域大会などで大勢の人
の前で話をする特権、そうしたものを求めています。私も例外ではありません。
・・・当時の私はそうした特権を捕らえ続けていくことが人生の目標だったのです。」

また、フリーダムさんが書かれていた、
「基本的にエホバの証人になるような人は一般的に善い人です。そうした
人たちとの交わりは健康で、奉仕にも活発に携わっていたときにはとても
楽しいものでした。私はそれを失いたくなかったのです。」
というのも、当時の私の偽りのない気持ちでした。

もし、JWとしてやってきたことや信じてきたことが真理でないのなら、ウソなのなら、自分の人生は
一体なんだったのだと呆然としました。パウロはコリント一15:12からの部分で、キリストの復活がもし
実際は起こらなかったことであれば、それを信じて全てを懸けたパウロたちは「すべての人の中で最も
惨めな者」と言っていますが、まさしく自分がそのような者だと感じました。全くの幻想のために、
自分の人生を懸け、しなくても良い苦労と選択の連続を経験し、そして、それらはもはや何の
役にも立たないものになってしまったのです。正直、初めは気が狂いそうと言ってもいいほどでした。

もし、JWでなければ、私はもっと小学校を楽しむことができたでしょう。中学校では部活動に
入り、好きなスポーツに打ち込んだでしょう。高校も、大学進学を懸念することなく自分が
本来行きたかったところを選んだことでしょう。全ての学校生活を通じて、もっと違った形で
友人関係を作ることができたでしょう。恋愛の問題も、もっと自然に取り組むことができた
でしょう。

しかし、これらの問題より更に深刻だったのは、人生の目的に関する問題でした。それまでは
生きる目的や自分の将来像を与えてもらっていました。しかし、今度は自分で全てを再検討
しなければなりません。神の存在・非存在を含めた哲学・思想の類の問題、善悪の問題は、
単なる思考実験ではなく、自分に直接関わる危機的な問題になりました。自己の帰属する
場を失い、アイデンティティの深刻な崩壊を経験しました。自分は真理の側にいると思っていた
わけですから、自尊心は大変傷つきました。真理で無いものを真理と信じてしまえる軽率で
無能な自分を信じられなくなりました。

しかも、私は決して軽率にJWの道を選択したつもりはありませんでした。自分でそれなりに検討し、
教理に細かな疑問はあっても、基本的には正しいことを信じ行っているグループだと思っていました。
JWの教えの一切をウソとして切り捨て、辞めて関係を絶ってしまわなければならないほどJWは
おかしなことを信じているとは思いませんでした。

そのように、吟味を重ねた自覚があっただけに余計に自分に自信を無くしました。
自分が自分であるかぎり、今後どのような選択をしても誤るのではないかというノイローゼめいた
不安も抱えました。そして、そのような自分を認める事への恥ずかしさもありました。それまでの
自分の人生が、なんだかひどく滑稽なもののように思えました。

JWとして生きることを考え直そうと大学に入った私ですが、インターネットや一般の本を通して、
エホバの証人やキリスト教を再び捉えなおす作業を進めました。初めはなかなかJWという組織や
キリスト教という宗教を客観的に見ることはできなかったのですが、時間が経つに連れ、だんだんと
自分が信じてやってきたことが、一般の人々からはどう映り、どういう印象を与えているのかを
認識することができるようになっていきました。

この点で助けになったものひとつは、他の宗教グループに関する情報を見てみることでした。
JWに関しては自分がそれまであまりにも深く関わってきてしまっていますから、冷静な判断を
下すことが困難でしたが、他のグループの信条内容やそれに関する批判・弁護の議論などは
まったく他山の石として冷静に見ることができました。そして信者・批判者・反対者などの
主張の仕方やメンタリティについても見ることができました。

もちろん、このような作業が自分にとって意味があるのは、JWという宗教グループをある程度
自分の中で相対化することが出来てきてからでしょう。以前の信者の頃の自分なら、「神の
組織であるJWと、世の組織を比較することがそもそも間違い」などと考えたことと思います。

そのような他のグループの教理や構造、主張の内容や論の展開の仕方などを見てみますと、
JWと非常に良く似た部分を見出すことが出来ます。たとえば、自分たちを唯一の神の組織と唱え、
組織を非常に前面に出します。また、組織正当化の理屈付けなども、ものみの塔と非常に
よく似ており、聖書を使うグループであれば、その聖句の使い方まで似ていたりします。

例えば、あるグループの教祖をキリストの生まれ変わりだと信じることがあまりにもおかしいという
批判に対して、内部の熱心な信者は、「イエスがキリストだと言ったときも信じた人はごく少数だった。
いつの時代も命に至る道は狭い」などというわけです。この「狭い道=自分たち」の世界観は、
JWがJWに入らない人に対して組織の唯一性を強調するときに使う論法とそっくりです。色々
調べてきて、私はこの手の安易なアナロジーによる正当化をJW内外でたくさん観察できました。

そうしますと、今、自分が見たり聞いたりしても荒唐無稽としか思えないいくつかのグループの
主張を検討するときと、JWの意見を検討するときとで、自分の心理的な反応がどう違うのかを
見ることが出来ます。翻って、自分が信じてきたことが、第三者からはどう映っていたのかをかなり
明確に知ることが出来ます。そうしますと、JW特有の用語(14万4千人、ほかの羊、〜級など)の
使用が一般の人にどういう印象を与えるのかも理解できてきます。

無論、他の宗教グループを見たからといって、それがそのままJWの批判の根拠になるという
ことはできません。しかし、組織として示すメンタリティや傾向をひとつの類型として捉え、その類型の
中でそれぞれのグループがどう振る舞い、主張し、批判に反応しているのかを比較検討すると、
かなり客観的な視点でもって自分の関わってきたグループを捉えなおすこともまたできると感じました。
少し話が飛びますが、今は、JWという宗教グループの現象は、アメリカという国家の性質・特徴
という枠組みから捉えると大分理解しやすいのではないかと考えています。

色々調べてJWに関してかなり冷静に判断が下せた後、今度は怒りの感情がでてくるのを
経験しました。これは自分にとっては意外なことでした。最終的には自分で選択したはずで
あるにも関わらず、信者として自分に大きな影響を与えてきた母親のせいにするかのように、
怒りの感情が沸き起こりました。怒りの感情を覚えながら、同時にそんな自分の心理を
不思議に思っていたことを覚えています。

でも、その後、自分がやってきたことは決してムダではなかったかもしれないということを、決して
負け惜しみや強がりの気持ちからではなく、素直に認めることができつつあるように感じています。
何かを本気で信じるということは、自分の中に一本の中心となる柱を据えて生きることを助けて
くれます。JWにいたことを通して、また、教理を検討した結果そこから離れたことを通して、
私はマイノリティに属することに怖気づかなくなったように思います。無論、好きこのんでそうなる
わけではありませんが、自分で考え、自分で選び、その結果を自分で引き受け、責任を自分で
取る。こんな当たり前のことに対してこの上もなく自覚的・意識的でいられるように私は訓練されたと
感じています。

また、人間という存在の強さや脆さと言ったことも自分なりに学ぶことが出来ました。
宗教、特に愛を主張する一神教的な宗教は恋愛と極めてよく似ていると思います。本人にとっては
取替えのきかない絶対的な存在として相手(神、恋人)は機能しますが、本人以外の人にとっては
それは同様の機能を有するものでは全くありません。要するに、主観的には絶対的なものとして働き、
客観的にはそれは全く相対的なものです。翻って、誰に対しても客観的・相対的に接しようとする
人は、確かにどの宗教にも影響されずに済むでしょう。しかしそれは人間関係でいうなら、ちょうど、
取替えのきかない友人や恋人を作ることができないようなものではないでしょうか。

しかし、このたとえでいくと、自分と恋人との関係を大事にするのと同じように、他人と他人の
恋人との関係も大事にするという意識が働いて然るべきであるとも言うことが出来ます。
ここの「恋人」に、「神」を入れることができれば、宗教の問題はもっと穏やかに解決できた
かもしれません。しかし、実際は、ある人たちにとってそれは宗教上の妥協になるのでしょう。
自分の恋人以外は人間ではない(=自分の神以外は真の神ではない)などとお互いに
言い出すから、問題が難しくなっていくように感じます。

否認→動揺→抑鬱→怒り→受容といったプロセスを踏んで私は自分の中の変化を経験して
きました。その間、聖書学、心理学・精神分析学、哲学などの知見は、私にとって助けに
なったと感じています。今では、大分、JWを過去のものとして捉えることができるようになりました。

JWは確かに私に大きな影響を与えましたし、今でも与えていると言えるでしょう。私はそれを全く
嫌うのでもなく、ムリに忘れるのでもなく、自分の確かな一部として捉え、しかし、全く新しい自分
として人生を引き受けていきたいと思っています。まだ学生ですから、こう言っていても口ではなんと
でも言える段階です。再び社会人として生きるときに、何を仕事とし、どう生きていくのか、これを
今後の課題として忘れることなく務めを果たして生きたいと思います。

長々と書いてしまい、失礼しました。先生もご自愛ください。
それでは。

《編集者より》
pendulumさん、お久しぶりです。いつものことながら、内容の濃い投稿をありがとうございます。「JWの世界観が非常に強く内面化されていたときの自分」を客観的に見て、綿密に記述して頂いたこの内容は、それだけで重要な資料となります。私もエホバの証人の心理を様々な角度から検討していますが、この投稿の内容のような綿密な描写は実に役にたちます。改めてお礼申し上げます。ものみの塔宗教が、アメリカという国の特質を反映しているという見方は、まさに私もその通りであると思います。世界中の全ての地に出版物を販売しようと、世界中に工場を建てまくるその発想自体、ラッセルとラザフォードは揺籃期にあったアメリカ資本主義の世界制覇の落し子と言えるでしょう。もう一つ、あなたが「心理学・精神分析学、哲学」の知見が助けになったという事実も興味があります。インターネットと並んで、ものみの塔協会が、「世の知恵」として軽蔑し、エホバの証人に避けるように教えているのが、まさしく「心理学・精神分析学、哲学」なのです。あなたの人生がこれで全て解決、順風満帆とは行かないと思います。今後も必ず大きな試練があると思いますが、ご自分の原点を振り返ることで、きっと困難を克服して生きていくことができると思います。また時々お便り下さい。