「最近の長老と奉仕の僕の集まりで」

(6-27-03)

最近の長老と奉仕の僕の集まりで…

  フリーダム氏が組織に愛が存在するであろうかという示唆に富むエッセイをいく
ども投書してくださっていますが、わたしもこれについては深く考えさせられていま
す。そもそも“愛”とはいったい何であり、どのようなことであろうかという深遠な
問題は古代から数え切れないほど論じられていますので、わたしのような者が論じる
ことのできるような事柄ではないと思いますが、その一面だけでも、熟慮してみたい
と思いました。

  エホバの証人であれば、聖書による愛の定義がコリント第一13:4-8に記されてい
ることは知っていると思います。わたしはこれはすばらしい定義だと思いますが、わ
たしが好きなのは同じくコリント第一8:1に記されている「知識は人を思い上がらせ
ますが、愛は人を築き上げます」という言葉です。聖書による愛の定義、コリント第
一13:4-8はものみの塔出版物で数多く論じられていますが、「人を築き上げる愛」が
どのようなものかについて論じられたことを聞いたことがないのはわたしだけでしょ
うか。

  わたしとしてはここに記してはならない理由によって計画的に徐々に時間をかけ
て自然消滅するつもりですので、現在でも奉仕の僕を続けていますが、最近の巡回訪
問における長老と奉仕の僕の集まりで聞いた話から、エホバの証人の社会で示されて
いる愛の側面について、書いてみたいと思いました。結論から言うなら、組織の愛の
示し方がいかに浅はかなのかを、さらに悟ってしまったのです。

  話の内容は忠節に関するもので、いくつかの現実に起こる事例について、仲間の
信者にどのような助言を与えて忠節を保たせるかというものでした。

  ひとつ目として、孤独を感じている姉妹が世の人である会社の男性と付きあって
結婚しようとしていることを奉仕の僕に打ち明けた場合というものでした。このと
き、巡回監督はいくつかの聖句を読むように協会の筋書きによってわたしたちに依頼
したようでした。読まれた聖句はコリント第一6章の、義と不法になんの交友がある
だろうか、信者が不信者と何を分け合うのか、詩編139のエホバを憎む者を激しく憎
むと言ったダビデの言葉、ヤコブ4章の世との交友は神との敵対などです。わたしは
これらを聞いていて、ほんとうに彼女の助けになるだろうかと思いました。

  これらより他の聖句も読まれましたが、こうした聖句を知らないエホバの証人が
いるのでしょうか。少数はいるのかもしれません。聖句を読んで原則を思い出させる
ぐらいは、長老や奉仕の僕でなくてもほとんど誰にでもできます。わたしはこの集ま
りの討議を聞いていてもしかしたら、誰かが、その孤独な姉妹に配偶者になってくれ
る人を組織の中から見つけてあげるのが最善だということや、見つけてあげたいとい
う注解をしてくれることを期待していたのですが、残念ながらそれはありませんでし
た。そのようなことは監督も言わないのですから、筋書にもきっと記載されていない
のでしょう。

  それで、わたしは、何だか聖書の言葉のお遊びの会に出席しているような気がし
てきたのです。わたしも最近は組織の聖書の当てはめ方が単純すぎてしらけていま
す。それで、わたしは注解に参加せずにただ聞いていました。わたしがそれを注解し
てももちろんよかったのですが、これまでの経験上無駄だと思ったのでしませんでし
た。たぶん、みんなからにらまれて、長老からはあとで助言されるかもしれないと思
いました。良い子の注解だけ必要なのです。

  その姉妹だって、世の男性と付き合うことが聖書や組織の教えに反していること
はわかっているはずです。エホバの証人にはしてはいけないことがたくさんあります
が、多くの人はそれがいけないことに気が付いています。だから、自分でしてはいけ
ないと結論を出していて、いけないことがわかっているのだけれど、気持ちに整理が
付きません。それをしても良いという同意もしてほしいのです。それで、その気持ち
をわかってくれそうな人に話して打ち明けるのです。その傷ついて葛藤しているとき
にエホバを憎んでいる男性なのだから、あなたもダビデと同じような気持ちになって
その好きな人を憎みなさい、などというきつくて残酷な聖句を持ち出すなんてわたし
には到底考えられないことです。巡回監督も説明していましたが、その男性はエホバ
を知らないあるいは知ろうとしていないだけで、事実上はエホバを憎んで反対してい
るわけではありません。そうしたことがわかっているのに、そのようなお粗末な助言
を組織から知らせる感情のないスピーカーになっているとわたしは思いました。

  長老たちから思いやりのない助言を受けて傷ついた人を大勢知っていますが、人
間として失格で、人として重大な欠陥を持つ人物が神から来ていると信じ込まされて
いる権威を行使し、上に立って思いやりのない、傷つける助言を与えるのですから気
が狂いそうになったという話をたくさん聞くことは無理のないことです。わたしは、
エホバの証人の中に精神病的な人が多いのはこうした原因も絡んでいると考えていま
す。苦しんでいる人や困っている人の感情や気持ちの否定をいとも簡単に行なって、
容易に癒せない傷を心に思いやりのない言葉というノミで深くえぐり込むのです。

  このときの集まりでは、服装がふさわしくないということで他の人がその人の親
に伝えてきた場合とか、母親が排斥になった娘に頻繁に電話をかける場合、父親であ
る夫はどうするべきか、他の家族のうちに行ったら評判のよくないビデオがあった場
合と、わたしが覚えているのはこれら四項目でした。これらも協会の筋書きが示す聖
句を討議されました。

  服装のことではテモテ第一2章の慎みのある整えられた服装をするようにという
聖句、排斥者の扱いに関しては、定番のコリント第一5章の“兄弟と呼ばれる人
で…”や、ヨハネ第二11節の“あいさつをしてはいけない”の聖句、ビデオに適用さ
せたのはエフェソス5章の3,4,8,9の愚かな話やひわいな話をいましめる聖句が用いら
れました。これらはありきたりの聖句です。

  先ほどの未信者と交際している姉妹のところでも触れましたが、これらの聖句を
知らないエホバの証人が果たしているのでしょうか。よほどのことがない限りいない
だろうと思います。このなかで、排斥になった娘に頻繁に電話をかける母親に関する
巡回監督のコメントは“電話をかけてはいけないというわけではないが、頻繁にはよ
くない。組織から離されたということで戻りやすい状態を生じさせることができる”
というような内容でした。その母親の痛みのある苦しんでいる気持ちをどのように理
解して助けるかという提案はわたしの記憶にはありません。

  わたしは、そうした聖書の原則は頭ではわかっているけれど、やめられない、従
えないというのが親子の慕情というものではないかと思うのです。もちろん他の人の
迷惑になり、他の人の権利を侵害するようなことを行なえば、それは聖書に反しなく
てもやめるように注意をしなくてはなりません。それで、聖書をよくよく読んでみる
と神との関係で必要なことを除いては、他の人の権利を侵害することを最小限禁じて
いるだけだとわたしは思います。

でも、結婚にせよ、服装にせよ、ビデオにせよ、排斥者の扱いにせよ、ほとんどの場
合そうではありません。宗教に関わるということは、その組織の教えや規則に従うと
いうことを避けられませんが、これらの事例は結婚のことを除いては直接聖書の原則
に反してはいません。ただ、組織が示す聖書の理解の枠組みに反しているということ
だけなのです。そして、それらの出来事を目撃した人々の感性や感じ方に触ったとい
うことではないでしょうか。服装・ビデオなど極端な場合を除けば、早い話がそれら
を目撃した人の好みにあわなかったのです。

  こうした集まりに参加していますと、フリーダム氏が以前の投書で述べていまし
たように、パリサイ人になるような教育を受けているというのがぴったりの表現だと
思います。ただ、聖書の原則を持ち出して、それもほとんどの場合間違った適用です
が、それら悩める人の感情を理解しようともせずに、組織の聖書理解の枠組みに従わ
せようとするスピーカーになることにわたしは嫌気がさしています。ひとりでは背負
いきれない重い荷物を肩に乗せる助言はしますが、それを背負いやすくする実際的な
手伝いや提案はしようとしないのです。

  わたしが最近考えている“愛”の定義のひとつはこの文字の組み立てから、“人
の心を受け入れる”です。これは愛することに関して述べられていた書籍からの引用
ですが、特にわたしたちエホバの証人に欠けているように感じてきました。その人の
感じていることや、気持ちを受け入れてその人の存在を価値あるものとして認め自尊
心を築き上げて、保たせることだと思います。こうしたことを行なわずにはエホバの
証人も含めていかなる宗教も存在する意味がないのではないでしょうか。

  今回の巡回訪問の集まりも含めて、30年近い時間がかかりましたが、組織にはこ
のような愛がほとんど存在しないことを認めざるを得なくなりました。その愛はわた
しが研究生になる前からも望んでいたものでもありました。わたし個人としては使い
捨てカイロやぼろ雑巾のように扱われたと感じています。わたしはわたしをここに述
べたような意味で愛して大切にすることを学び続け、同時にそのような意味で他の大
勢の人に愛を降り注いで生き続けたいのです。

  わたしはこれまで組織の中で、信仰だと思い込んでいたものは何十階もある高層
ビルのようです。このような高いところからは、決死の覚悟で飛び降りることも可能
ですが、わたしは一歩一歩ゆっくりと着実に下りつつあります。これが、わたしの人
生の送り方です。

《編集者より》
組織にとどまりながら、あなたのように「良心」に目覚めて活動を続けることは、何度も「危機」を迎えさせるのではないかと思います。でも、あなたがその「危機」から目をそむけず、真摯に対応しておられる姿に敬意を表します。あなたは、「シンドラーのリスト」というスピールバーグの映画を見たことがありますか。もう十年ぐらい昔に封切られたアメリカ映画で、日本でどのように題名が訳されたのか知りませんが、ナチスドイツの当時の「組織」に留まりながら、その「良心」を最大限に働かせて、多くの「危機」を乗り越えて多数のユダヤ人を救ったシンドラーというナチス党員の話です。一人の人間の良心が、巨大組織よりもいかに重要かを示す、私の最も好きな映画の一つです。私は、あなたにこの「シンドラーのリスト」を見て考えて頂くことをお勧めします。オスカー・シンドラーも、レイモンド・フランズも、そしてきっとあなたも、組織の中で「良心の危機」を経験しながら、真摯に生きている人々だと私は思います。組織の圧力に屈せず、あなたの聖書に基づいた良心に従って、エホバの証人に対して「愛を降り注いで」活動を続けて下さい。あなたが組織の外に出るか、留まるかは全くあなたの個人的な事情だと思いますので、充分に時間をかけることをお勧めします。