「ご質問ありがとうございます ミミ様へ」

(6-25-03)

いつも、編集と、サイトの管理、そのたもろもろ、
ありがとうございます。

さてさて、折角質問してくださる方がいたので、
簡単にわかりやすく、お答えできればと、おもいつつ、時間がたってしまい、
結局、理屈っぽいだけの、お答えになってしまいました。

すみません。
こんなので、いいのかな?
−−−−−−

ご質問ありがとうございます
正直言って、こんなつまらない投稿、誰も読んでくれないよな
と、思っていました。

さて、ご質問の解答に移る前に、この投稿をまとめるに至った経緯を
簡単にご説明します。
 
「おくぎ」と「おうぎ」どうしたらいい?
	投稿でも述べていますが、受験のときに
	おくぎ とルビをふれば × です。
	学校に通う子供を持つと、これは、「どちらでも良い」では
	済まされなくなります。
	子供にしてみれば、
	「学校」と「エホバの証人」では、文字通り、
	使い分けなければならなくなるから です
	
	これは、「奥義」だけではありません。
	「現れる」「表れる」「行う」
	なども
	「現われる」「表われる」「行なう」
	という送り仮名を使用している(していた)ため、
	同様の二重生活?(笑)が生じてしまうのです。

	なお、近年この件について、ものみの塔協会に問い合わせたところ、
「行う」については、すでに訂正して、新しい出版物からは、
正しい送り仮名に換えているとの解答を戴いています。

漢字の送り仮名、読み、というのは、そもそも複雑です。
昔は、「表われる」「現われる」「行なう」が
正しい送り仮名でした。
学校でそう習った方も多いでしょう。

となると、どう読もうが、どう、送り仮名をふろうが、
本文の主旨が変わらないなら、どうでもいいじゃないか!
という見解が生じてくるでしょう。
それで、真理の内容が変わるわけではないのだから…。

なるほど、これは確かにそうだ!
げんに、小説や、歌詞の中にも、作者独特の読みや言いまわしを
使っている物は多いじゃないか!

と、思って、当然なのです。
では、一体、何が、問題なのでしょうか?
と、おっしゃりたいですよね。

はい。
ここで、私の投稿の主旨をもう一度、述べさせていただきましょう。
私は、
「どちらが正しいか」と言う事を問題にしているわけではありません。
「彼ら(エホ証)の心が見えない」と言っています。


心が見えないって、どう言う事?

	では、ちょっと、話がずれますが、

	《 結婚について 》
	エホ証は、信者同士でなければ、結婚を認めていません。
	でも、信者でない人に
	エホ証より、ずっと、心が清らかな人が多い事を
	あなたはよく知っていらっしゃいますよね。
	なのに、心の清らかな世の人との結婚はご法度。
	結婚したら、罰せられます。
	
	幸せになるなら、誰と結婚してもいいんじゃない?
	世の人であれ、エホ証であれ、
	どちらでもいいじゃない?
	
	《 校歌を歌う事について 》
	校歌を歌う時、どれだけのひとが、
	愛校心を燃え立たせているのでしょうか?
	だったら、歌おうが、歌わまいが、
	どちらでもいいんじゃない?
	
	そう、もう、お気づきですよね。
	エホ証には、
	「どちらでもいいんじゃない?」
	という考えかたは、通用しないんですよ。
	
	
何を恐れる?ものみの塔協会
 	さてさて、こんな長い文章、もう読みたくない!
	と、お思いでしょうが、もうしばし、おつきあいを!

	偉大な教えてに聴き従う の本の間違いだらけのルビは、
	旧版のほうです。新版では、訂正されています。

	訂正されているなら、いいじゃないか?
	確かにごもっともです。
	が、今一度、この投稿の主旨を思い出してください。
	彼ら(エホ証)の心が見えない でしたよね。

	訂正されたなら、その旨つたえてもいいのではないでしょうか?
	何故、つたえない?
	あやまるのが、いやだから?
	それも、あるでしょうね。
	でも、わたしは、こう思うのです。

	彼らが、恐れている物に、関係している、と。

	間違いをした人が、訂正してあやまったとき、
	人はどんな反応を示すでしょうか?
	非難? 怒り? 反論?
	それも多いですよね。

	でも、間違いを認め、あやまったひとの、その謙遜な態度に
	賞賛を与える人もおおいのではないですか?

	あの、マリー・アントワネットが、
	ベルサイユに押し寄せた群衆の前に出て、頭を深く下げた時
	怒り、非難、が沸き立ったけれど、
	それでも、頭を下げつづけたその態度に
	人々は、次第に静まり、やがて、拍手さえ起きた
	という、はなしを聴いた事がおありかもしれませんね。

	では、エホ証のなかには、非難する人ばかりなのですか?
	賞賛する人は、一人もいないの?
	
	むしろ、謙遜にあやまった組織を賞賛する信者こそ、
	本当の信者と、いえるのではないでしょうか?

	ものみの塔協会は、神の不興をかう事を恐れているのではなく、
	信者の不興をかう事をそれているのではないでしょうか?

	これじゃ、
	「神の逆鱗」にふれるのも、ごもっともなお話?

なんだか、理屈っぽくて、ますます、つまんない投稿になってしまいました。
それに、まとまって、ないですよね。

最後まで、読んでくださった方、本当にありがとうございます。

もともと、つまらない愚痴です。どうぞ、どうぞ、
聞き流してくだされば、さいわいです。

《編集者より》
これは、「日本語の用法について−−−ミミより」に対する回答です。私はあなたの投稿の主旨はよく理解できると思いますし、その説明もよくわかります。つまり、一言で言えば、エホバの証人とその指導部に心の柔軟性と寛容さがないということ、実際の生活の中でしょっちゅうある「どうでもよいこと」をどうでもよく処理できず、いつも硬直した規則をあてはめ、それを曲げることができない。私はあなたの指摘は、エホバの証人の本質をよくついていると思います。聖書の内容でも、現実の世の中の出来事でも、よくわからないこと、どうでもいいこと、そして単純な間違い、は沢山あります。それをそのまま「ものごとをありのままに見て」受け入れられないのが、エホバの証人なのでしょう。そこに何らかの意味をつけて、理屈を作って、規則を作って、それによって「真理」についている、守られているという自己満足に陥っている人々、それがエホバの証人なのだと私は思います。