「自由と最大のおきてについて」−「質問の答えの補足」

(6-12-03)


 村本さん、本当にご苦労様です。これだけの投稿をみんな読み、
お答えになっていることに驚嘆すら覚えます。私は以前油注がれた
者としてこちらに投稿させていただき、自由と最大のおきてを書い
た者です。貴方の質問に答えたつもりですがご理解いただけたで
しょうか。私は貴方の診断を受けたとして、精神異常と判断されて
しまわないでしょうか。そう思うほど考え方の点で違っている部分
を感じます。決して違うのがいけないなどとは思っておりませんの
で安心してください。

 あなたは「組織の実体」「ものみの塔の教理の矛盾等」を明らか
にすることからエホバの証人の方々を解放したいと考えておられる
ものと理解しております。それに対して私は彼らが描いているエホ
バではなくて、本当に存在されている「真の神」(ギリシャ語で残
されている神の名の最古の発音は ヤオ )について正確に知って
いただくことにより彼らを補足的に助けたいと願っているのです。

 貴方の意見に反対するような事を書くとしても、それは貴方のこ
のサイトにおける目的を阻害するためではなく、むしろ組織から離
れようとする人の精神的な支えを提供できればと願っての事だと理
解してください。誤解の無いようにお願いいたします。それは組織
とは関係なくいつの時代でも真の神は信じるその人のそばにいてく
ださると言うことなのです。そうですあくまで信じる人にたいして
なのです。

>私は神も「進化」して来たと思います。新約のイエスの神は別の
性格をもち、その倫理観も狭いイスラエルの殻を脱出してより普遍
的になりました。しかし、イエスの時代にも女性差別、民族差別、
奴隷制の容認など、今から見ればとんでもない事がやはり「真理」
でした。やはり全ての事柄と同じように、「神」も時代に応じて進
化しなければならないし、聖書自体がそのことをはっきりと示して
います。

  前の投稿にも書いたことですが、真の神は人間の自由意志を最大
限尊重されてきました。ただしご自分の人類に対する目的が崩壊し
かねない時を除いてなのです。ですから神が進化したのではなく、
人類が変化したのに合わせておられるととらえるのが正しい見方な
のです。貴方も神の対応の変化に気づいておられ>聖書自体がその
ことをはっきりと示していますと述べておられますね。そのあたり
は捉え方の違いといえないでしょうか。

 >女性差別、民族差別、奴隷制の容認など......?人類発祥から
現在に至るまで、真の神がそんなことを真理だと言ったというので
しょうか。その当時にすれば律法は女性保護を唱えていますし、民
族差別も約束の胤(イエスまでの血筋)が犯されない限りの範疇で
寄留者も保護されています。奴隷制においては7の7倍の年ヨベル
において解放され売った土地もその人に無償で戻るように決まって
いました。その時代の人間の取り決めを最大限尊重しながら保護の
条令を設けていたのです。

イエスの時代に神が変わったのではなく、イエスは元々の考え方に
戻しただけだったのです。人間が勝手に解釈を変えて血も涙もない
もに変えてしまったのです。今のものみの塔と同じですね。貴方の
いうその時代の真理とはものみの塔の言う真理と同じもので、イエ
スが言われた本当の真理とは別物だと言うことです。

 貴方は私が「貴方の神、主を愛さねばならない」のギリシャ語や
ヘブライ語が命令形で書かれていないと言う情報に注意されていな
かったことが分ります。当然ですがその重要性が認識できていない
からそうなるのです。決して非難しているわけではありません。し
かしそれが理由になって進化などしていませんとはっきり主張もい
たします。
わかりにくいところですが。自由意志のない愛など、それは情欲と
一緒で偶像崇拝と異なりません。聖書は神を知らぬ人は愛を求めは
するが,誤って情欲を追い求めてきたと述べているとおりです。そ
れと同じような取り違えがあるように思います。

  貴方のいう進化は私なりに理解しております。学問としての進化
論に対して何も言う必要は感じません。それこそ自由なことだと思
うのです。しかし勘違いしてはいけないことがあります。進化を証
明できたという発言です。それは医学を生業とする方とも思えない
発言に思います。貴方の言っておられることは人間で言えば黒人が
白人に変化した程度のものではありませんか。それを進化というの
であれば白人優越主義も肯定されるべきかもしれません。大昔に首
の短いキリンがいたとして、現在の首の長いキリンになったことが
進化なのですか。白人と黒人は同じ人間ではありませんか。首の長
さが変わっても同じキリンではありませんか。それを私は変種とい
う言葉で理解していたのですが、現在は小進化と言うようになった
のでしょうか。

  貴方が言われるように進化により偶然にパソコンができたとしま
しょう。これは複雑なパターンが偶然にある形を取ることがある。
たとえば偶然にピラミッドの形と同じ山ができるようなことと同じ
ようなことが電子部品がくみ合わさってできたと考えるのです。
しかしよく考えてください。パソコンの装置が偶然できたとしても
ただの箱にすぎません。ソフトがなければただの箱と一緒です。ソ
フトは誰が入れるのでしょう。

偶然にソフトが入るのでしょうか。そんなことは宇宙が何億回も発
生するような時間がたっても起きない確率論となってしまいます。
エントロピーの法則をご存じのはずです。できあがった箱が偶然ソ
フトを取得する前に砂になってしまいます。簡単な生物も同じ事が
言えませんか。物質でできたパターンと本能のようなソフトで成り
立っていませんか。

もっと単純には植物も動物も同じ遺伝子情報によって形作られてい
るのではありませんか。では遺伝子が偶然生じたというのですか。
これもエントロピーの法則が立ちはだかります。私たち人類は遺伝
子操作が可能な時代になりました。そこで分ったことは遺伝子が外
部要因で容易に破壊されうる事実なのです。そこでは秩序から混沌
に必ず向かっていくという厳正な事実があります。その逆は起こり
ません。有用な変化を求めるとき目的を持って必要なところを操作
しなければ失敗するのです。そこには明らかに理知が働いているの
です。

 また「NHKの人体小宇宙」という番組の中で肝臓の働きに言及した
部分がありました。肝細胞一つのアルコールの解毒作用について説
明したものでした。
人間がその働きをまねをして、化学工場で同じ事をしようとすると
どうなるでしょう。
1万ステップ以上の反応を処理しなくてはならず関東平野がすっぽ
り入るほどの工場群が必要だとのことでした。信じられないような
事実が語られていたのです。

肝細胞の働きはアルコールの解毒だけではありません。全部の働き
を置き換えたらどうなるのでしょうか。村本さんはどう思われます
か。

こうした科学的な事例をあげればあげるほど偶然に生物が進化に
よって発生したと考えるのは無理があるのです。ただし私は常に有
神論的な立場から物を言っているのであって学術的な無神論的立場
でものをいっていないのはご理解ください。 無心論的な立場から
科学者は地球上に遺伝子の発生があり得ないことを感じて、宇宙に
目を向け彗星のしっぽの塵をとってきて有機物の有無を探したりま
じめに行っているのです。そしてそれは正統な学問で支持されるべ
きものだと考えます。

 最後に私の考えをまとめておきましょう。村本さんが神が進化し
てきた。それが聖書にはっきり示されているという主張に対して、
私は神の側に進化はない。人類の側が変化しただけであると主張し
ているのです。あくまで人類の自由意志による行動に対して神の側
が合わせてくださっているのだとの主張です。その証明として前回
の投稿では人間の王を神が容認したことをあげて説明しました。神
はその時代の王たちの権利を説明しています。
しかしそのことと対比して律法は良く読むと現代のどの法律体系よ
り優れているかもしれないと言う事実。弱いものに対する保護が必
ず盛り込まれている思いやりにあふれたものだという事実です。そ
れはイエスキリストの思いやり深さと共通のものが流れているので
す。注意して読み直してみてください。

つぎに進化が証明されているとの主張に対して、まだ生物(動植
物)の自然発生は進化論では説明不可能であろうということ。また
証明もまだされてはいないという主張です。村本氏の言われる進化
とは変種の可能性に関するものと理解しました。(進化という言葉
には生物の自然発生の原理も含まれる言葉と理解しております)

これはあくまで私の私見です。これが真理だなどとは申しません。
こんな考え方も存在するのだという理解をお願いいたします。誰も
が旧約の神を恐ろしい、すぐ怒りを表し人々を滅ぼしかねない恐ろ
しい存在と感じているのを知っています。しかしそれは既存の宗教
団体が人々に植え付けてきた自由を無視した間違った見方であるこ
と。この辺の事情からエホバの証人の方々の神に対する理解に
ショックを与えることが解放のきっかけにならないだろうかと考え
ているのです。村本さんの思考に新たな一面を加ええるきっかけに
なったのなら幸いなことと思いますがいかがでしょうか。今後もど
うぞ宜しくお願いいたします。


《編集者より》
これは「自由と最大のおきてについて」−「ご質問の答えです」の投書を下さった方からの、編集者に対する更なるご意見です。まず、あなたが精神病であるとは私は思いませんのでご安心下さい。また意見や見解の違いは人として当然のことであり、特に気分を悪くする事もありませんので、自由に意見を述べてくださって結構です。

あなたの論点の第一は、神と宗教が時代と共に変化することに関してです。宗教の教義も神の概念も、時代と共に変化してきたことは、歴史の事実であり、もちろんそれは人間の変化に伴うことです。つまりあなたも言うように、人間が時と共に変わり、それに合わせて神も変わってきました。人が進化したとすれば、これに合わせて神も進化したと言っていいのではないでしょうか。あなたは、これを元に戻っただけだと言いますが、(“イエスの時代に神が変わったのではなく、イエスは元々の考え方に戻しただけだったのです”)たとえイエスが神の「再発見」をしたと解釈するにしても、そのこと自体がそれまでの時代に無かった新しいことであることは否定できません。イスラエル民族の守護神であった神(ヤーウェ、エホバ、と言われる神)は、イエスとパウロによってイスラエル民族を超えた異邦人の神にもなりました。この飛躍は、それをどう説明するにしても、神の大きな変化であることは否定できません。

奴隷制度、女性差別が許されない行為であることは、現在、クリスチャンの大部分を含む多くの人が認める揺るぎのない見方ですが、聖書当時にそのような自明なことが認識されていなかった例としてあげました。聖書の神もイエスも、奴隷制度を推奨しているとは思いませんが、聖書の観点は奴隷制度に対する現代の視点には到達していません。

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。(エフェソの信徒への手紙 6章 5-9節 −新共同訳)

主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。(コロサイの信徒への手紙 4章 1節)

奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。 (テトスへの手紙  2章 9-10節)

事実、聖書のこれらの部分は奴隷制度を正当化する人々によって繰り返し引用されてきました。もちろん、私はこの部分が奴隷制度を正当化するとは思っていませんし、奴隷制度を推奨するメッセージでもありません。主旨は、奴隷も奴隷主も共にキリストに仕えるように現実の任務を行ないなさいという、実に素晴らしいアドバイスであると思います。しかし、ここで重要なことは、奴隷主に対して、奴隷を所有し使用することがどれだけ悪いことであるかの戒めが一切ないことです。それも当然でしょう。奴隷を使うことは、その当時の社会では当然のことだったからです。これが、聖書がその時代に縛られた「真理」を語っているという、聖書の限界のよい例なのです。あなたは聖書に奴隷の保護に関する記述があると述べていますが、それは本質ではありません。われわれは現在、奴隷は単に「正しく公平に扱う」だけで済まされるものでもなければ、「保護される」べき存在ではないことを知っています。奴隷は絶対にあってはならない人間の生き方なのです。

なぜ、奴隷制は現在、絶対に容認されない悪なのでしょうか。それはある人間が別の人間を単なる道具として扱い、道具として扱われる人間(奴隷)の人間としての尊厳と自由を奪うからです。奴隷制度が間違っていることは、キリストの教えたゴールデンルール、すなわち、「あなたがして欲しいように他人にもしなさい」という教えに内在していますが、聖書の時代もその後千年以上も、この教えが奴隷制度に当てはめられることには誰も気がつかず、人々は戦争で負けた人々、征服された人々、あるいは単に財産として奴隷を所有し、上の聖書の言葉に祝福されて、何も悪いことをしているという罪悪感はありませんでした。奴隷制度が真に間違った習慣であると言う見方は、聖書からではなく、18世紀の倫理学者、哲学者であるエマニュエル・カントの新しい倫理観によると考えられています。その後、この見方は人々に広く受け入れられ、現在では上記の聖書の記述にもかかわらず、クリスチャンの大部分は、人間が人間を奴隷として使用することは、根本的な悪であることを認めています。この「真理」は、確かに聖書に内在はしていますが、カントによって指摘され、その後の人々の真剣な考察によるまで、明らかになりませんでした。パウロはエフェソやコロサイの信徒に対して、たとえば、次のように言うことはできたはずです。「奴隷たち、あなた方はキリストによって自由になったのと同じ様に、あなたの肉の主人からも自由になるべきです。主人たち、あなたがたが奴隷を使い続けることは間違いです。奴隷を解放し、キリストにある同胞として、自分と同じ様にその自由と尊厳を尊重しなさい」。しかし、このような視点は聖書にはありません。これは、聖書だけが「真理」なのではなく、その外に人と一緒に発展し、進化する、道徳感から来る別の規範があることを端的に物語っています。

進化に関しては、進化の現象は、生物学的にはっきり定義され(集団の遺伝子プールの中の対立遺伝子頻度の一世代から次の世代への変化)、これは生物学的実験で証明され、観察されることです。これは勘違いでも何でもなく、進化が科学の概念である以上、科学によって議論することは当然ではないでしょうか。(“しかし勘違いしてはいけないことがあります。進化を証明できたという発言です。それは医学を生業とする方とも思えない発言に思います。”)それから、私はどこにもパソコンが進化で偶然にできたと言ったことはありません。(“貴方が言われるように進化により偶然にパソコンができたとしましょう。”)私だけでなく、一体パソコンやソフトやピラミッドが偶然出来たと言った人がどこにいるのでしょうか。聡明なあなたでも、この進化の議論になるとどうやら感情的になって、話が支離滅裂になってくるようです。でも、別にあなたをそのために非難する積りはありません。大部分の進化の概念を攻撃する人たちは、自分が何を攻撃しているかを把握していないからです。そのような人々の心の中にあるのは、ものみの塔の1914年の教理と同じ様に、信仰の鍵となる聖書の創造が文字通りでないとすると、自分の信仰が崩れるのではないかという恐怖にかられて、エホバの証人が自分たちの教義と違う見方をする人々に感情的な攻撃をかけるのと同じ様に、むやみに進化を否定するだけなのです。

あなたの進化についての理解で、最も初歩的な間違いは、あなたが頻回に使う「偶然」という言葉です。進化には全てそれに相応する原因があります。遺伝子情報も、肝臓の解毒作用も、全て「偶然」ではなく、「必然」によって進化したものです。もしあなたが単なる攻撃対象としてでなく、真剣に、誠実に、進化というものを理解しようという意志があれば、進化は「偶然」ではないということをその理解の第一歩として下さい。(“偶然に生物が進化によって発生したと考えるのは無理があるのです。”)進化の問題は、エホバの証人問題を超えた大きな問題で、対象となる読者が広がるだけに、これ以上ここで議論しだすと収集がつかなくなりますので、この対話はここで終わりにしたいと思います。

なお私の立場は決して聖書を否定したり、無神論を奨励したりするものではないことを理解して頂きたいと思います。私の一貫した立場は、聖書を文脈から切り離して、自分の都合のよいようにあてはめ、自分や自分の団体の行動の正当化に使う、聖書の濫用に警鐘を鳴らしているだけです。現代の様々な問題に、自分が好きな聖書の聖句をこじつけて、いかにもエホバがその状況でそう教えているかのような錯覚を起こさせるものみの塔がそのような濫用の典型ですが、この点において、ものみの塔と連帯感を持つ他宗教の人がいる可能性があることは私も充分承知しております。しかし、その人たちとも議論を展開すると、私の本来の使命であるエホバの証人問題に取り組めなくなりますので、これ以上のエホバの証人を超えた議論は、ここで終わりたいと思います。

最後に私とあなたは幾つかの重要な点で見解の違いがありますが、私は真剣なあなたの態度に心から敬意を表し、幾つもの興味ある投書を頂いたことに厚くお礼申し上げたいと思います。


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