「本物とニセモノの「権威」を見抜く」−フリーダムより

(6-11-03)


「あなたの体を切り刻んでもいいですか?」こんな事聞かれたらだれでも拒否するのに、そ
れを簡単に許してしまう場合があります。それは病院での手術のとき。その時私たちは手術
してくれる先生の「医師」としての権威を信用するので安心して自分の体をその先生にゆだ
ねる事が出来るのです。たいてい私たちはその先生が「本物」の医師であると信じているの
で,手術の前にわざわざ本物か,偽者かなど確かめようとなどしません。むしろ、その人が
「白衣」を着て自分の前に現れただけで「この人が私に手術をしてくれるんだ」と思ってし
まうのです。本物の医者である,このページの管理者「村本さん」には怒られるかもしれま
せんが、じつはこの「フリーダム」も「本物の」医者だと信じ込ませる事が出来ると思いま
す。少なくとも手術の直前までは。まず必要なアイテムはさきほどの「白衣」です。ついで
に「聴診器」でも肩からぶら下げてみるのもよいかもしれません。もしかすると堂々と自信
ありげなふりをしてこの白衣を着るだけで,信じてしまう人がいるかもしれませんね。それ
と「肩書き」有名大学の医師としての推薦状とか医師としての名刺も作ってしまいます。あ
る程度の「医学用語」もおぼえてその人の前で使ってみましょうか。それと、それとなく患
者さんの目に留めてもらうようなむずかしい「医学書」を本棚に並べてみる事もよいかもし
れません。それと・・・。これ以上書くと「村本さん」がもう二度と私の投稿を載せてくれ
なくなるので・・・・。やめておきます。
 
自分に「本当の権威」がないのに、いかにも自分に権威がありそうなふりをする、その方面
での「専門家」に思わせようとする。そう,相手をだますために一番効果的な方法「基本中
の基本」とはなんでしょうか。それは,相手に自分が「誠実な人間」だとまずアピールする
ことです。いろいろな詐欺事件に巻き込まれてしまった被害者たちに共通する、犯人に対す
るイメージはそのとき本当にその人が「誠実そうに思えた」という印象です。
 
「服装による影響力の効果」このことは多くの分野のニセモノの権威者が利用している手法
です。ある特定の服を見るだけで私たちはそこに、ある「権威」があるように見えてしまっ
たり、「誠実さ」を感じてしまうものなのです。組織が成員にあれほどまで細かく服装のこ
とで「意見」するのにはわけがあるのです。そう,それはまず家の人たちに「エホバの証人
を誠実そうに感じさせるための」ひとつのテクニックなのです。最近改定された新しい「神
権宣教学校の案内書」のP131ページ「整った身なり」の項目には次のように書かれてい
ます。
 
○「清潔で身だしなみが良いと,他の人はあなたのことを自尊心のある人と判断し、あなた
の言葉に耳を傾けようという気持ちが強くなるでしょう。ふさわしい服装をしていれば,あ
なたが代表する組織も好ましく映り,あなたの崇拝する神に対する聞き手の見方も見方も良
い影響を受けるでしょう。」
 
自尊心のある人というよりも「誠実そうな人」という印象を与えたいのが組織の本音です。
そして,書かれてあるようにそれは、あなたが「代表する組織も(誠実そうに)好ましく映
る」効果があるのです。筒ましそうな服装を成員が選ぶ時,組織そのものが誠実だと感じさ
せるための片棒を担ぐ役割をさせられていることになるのです。神権学校の案内書の中にあ
る,さまざまな項目を改めてみてみると相手に誠実そうな印象をアピールするための具体的
なテクニックのオンパレードである事がわかります。いくつかの項目を挙げてみると「抑揚」
「熱意」「温かさと気持ちをこめる」「身振りと顔の表情」「自然さ」「声の質」「相手に
対する関心」「確信をこめて話す」「巧みに,しかし確固とした態度で」「心を動かすため
の努力」などなど、悪徳商法,催眠商法などのセールストークマニュアルと同じ内容のもの
を組織は成員に徹底的に訓練を施すのです。そう,「裏のある誠実さ」を身につけさせるた
めに。なぜこのような巧妙なテクニックが「真理」を伝えるために必要なのですか。本当に
このような巧妙なテクニックを身につけない限り,真理は人々の心に伝わってゆかないので
しょうか。「神の言葉は生きている」のではありませんか。それは共に「力をも及ぼす」の
ではありませんか。(テモテ第二4章12節)本当のところ組織の教えは神の言葉でないゆえに、
その教えは「死んでいる」ので、そのように飾り立ててカモフラージュしないと真理のよう
に見せかける事が出来ないのです。あらゆる知識に通じた人でも,あらゆる技術にたけてい
たとしても,あらゆる美辞麗句を並べられたとしても、その人に本物の「誠実さ」がないな
らば私たちはその人に近づきたいと思うでしょうか。その人を「権威」ある信用のおける人
とみなしますか。
 
自分の側の落ち度や欠点を正直に伝える時、逆に相手に自分の側の「誠実さ」を訴える効果
があります。そしてさらには自分が「権威」ある人であるということも。ただし,それには
ひとつの条件があります。それはその落ち度や欠点が「小さなもの」と相手に受け取っても
らわなくてはならないのです。「少々,キズがありますが・・・」などといってあらかじめ
自分の側の欠点を伝えてしまう、着物販売や家具のチラシ広告を見たことはありませんか。
このチラシを見た人は「小さなキズはあったとしても、商品の「品質」そのものは良いもの
だろう。この商品を取り揃える会社も恐らく買い手に「粗悪なもの」は紹介などするはずが
ない。」と勝手に考えてしまうのです。
 
組織は自分たちが今まで一度もミスをした事がないとは言いません。といってもそれは「小
さなミス」だったと訴えるのです。この小さなミスだとして公表する事,この事は組織にと
ってどのような効果をもたらすのでしょうか。組織に対する評判を落としますか。いいえ,
それどころか小さなミスを公表する事によって逆に成員に組織の「誠実さ」をアピールする
事になるのです。スーパーで買い物をしているとき、店長さんが「あっ,奥さん。それはま
だ買わないほうがいいよ,それはもう時間がたって新鮮じゃないから,あっ、そう,明日新
しいのが入荷するから待っていたほうがいいね。」なんて言われたときのことを想像してみ
てください。この店は新鮮でないものを売っているといって信用しなくなり,もう店を訪れ
る事をやめてしまいますか。それとは逆の効果、正直な店長の誠実さを感じ、ますますその
店を信用し利用するようになるのです。そしてこの事はさらなる効果ももたらします。それ
はお客にとって店長が優れた商品知識と商品管理を行っているという「スーパーの店長とし
ての権威」も保証する結果となるのです。「新鮮じゃないから」というある意味で店側とし
ては不利な情報も大きな利益をもたらす効果があるのです。組織は自分たちが今まで間違っ
た教理を打ち出していたということを公表します。しかし,それは自分たちの大きな真理か
ら比べれば大したことではない小さなミスだと弁解するのです。「論じる」の本、「偽預言
者」の項目、P352には次のように書かれています。
 
○「これまでに見解を正す必要があったのは,証人たちが認識し、公に知らせてきた聖書の
重要な真理と比べれば,それほど重要ではない事柄でした。その重要な真理の幾つかは次の
通りです。・・・・。」
 
自分たちも「不完全さ」ゆえのミスも犯す時もあるし、王国に関する「熱意」ゆえにミスも
犯すのだと。そしてそれはちょうどヨットレースの「タッキング」という操舵方法に似てい
るのだと。間違って抱いてしまった「期待」もそれは成員に絶えず霊的食物を備えるための
「熱心さのあまり」だったんだと、そこに組織の誠実さをアピールするのです。そしてタッ
キングのように間違えてもそれは絶えず調整されてゆくし,逆に聖書に対する研究者として
自分たちだけが「ずっと見張りつづけており」いつも確かめながら注意深く調べている証拠
だという「印象」を与え,成員はそこに「霊的食物を提供するだけの権威」がそこにあるの
だと結論付けるのです。(論じるの本P352ページ参照) 
 
ブルックリンの建物にいる人たちには本当に聖書を解き明かし,教えるだけの「権威」がそ
こにあるのでしょうか。本物の「権威」か、それともニセモノの「権威」なのか,それを確
かめる事は出来るのでしょうか。組織はそこに「自分たちには「聖霊の任命によって」裏打
ちされた,エホバ神からの「推薦状」がある。」と言います。そして「統治体」としての
「肩書き」も。その権威を見抜く簡単な方法があります。それはその人たちに成員に対する
本当の「誠実さ」が感じられるのかという点です。
 
その人に近づいてくる時,本当の目的を知らせないで近づいてくる人がいたとしたなら、そ
の人は不誠実です。組織は伝道活動の際、「幸福な」家族生活をしてみませんかといって近
づいてきます。「幸福な」人生を見つけてみませんかと言って近づいてきます。ここで組織
のいう「幸福」とは何かということが問題になってきます。組織の指し示す幸福とは家族が
毎週毎週五つの集会に参加することを義務とし、そのための準備で予習と個人研究に相当の
時間をさき,家族全員で布教活動に明け暮れる、そして親として子供の人生を組織の拡大の
ために「捧げる」ことが幸福なのです。しかし組織は家の人にこの事を言いません。家の人
が抱く幸せな家族生活のイメージ、それはテレビドラマ「大草原の小さな家」などでみられ
る、インガルス家のような暖かい家族の姿なのです。「組織のいう幸福を前もって知らされ
ていたならば,自分はあの時研究に応じていただろうか」,そう自問してみると答えがハッ
キリしてきます。
 
ある「約束」をしておきながら、それを破る人、「そんな約束したっけ」などと常識的な責
任を取らず、とぼけるならその人は不誠実です。「あなたは地上の楽園で永遠に生きられま
す。」この約束を信じたまま私の父親は亡くなりました。だれもが自分が生きている時にこ
の約束が果たされると信じて生きてきました。ナチスドイツのエホバの証人があれだけの苦
痛を耐え忍ぶ事が出来たのはなぜでしょうか。それはあと数年後に楽園が来るという当時の
組織の約束、預言を信じたからです。あれから半世紀近くが過ぎたまま,組織はまた同じこ
とを繰り返しています。組織のために自分の人生を捧げる価値を一生懸命組織の中の若者に
説いていきます。定期的に雑誌の中で登場してくる「宣教者たちの経験談」決まって最後は
「自分たちは自分たちが選んだ人生を振り返ってみる時,そこにエホバからの豊かな祝福が
あった。」「何よりも今までに自分たちが生み出してきた何人もの霊的な子供たちを見ると
き大きな喜びと満足感を感じ取る事が出来ていますと。」会衆の中にはその経験話を信じて
組織のためにすべての人生を捧げてしまった高齢になった兄弟姉妹たちが大勢います。東京
三田にあるべテルホームにいったい何人のそうした組織のために人生を捧げてしまった人た
ちが招待されるのでしょうか。もうほとんどの、そのあとの高齢になった兄弟姉妹たちのア
フターケアは一切なされていません。この村本さんのホームページで明らかにされているよ
うに、組織は毎年株式会社として多くの利益をあげています。その利益は今現在高齢になっ
ても若い時そのすべての時間と能力を捧げた兄弟姉妹たちの無償で捧げた人生のおかげなの
ではないでしょうか。その高齢になった人たちが年金も積まず、アルバイトのわずかな収入
で貯金も出来ず過ごしてきてしまったとき、組織は莫大な利益をその人たちのためのアフタ
ーケアに当てることもしません。その時になって,経済的に困窮しても、病気になって多額
の医療費が必要になった時でも、「何らかの政府の公的機関で申請して援助を得られるので
は」などと言ってとぼけてしまうのです。それらの人を「使い捨てカイロ」のように扱う組
織,そこに誠実さが感じられますか。
 
自分の本当の正体を知ってしまっている人たちからの「隔離」つまり成員の中に「情報をコ
ントロール」する組織。そこに誠実さを感じない以上の「したたかさ」を感じ取るのは私だ
けでしょうか。2003年7月22日号「目ざめよ」誌「ポルノ 無害か有害か」にはインター
ネットがどれだけ霊的に危険なものであるかを,相変わらず訴えています。そこに描かれて
いるのは,真っ暗な部屋の中で妻に見つからないようにノートパソコンをこっそり見ている
夫の姿があります。組織がポルノをあれだけ頻繁に取り上げ利用しているのは、ひとつは
「高い道徳基準」をもうけて成員が隠された罪を抱え込ませ,常に「罪悪感」や「自分に偽
善者としてのレッテル」を貼るよう仕向けさせることと、もう一つの理由はインターネット
がどれだけ危険なものであるかを警告し,その「本音」は自分たち組織の本当の正体を知ら
れたくないがゆえのポルノを利用した「情報操作」です。王国宣教2002年9月号「無価
値なものを追い求めないようにする」ではわざわざ自分たちの「エホバの証人公式ウェブサ
イト」のメールアドレスを公表していますが、これは成員が「公式ウェブサイト」を見てみ
たいと思って検索エンジンから「エホバの証人」と打ち込んで検索ボタンを押さないように
してもらうための苦肉の策と言えるでしょう。そう、この「エホバの証人情報センター」の
文字が成員の目の中に飛び込んでしまわないように。
 
本物とニセモノの「権威」を見抜く、私はそこに「誠実さ」があるかどうかで判断するよう
勧めます。本物の権威がある人に「服装」だとか、「話し方」とか下手な小細工や芝居など
はまったく必要ありません。私が組織を離れてからお会い出来,話し合う事の出来た人たち
は,皆誠実で謙虚でそこに「権威」を感じ確かめることの出来た人たちでした。神奈川の相
模大野教会の「中澤牧師」にお会いするため、私は組織を離れてからたしか2ヶ月目ぐらい
の頃大野協会に朝早く訪ねて行きました。中澤牧師の服装はものみの塔が大いなるバビロン
の「キリスト教世界」のなかで描き出されている極端にきらびやかに着飾った服装などでは
なく、白いシャツとズボンをはいた「どこにでもいるおじさん」と言うような感じでした。
中澤牧師は私が次々と浴びせる質問に聖書から、また組織の出版物からの矛盾点を次々と説
明してくれました。すごい聖書からの知識とエホバの証人に関する知識の豊富さに圧倒され
た感じでした。結局その日は朝からろくな昼食も取らず(教会側が食事を用意してくれたの
ですが,もう食べる時間も惜しくて,のどを通らないという状態でした)夕方の遅い時間ま
で話し合い、中澤先生の貴重な時間を割いていただいたのでした。その後も中澤先生はまだ
組織にとどまっている私の家族のために多くの時間を割いていただきました。わざわざ私た
ちの家族のところまで足を運んで来て話し合ってもらったこともあります。私は中澤牧師の
ように自分の人生を「見ず知らずの日本のエホバの証人」のために捧げてきたその姿勢に
「本物の誠実さ」を感じ取ると共に、そこに「本物のキリスト教の教えを聖書を用いて他の
人に教える」という「牧師としての高い権威」を喜んで認めます。そしてエホバの証人に関
する「専門家」としての「権威」も。そしてその他お会いしてくださった方々にも,ウイリ
アム・ウッド師、神戸の岩村牧師、にもこの投稿を通じ本当に感謝をお伝えすると同じに、
誠実さ,本物の権威を感じ取ります。
 
そして,何よりもこのサイトを運営,維持されている「村本さん」私は村本さんに医師とし
ての権威だけでなく,「エホバの証人に関する専門家」としての「権威」があることを感じ
ざるを得ません。そしてそれぞれの投稿に後に書かれる「コメント」から村本さんの「誠実
さ」が何よりもひしひしと伝わってくるのです。今までの村本さんのこのサイトを運営維持
するための今までの気苦労に本当に感謝申し上げます。ぜひお体にも気遣いながら,これか
らもこのサイトを維持しつづけていただければと思います。このサイトは今までの「元エホ
バの証人」や「現役証人」の心を癒しつづけ、そしてこれから先の将来のエホバの証人が
「真理」を見出し、その真理が「本当の自由」を見出してゆくことに大きな役割を持ってゆ
くに違いありません。
 
pfreedom@nifty.com

《編集者より》
いつも過分のお言葉を頂き、恐縮します。私は決して「専門家」でも「権威」でもありません。私は脳の専門医であるだけです。私も皆さんと同様常に模索しており、むしろ「権威」から離れた所に物事の実体が存在することを何度も経験しています。このサイトに何度も投稿して下さった長老が言ったように、「ものごとをありのままに見る」こと、つまり「権威」の解釈から離れて独自の視点からものごとを見て考えることの重要性を、自分の専門領域でも、また宗教問題でも、いつも感じております。


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