「JWシンドローム(奉仕によせて)」−CIAより

(6-11-03)

賛美の歌と呼ばれている200曲を越える歌の中に、未だに納得できないでいる歌詞があり
ます。「・・・奉仕は喜び・・・」というものです。本当に喜んで奉仕をしている(伝道を
すること)人は、どのくらいいるのだろうか。この部分を歌うたびにこの疑問が頭の中で幾
度と無く繰り返されて、つい歌いながら周りを見渡す癖が付いてしまいました。
 成員80名前後のこの会衆に、月の12日前後にはすでに目標時間に達している姉妹が一
人いました。開拓奉仕をされていた方であれば、当時月に90時間の奉仕が月前半で終了し
ていることが、どれほど大変なことであるか、容易に想像がつくことでしょう。
 この姉妹は、月平均120時間程度の奉仕時間を報告していました。群れの司会をしてい
た私は、はじめ奉仕時間を間違えていると思って、前半の報告時に確認したことがありまし
た。
 たまたま私の勤務先が区域の中にあって、頻繁にその姉妹が奉仕をするために自転車で走
り回っているのを見ていたことを思い起こし、納得した覚えがありました。
 群れの奉仕で一緒に組んだ時に、姉妹に感謝しながらその理由というか、動機を尋ねてみ
たものです。
 
 さして健康ではない姉妹が、これほど熱心に奉仕をする動機が、会衆のほかの成員に励ま
しになればと思ったのです。
 
 ところが姉妹の答えは私の意表をつくものでした。
「時間があるから、何となく奉仕しているうちに時間が入ってしまうんです」
 燃えるような使命感とか、奉仕が何より好きとか、多くの人を一人でも救いたいとか、そ
んな答えを待って感謝しようとしていた私の思惑は、じつにあっさり覆されてしまいました。
 
 このことは「奉仕」というものの性質、個々のとらえ方を実に端的に表しています。
 つまり、月に120時間以上の奉仕を何年も続けている姉妹でさえ、喜んでしているわけ
ではないということです。
 もちろん、司会者に尋ねられて謙遜で言ったということも考えられるのですが、一緒に奉
仕している時も、楽しんで、喜んでというより、淡々と義務を果たしているような印象を受
けたものです。
 実際に奉仕で玄関の戸をたたく、あるいはブザーを鳴らすという行為は、何度やっても慣
れることはなく、極度の緊張を伴います。
 区域が堅い(反応が悪い)ところでは、エホバの証人だとわかった時点で、露骨にいやな
顔をされて、紹介の言葉も終わらぬうちに、目の前でドアを閉められるのです。
 苦労してやっと紹介の言葉をつくり、ノートに書き留め、ついに1回も満足に言えなかっ
た経験を持つ奉仕者は、実に多いのです。
 理由は簡単です。私たちが良い便りとして伝えている音信は、聞く人にとっては、良い便
りどころか、もたもたしているとおまえは滅びるから、今のうちにエホバの証人になった方
がいいぞと言われていることと同義で、話を聞かないとなると、心の中で、あとでほえ面か
くなよ、ARMAGEDDONで真っ先に滅びろ!と言いながら次の家に向かうのです。
 
 これで奉仕が楽しいなどと本気で思っている人がいれば、天的希望を持っているか
(144,000人のイエスと共に世界を統治すると考えられている級)よほど鈍感なのか、ある
いは奉仕が楽しいもの、つまり反対やあざけりや、無視や、攻撃を楽しいと感じるよう、イ
メージコントロールされた人ではないかと思います。
 マインドコントロールと似ていますが、洗脳よりもう少し浅い、感じ方のコントロールと
いう意味合いです。
 感じ方のコントロールは本人にその自覚が全くなく、その後の洗脳が大変行いやすくなる
という、きわめて危険な前段階なのですが・・・。
 これが「・・・奉仕は喜び・・・」と歌われる歌詞の本当の意味であるように思うのです。
 
 それでも暑い日差しの中、冷たい雨の降る中、強風で飛ばされそうになりながら、戸を叩
いている奉仕者の姿を見ると、その信仰の深さと、その純粋さと、その背後に奉仕者が振り
捨ててきたものが見え隠れして、思わず視界がぼやけたことも数知れません。
 
 「兄弟、ご相談したいことがあるのですが・・少しお時間よろしいですか」
 「どうぞ」
 「実は、奉仕のことなんですが、もう少し奉仕の質を改善したいと思っているんです。ど
うしたらよろしいでしょうか」
 「姉妹、いつも本当に熱心な奉仕をされていますね。ありがとうございます。ところで奉
仕の質を改善したいと思われているようですが、もう少し具体的に話していただけますか」
 「はい、私は年輩の人の前に行くと気後れしてしまって、思うように証言できないんです」
 「正直に話していただいて感謝します。では姉妹の奉仕の質を改善するためにどんなこと
ができるか、一緒に考えてみましょう。{論じる}の本を持ってきていただけますか」
 
 神権宣教学校に何回か出席したことのある方なら、この会話は実演の台本であることが、
お分かりになると思います。
 これは以前私が扱ったプログラムで、奉仕の質を改善するという主題での実演の原稿です。
 このあと論じるの本から、年輩であっても恐れることなく証言するための言い回しを選び、
最後に聖書から引用成句を提示して実演を終わるのです。
 
 この会話自体全くの絵空事ですし、長老や僕にこんな相談をする姉妹は皆無に等しいので
すが、この設定をステージの上だけのことだと割り切っています。
 またここで与えられる提案や助言もまた、ステージの上だけで通用するもので、現実の奉
仕では実演通りうまくいくことなど絶対と言っていいほどありません。
 これもまた、全員知っていることです。
 つまり、あり得ない設定で、全く役に立たない提案を聞いて、これで奉仕への熱意をかき
立てようとしているのです。
 
 たとえばアメリカに旅行するのに、言語体系さえ異なる、さらに今は使われていない、ラ
テン語を学んでいるようなもので、これでアメリカで会話ができるなどとは誰も思わないで
しょう。
 これでアメリカへの旅行が楽しくなるはずもなく、無意味な時間の浪費に怒りさえ感じる
はずです。
 
ところがこれを組織の愛の具現だと称して、ありがたがり、さらに役に立たない提案を実際
に行ってみることを強要されるのです。
 司会者は人数が奇数の時は、一人で奉仕することが多いので、自然と一人で奉仕をする機
会が多く、協会の提案を1回試しただけでやめてしまい、トピカルなニュースや、雑談から
自己流の奉仕をして、その方がはるかに効果的な奉仕ができたと思っています。
 それでも二人で組んで奉仕する時には、組織の提案をおうむの用に繰り返し、徒労に終わ
ることがほとんどでした。
 
 奉仕は楽しいというイメージコントロールは、ちょチとしたことではずれることがありま
す。
 たとえば、体調が悪かったり、何らかのトラブルを抱えていたり、そういう時奉仕は苦痛
以外の何者でもありません。
 だから、奉仕の出てこない人を、言外に認めなかったり、心理的な距離をとったり、交わ
りに誘わなかったりという、陰湿ないじめを行うのです。
 それも「あまり霊的に活発でない人は距離を置くように」という組織の提案が格好の口実
になります。
 本当に奉仕が楽しければ、人が出てこようが休もうが、関係なく奉仕を楽しめばいいので
す。
 楽しいと思わされているその歪みが、会衆内に蔓延していて、その中で一致だの愛だのあ
るわけがないのです。
 
 あるのは、なんとかして月末までに、目標とされている奉仕時間を消化すること、できな
ければ、来月余分にやるからと自分に言い聞かせて、数字を書き直すのです。
 来月は来月で、楽しくもない奉仕を積極的に行うはずもなく、いつも通りのペースで、結
局時間が足りず、翌月から回して数字を埋める・・・それでもいくらか残っている良心が痛
むので、いつも気分が晴れない・・・これで現実的に見て、奉仕が楽しいとは考えられませ
ん。
 
 だからこそ正規開拓者は、妙な特権意識に思い上がり、会衆内で幅を利かせ、僕の言うこ
となど聞こえない振りをし、長老の取り決めに影でこそこそ文句を言って回るのです。
 またそういう立場にあこがれる人もいて、奉仕になど出てこないのに、開拓者としての名
前だけで、しがみついている人も多いのです。
 一般のキリスト教の教会では、宣教師という特別に訓練された人がいて、教区の宣教活動
に専念していると聞きます。
 一般の信者は、不必要に時間を気にしたり、強迫観念におびえることなく、キリストへの
心からの愛を培うことができると聞いています。
 話半分にしても、なんと自由で、心からの神への賛美を捧げられるのでしょう。
 
 「・・・奉仕は喜び・・・」の歌が今日もどこかで流れているでしょう。
 本当の喜びの日が彼らの上に訪れる日が来るのでしょうか。

《編集者より》
奉仕は本来自発的なもののはずですが、それを組織だって時間数や競争意識によって義務としてしまったのがものみの塔のやり方です。その歪みの結果があなたの書かれたような、不可解な行動を生むのでしょう。人間の不完全な組織がエホバの名を借りて、信者の義務を作り上げて押し付けている所に、その問題の本質があると思います。