「自由と最大のおきてについて」−「ご質問の答えです」

(6-5-03)

>《編集者より》
>これはエホバの証人の教義の問題ではありますが、その背景には
より深い人間の自由意志と神の意志との関係の複雑な問題がありま
す。神が全てを支配して絶対的な存在であれば、人間の自由意志は
なくなるし、逆に人間の自由意志を最大限尊重しているとすれば、
神の意志はどこに現れるのかという問題になります。イエスキリス
トへの信仰が、人間の組織へのくびきを解いて、真の自由を与えら
れる道であるというのがあなたの結論ではないかと思いますが、そ
の結果で問題になるのは、自由意志を使う個人の責任と、その自由
意志を与えて制限しなかった神の責任とのバランスになると思いま
す。これはエホバの証人問題を超えた深遠な問題で、今は論じるこ
とは控えたいと思います。

>なお、冒頭に『「些細なことですが」−神の容認する罪を投稿さ
れた方を始めとしてみなさんの中にあまりにも基礎的な概念を知ら
ないため聖書の読み方がわからない』と書かれていますが、その真
意はどういうことでしょうか。あの投書はダビデの罪を神が容認し
ていることを問題にしているわけで、それがダビデの自由意志とし
て容認されたと考えるのでしょうか。しかし、それであれば他の人
が同じ罪を犯した時にはなぜ容認されないのでしょうか。ここの所
をいつか、手短に説明してくだされば幸いです。

 ご質問にお答えいたします。

いつも私の分りにくい変わった意見をまともに扱っていただき感謝
いたしております。貴方は聡明な方なので順序立ててご説明すれば
理解してくださるものと信じております。

 お気づきだとは思いますが神という絶対的な存在を認め信じてい
る立場でものをいっております。申し訳ありませんがそのことを前
提におつきあいください。

次に聖書に対する見方ですが、聖書が一字一句神の言葉であるとは
考えておりません。
私は聖書の中に神が直接語られた場所のみが神の言葉であると考え
ております。
またイエスに関しても同じようにとらえております。パウロが独身
がよいと言ったような発言はやはり人の考えだと理解しておりま
す。

さて今回の貴方のご質問は法的な問題がかかわっております。貴方
が聡明な方でもお医者さんで法律の専門ではないと思いますので基
本的な考え方から説明していきます。

>しかし、それであれば他の人が同じ罪を犯した時にはなぜ容認さ
れないのでしょうか。ここの所をいつか、手短に説明してくだされ
ば幸いです。

 簡単に言ってしまえば彼の王という立場にあるのです。貴方の言
う他の人とはかれと同じ王という立場の人を指しているのでしょう
かそれとも一国民の立場について言っているのでしょうか。他の国
の王と言うことであれば同じ扱いだと断定できます。歴史の中にも
同じようなことが繰り返されております。

 サムエル第一8章をお読みください。そこにはイスラエルが神エ
ホバを王とすることを拒み人間の王を求めたことが書かれておりま
す。そこで真の神は彼らがご自分を王とすることを拒み人間の王を
持つことをお許しになるのです。ここで投稿した中の説明道理に彼
らに警告が与えられます。王の権利の説明がなされます。簡単に
いってしまえば生命財産全てが彼のものとなる。彼の自由かってに
されると言うことです。

王権とはそういうものです。これを現代に当てはめれば王=政府と
なります。国にもよりますがオブラートにくるんだ薬のように国民
はごまかされていますが本質は貴方の住んでいる国アメリカもあま
り変わりません。大統領に戦場に行けと命令されれば行かざるを得
ないでしょう。そこで兵士が死んでも大統領は何も責任をおわされ
ることはありません。
国の保証があるだけ昔より良いと考えなければいけないでしょう。

 聖書の中で予言者ナタンの叱責で我に返ったダビデが「私は真の
神エホバのみに罪を犯しました」とかっきり述べていることからも
明白なのです。ただし、法の上にいるため人からは罰せられること
はないのですが、神からはしっかり罰の宣告をされています、お読
みになっていないのでしょうか。容認されているとはどういう意味
でしょう。

王権=神権であるという認識なしには理解不能なところではないで
しょうか。

>その結果で問題になるのは、自由意志を使う個人の責任と、その
自由意志を与えて制限しなかった神の責任とのバランスになると思
います。

 この発言でまだ貴方が自由について理解されていないということ
を実感いたしました。私の説明がまだ不備なのでしょう。まず第一
に何が良いことで何が悪いことなのかはイスラエル国民には律法が
与えれれていると言う事実です。またダビデには王と成るときに諸
国民の王のように成ってはならず、むしろ仕える僕のようでなけれ
ばならないと警告を受けているのです。神の責任はそこで完全に果
たされているのです。

 一例として見張りのものに対する律法で、もし警告を与えたのに
注意せず民が死んだとしても貴方は警告をして責任を果たしたゆえ
に民が死んだとしても罰せられることはない、しかし警告しなかっ
たために民が死んだときには殺されねばならないとあるのです。
この事と同じように真の神もいつも人間の側に警告を与えていま
す。いつも人間が従おうとしていないだけなのです。自由意志で悪
い道を選んだだけなのです。責任は神にありません重ねて強調して
おきます。

 法的な意味において神に何の責任も存在しません。ここを間違え
る人は自由を理解していません。むしろ真の神は人間にもうけた法
律さえ尊重しておられます。地面に書き物をしていたイエスのとこ
ろに姦淫の女が連れてこられた時、イエスはその女が罪を犯してい
るのに見逃したと書かれています。はたしてイエスは律法を無視し
たのでしょうか。
いいえ、実に律法道理に事を運ばれただけだったのです。ここでイ
エスは姦淫の事実は知っていたとしても目撃証人ではありません。
この罪に関しては2,3人のこの問題に関して潔白な(罪のない)
目撃証言のできる者が最初に石を投げなければならないことに律法
上定められていたのです。誰も石を投げませんでした。当然彼女は
放免されて良いのです。

 貴方の発言は立場をわきまえて考えていません。一例を挙げれば
貴方はアメリカ国民の一人としてその法律の下で暮らしています。
貴方の車は右側を走っていますね。法律を守っていることになりま
す。

でも日本に帰って右側を走ったら違反になります。貴方の立場では
国が変わればその国の法律に従わなければならないのです。イエス
はその時人間の立場に身を置いていたのです。律法下にいたわけで
す。

 神の置かれている立場は全く別物です。しかし人間でもアメリカ
大統領であれば、その立場で行動するときには道路の真ん中を通行
し一方通行も無視していくでしょう。日本でも皇族方は赤信号を無
視して走ります。もし誰かが自分が青だと安心していてぶつかった
としても法的に悪いのはその国民で、赤信号でつっこんだ皇族方に
法的な責任はないのです。それも立場の違いということです。

  この法的な理解は重要です。この事実が混乱するのは神と人との
立場が同等かむしろ神が人の道具(偶像)にされたときに現れる現
象だと言えるでしょう。

  さて結論です。ダビデが罪を認めなければならないのは神に対し
てだけだということです。国民はダビデの持ち物とされているから
です。その証明に民の数を数えるというダビデが犯した罪により国
民が殺されていきます。真の神はご自分を王とすることを捨てダビ
デの持ち物に成り下がった国民を、討ちました。法的には王の犯し
たその罰として持ち物を奪っただけなのです。(ダビデは人間です
からその決定に驚いて私が罪を犯したのにと言っています。)

でも法的にいって自ら望んでイスラエル国民はダビデの持ち物に
なったのでしょう。自由意志の結果なのです。誰が悪いか理解でき
たでしょうか。自ら警告を無視して選んだ道でしょう。神が非道だ
という人はこの辺の理解のできていない人なのです。

  自由を理解すると聖書に書かれている内容を正確に理解できるよ
うになるでしょう。

《編集者より》
これは「自由と最大のおきてについて」の投書者の方からの、編集者に対するお答えです。大変興味深い議論ですが、このサイトの主旨とだんだん逸れる可能性があり、出来るだけ手短にコメントさせてい頂きます。まず、ダビデの罪についてですが、あなたのおっしゃることは、これはダビデが王であるから特別であるという解釈であると思います。(“簡単に言ってしまえば彼の王という立場にあるのです。”−あなたからの引用)そして他の王でも、現代の大統領でも同じ様に特別の扱いを受けることと比較されています。(“そこで兵士が死んでも大統領は何も責任をおわされることはありません。”)もう一つよく聞く説明は、あなたも少し言及していますが、神がその意志を行なうためにダビデを使ったのだ、という説明でしょう。これらの論理は、確かに現在の宗教界で(ものみの塔も含めて)使われている論理であると思います。しかし、この論理こそが、今までの宗教関係者の悪行を正当化するのに使われて来たことはあなたも、もしかしたらお気づきかもしれません。ごく最近でも、アメリカのブッシュ大統領が、"God bless!" と言って、彼の信仰に裏打ちされた大統領の「特別」な権威を使えば、あれだけの戦争が簡単に引き起こせるのです。別の「王」も、神に祝福されていると信じれば、大量殺戮も何百人の妾も、みな聖書の大義名分の元に正当化されます。

この問題の根源は、私の考えではダビデが単に「王」であるだけでなく、彼がイスラエルの王であったこと、そして神はイスラエル民族の神であったこと、によるのであると思います。この時点で、神はアメリカの大統領も、アフリカの王も、まして日本人のことなど全く考慮していなかったのです。所が現代の聖書解釈になると、「聖書の真理」として聖書に書いてあることを普遍的に当てはめようとする結果、全く関係のない前後関係に聖書をあてはめて、とんでもない聖書の悪用とそれによる様々な悪行の正当化が行なわれて来たのでした。私はあなたのダビデに関する説明に異論を唱えるものではありませんが、ダビデの行為は全て、当時のイスラエルの王とイスラエル民族の守護神との関係という歴史的な前後関係でのみ解釈されるべきであると思っています。そして、そのような民族神信仰を超えた所に、ダビデも、ブッシュも、ヒットラーも、ものみの塔の統治体員も、あなたも、私も、全て同じ一人のホモサピエンスとしての良心があるはずであり、それは人間である限り全ての人に同じ様に問われることであると私は思っています。

第二の点についてですが、私が前の投書で少しだけ触れた問題は、キリスト教神学の歴史の中で常に議論されてきた、いわゆるpredestination(日本語の用語は知りません)の問題で、何も私の無知から来る的外れな疑問ではありません。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(ローマの信徒への手紙 / 8章 29-30節―新共同訳)
もし、神が全知全能で全てを決めるのであれば、誰が義人で誰が罪人であるかも神が決めるわけで、人間の自由意志による努力は無駄という議論が出てくるわけです(これは私が言い出していることではありません、念のため)。この見方からすれば、罪人は神がそのように決めたから罪人であることになります。医学的に見れば、確かにある犯罪人は、病気とは言えなくともある種の脳の構造から犯罪を犯しやすくなっていることはあり、そのような人は、神によって犯罪人として決められたと言えるかもしれません。そのような人は自分の意志ではコントロールできずに犯罪を犯すことがあります。(しかし病気ではありません。)しかし、大部分の人々には罪を犯すか犯さないかの自由意志による選択があるわけで、その自由意志と、神の定められた予定との関係が問題になります。この問題は、ルター、カルビンなどキリスト教神学の歴史を通して論じられてきた問題で、何も新しい問題ではなく、しかも誰も明確な答えを得られていないことも、また新しいことではありません。

最後に法律についてですが、あなたが法律の専門家であるのかどうか分かりませんが(書き方からみると専門家の方かとも思いました)、もちろん私は法律に関しては素人です。そこで法律に関して、最も初歩的な質問を考えてみましょう。確かに私たちは神だけでなく、国家や「王」によって様々な法や掟を与えられています。あなたは交通規則を例としてあげています。あなたの議論では、それを守るか守らないかは全て人間の自由意志であり、法を与えた側には一切責任がない、と言っています。(“いつも人間が従おうとしていないだけなのです。自由意志で悪い道を選んだだけなのです。責任は神にありません重ねて強調しておきます。”)それでは、なぜ裁判所というものがあり、裁判官や陪審員というものができたのでしょうか。あなたが言うように、規則や掟があって、人がそれを守るか守らないかの簡単な二者択一であれば、決して裁判官や陪審員は要りません。しかし、現実には法が重要なのではなく、現実の状況でその法を誰がどのように解釈するかが重要なのです。神も、王も、国家も、法を与えますが、その法が実際に働くのはその状況が起こった時です。そしてその法がどのような結果をもたらすかは、法を作って与えた者ではなく、法を解釈する別の人たちが決めることです。つまり、法はそれだけを取り出しても一つの指針にはなりますが、本当にどこまでが許されてどこまでが禁じられているかは法だけで決めることは出来ず、実例にそって裁判所が判断することになります。法にはそれだけの「解釈の余地」があるのです。あなたは、皇族が赤信号で走っても法的に問題がないとおっしゃっていますが、(“日本でも皇族方は赤信号を無視して走ります。もし誰かが自分が青だと安心していてぶつかったとしても法的に悪いのはその国民で、赤信号でつっこんだ皇族方に法的な責任はないのです。”)、私はこれも解釈の余地があるのではないかと思います。もし皇族が平服で一般人の車に混じって信号にさしかかり、周囲の人が特別の車と気がつかない状況で赤信号に突っ込んだ場合、それはやはりその皇族の落ち度になるでしょう。つまり、どんな法も、何が、どこで、いつどのように適用されたかによって、解釈が変わるのです。神の律法においても同じことが言えるのではないでしょうか。私はそれが自由意志に基づく良心であると思っています。そして裁判官が実際の判断を下すことが、法律を作ることと同じ様に、あるいはそれ以上に重要であるように、私は人間の自由意志に基づく良心の判断は、律法と同じか、時にはそれ以上に重要なものであると思っています。

聖書には多くの掟や教えが書いてありますが、それを21世紀の現代にどのように適用したらよいかは、明確に書いてありません。これが解釈の余地であり、誰かが裁量しなければなりません。ある人たちは、そのために独自の解釈と独自の規則を作ります。ものみの塔の「血を避ける」イーコール「輸血禁止」というのはその端的な例でしょう。「輸血」の言葉も概念も聖書にはなく、ものみの塔の統治体が独自の発想で解釈を作成し、規則にして信者に与え、それを独自の司法体系の元に施行しているわけです。一方、別の人たちは、「血を避ける」をその歴史的文脈の中で解釈し、現代の医療とは全く無関係と考えます。この違いが自由意志による「解釈の余地」なのです。そして自由意志を少なくすればするほど、法は厳密で「解釈の余地」はなく、もし解釈の余地があれば、そこにもまた新たに法が作られ、しまいにはエホバの証人の血の掟のように、細かい血液の成分にまで規則が及び、パリサイ人のように生活の全てに細かな規則が作られることになります。一方、人間の良心と自由意志を尊重すれば、人間の自発的なコントロールによって法の本来の精神と目的は達成されるとも考えられます。その際には、法は最も少なくて済むはずです。たとえば、イエスの言った「あなたがして欲しいように他人にもしなさい」という、いわゆるゴールデンルールは、そのよい例でしょう。「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」云々という、多くの規則を並べるより、一つのゴールデンルールを適用すれば、それらのほとんどの規則は守られるからです。

ここでも、私はあなたのおっしゃることに反論しているのではないと思います。私はイスラエルの律法の意義はあなたが説明された通りだと思いますが、私はそれを超えた所を問題にしていると思っています。なお、私は「神は非道だ」と申し上げたことはないと思いますし、そうは思っていませんので付け加えておきます。この議論は、私も非常に興味がありますが、ますます逸脱する可能性がありますので、このへんで終わりにしたいと思います。