夫婦に別々に伝道に来るエホバの証人

(5-28-03)

わたしは 石川県に住むものです。
相談があります。エホバの方がいらっしゃり、本をくださります。
それは とてもいいことで、本に助けられたこともあります。
ただ、一つわからないことがあるのです。
私の夫はアメリカ人です。もう 日本にすんで長い(永住権ももっています。)の
で、日本語はわかります。

しばらく、近所の10代の方がいらっしゃってたのですが、
突然女性2人が来て、英語でエホバのことを話しだしました。
最初はその10代のかたが、英語の本を主人にもってきて
くださるだけだったのに、(主人は話せますが、日本語は読めません。)それは、そ
れでよかったのですが、しかも、その10代の最初にこられれた方とは違う日の違う
時間にわざわざ、主人だけに、英語での伝道をなさりに、毎週火曜日にこられるよう
になっております。
本はいたしかたがないというか、主人は喜んでうけとってますが、
(主人は日本語が読めないので)でも なぜ 日本語がしゃべれるのに、わざわざ、
夫婦をさくように、別の方々が私をさけてくるのですか。わたしはその10代の女性
から本を受け取ります。そして
主人はその女性2人、というような形をおとりになってます。
そこが わからないのです。
主人が今朝 わたしが その問題であまりにも
心がトラブッっているのをみて、もう来週こないように言うから。
といってくれましたが、わたしは、 なにか 神さまをさけるようで
心がとても 痛いのです。 まえに一度 その女性を知っている
エホバの方にこの問題をいったことがありますが、何もかわりませんでした。夫婦の
仲、家族の平和の本をいただき、読んだりしますが、
わたしは、どうしても この石川の2人の女性(ときどきかわりますが、)英語で神
を語ろうとする意思がつかめません、しかも、こられるときは、主人だけを呼び出
し。主人がいないと帰られる。
アメリカのエホバの方も夫婦わけて訪問なさっているのですか。

いつも 主人いますか。といって、いないと帰っていきます。
わたしは、非常に 強い憤りを感じています。
一度 彼らを知っている人に相談したのに!

私には、神の名をかりて、英語の練習にきているようにしか
見えないのです。本当に私たちのことを思い、神さまを思い(エホバ)
伝道しようと思っているのなら、なぜ夫婦単位でエホバさまのことを
お話にこないのか。なぜ、主人と私をひきさくような やり方を
ずーとここ1年以上しておられるのか。 なぜ、突然最初にやっていきた人ではない
人がこられて、英語で伝道しようとしているのか。
昨日は眠れなく、
今朝は泣きました。神をさけるような気がする反面、彼らにはもう
来て欲しくない、なぜって、神の名をかりて、英語を勉強しに
きてるようにしかみえないから。 一度 「奥様も。」ということばが
ありましたが、そういう雰囲気でもないし、こころからの言葉
には どうしても聞こえませんでした。 本当に家族の愛を思い、
神を(エホバ)を信仰し、夫婦の愛を確かめ合う人たちが、どうして
わたしが、以前に憤りをあらわにしたときにも、そのことに
主人と話し合おうとしなかったのか。彼女達にはサインをだしてますが、その1人が
以前わたしが英語をおしえてたこともあり、はっきり
面と向かっていえません。わたしは 間違ってますか。
まだ英語をおしえてもらいたいので、と おことわりして
いらっしゃるのなら、いいです。また主人がアメリカからきたばかり
等の理由で英語しかわからない。とかの理由があれば。

このわたしの かかえている問題。どう解釈すればいいのでしょう。
自分は間違っているのですか。

だれか教えてください。

《編集者より》
文面だけから見ると確かにおかしな伝道の仕方で、これは組織の方針に基づいたものとは思えません。多分訪問してくる女性たちの特殊な問題ではないかと感じます。これは一般論ですが、エホバの証人の間では外国語伝道というものに憧れのようなものがあります。日本でも英語会衆、ポルトガル語会衆、中国語会衆などが沢山あり、それはもちろんそれらの言葉を母国語とする人々のためなのですが、そこに来る日本人の中にはそれを利用して外国語を習おうという人がいることも確かです。こちらのアメリカでも、外国語会衆はそれなりに活気があり、やはり外国語を習いながら奉仕の義務を果たそうという「一石二鳥」をねらったエホバの証人でにぎわっています。元々の母国語で同じことを何度も何度も繰り返して伝道したって、ほとんど成果が上がらないわけで、どうしても倦怠感が出てきます。外国語を習得しながら伝道をするのは、この倦怠感を克服するのに最適なのです。あなたの所に来る女性がそのような証人であるのかは、確かには言えませんが、アメリカ人と見て日本語を話せるのにわざわざ英語で特別に伝道しようという姿勢の裏には、そのような背景があるのかも知れません。