「そこに愛が見つかりますか」を読んで

(5-17-03-)

フリーダムさん、こんにちは。
フリーダムさんの投稿をいつも楽しみにしているフリーダムさんと同じ元2世
の者です。よく調べられた内容と冷静で公平な、そして優しさに満ちた見方に
とても好感を持っています。
特に2003年1月22日付けの「そこに愛が見つかりますか」について
僭越ながら私なりの感想を語らせて頂ければと思い投稿しました。

その投稿の中の「温かいうどんを出してくれたおばあさんの愛情と、その反面
自分がおばあさんのことをすでに忘れ、気遣ってやれなかった愛の無さを認め
ざるを得ませんでした。」という一文について少し考えてみました。

エホバの証人はなぜおばあさんのことを忘れてしまったのでしょう。
それはきっと“伝道以外で世の人と交わることを禁じられているから”ですよね。
司会者の姉妹もきっと何度かおばあさんに会いに行ったのではないでしょうか。
でも“進歩しないと思われる人に時間を使うことは協会が勧めていないから”
それ以上は援助できなかったんだと思います。
私、離れてみて初めて思いました。エホバの証人はみんな良い人たちだけれど
“教えが皆から愛を奪っている”ような気がするんです。みんな心の中では
その人のことを心配していたり、感謝したりしているんですが、そういう純粋な
気持ちを表現できないように教義が邪魔しているんです。
それに比べるとおばあさんの愛はとても自由ですね。おばあさんから見たら
エホバの証人もそれ以外の人もみんな同じ平等で境界線がありません。
ありがとうとかごくろうさまとか、とても素直な気がします。

昨年の7月の投稿に教会の方がエホバの証人のリーダーのことを心配し、暖かく
見守っていることが書かれていましたが、私もこれにとても衝撃を受けました。
私たち(エホバの証人)はなんて心の狭い人間だろうと思いました。
フリーダムさんがどちらが本当のクリスチャンかすぐに理解しましたとありましたが
私もその通りだと思いました。

最近、愛とはある特定の人々に対するものではなく、“地球上のすべてのもの
(すべての人間、生き物、自然、事柄)に対する感情”であることを知りました。
そう言えば神は「邪悪な者の上にも善良な者の上にも雨を降らせて下さる」
平等な方であることを思い出しました。私たちがエホバの証人以外の人を
“世の人”と呼んでいたことは神のお気持ちと反しているような気がします。
あの中にいて「その教義は神が本当に望まれていることだろうか?」という
考え方を私は一度もしたことがありませんでした。
ただ与えられている指示に従うことだけに一生懸命で・・。
不思議なことに離れた今の方が神を身近に感じ、神のご意思とは何なのかを
自分で考えることができるようになりました。
そして聖書以外にも自分を成長させ高めてくれるものが沢山あるということ、
自分たちが世の人と呼び軽蔑していた人々にさえ自分は支えられていたという
ことに気づきました。

私はあの中で愛に窮屈になっていたんです。
もう、自分や他人を裁くような“教え”は必要ありません。
必要なのは“すべてを許し、すべてを受け入れること”これだけで
よかったんですね。
私たち元エホバの証人は彼らを憎むのではなく、早く間違いに
気づいて欲しいと願うこと、そして彼らが私たちを受け入れなくても
私たちは彼らを快く受け入れること、それがたったひとつイエスが
与えられたおきてを守ることになるんですね。
エホバの証人は神の言葉を“踏み越えて”しまっているから
そこに祝福はなかったのですね。
子供の頃からあの場所を冷たく感じていた理由が
今ようやっと分かりました。

「フリーダムさん、私に大事なことを気づかせて下さって本当にありがとう」

もしかしたらあの囲いを勇気を持って飛び越えない限り、真の愛を知ることは
できないのかも知れませんね。

FROM DANDELION

《編集者より》
これは、この一つ前の投稿をされた方と同じ方から頂いたものです。あなたの前の投稿もこの投稿も、共に人を分け隔てなく愛し、赦すことの重要性を考えさせられます。エホバの証人は本や教義に基づく、人間味のない「愛」の中に生きているのに対し、あなたはエホバの証人の外で、本当の人間の根底にある愛を発見したのではないでしょうか。愛の問題に限らず、人間の自然な生理的現象を押し殺したり無視したりするものみの塔の教えは、何時までたっても限りのない不毛な人生を強いることになると私は思っています。