「祈る対象」−「手ずから働き、静かに生活する」ことを願う「匿名証人」

(5-17-03-)

娘が小さい頃から時あるごとに祈るように教えてきました。
(特に感謝の祈りをするように教えています)
今では娘は一人で祈っています。

さて娘の祈りを聞いて興味深く感じたのは
教えていないのに「神様」と呼びかけていることです。
(脚注:日本のエホバの証人は祈りの中で「神様」とは言わない)

でも、それってとても自然な呼び方だと感じました。

日本人って敬意を込めて、また親しみを込めて
「お父さん」「先生」「おじさん」「先輩」などと呼びますよね。
超人間的な存在に対して「神様」と呼ぶのはごく自然ですよね。

ものみの塔は神についても「名前」を呼ばなくてはいけないと言いますが、
それってアメリカの感覚なのでしょうか?
(もし娘が私の事を名前でよんだら、多分怒るけど・・・)

私も最近では「神様」と祈りのなかで呼び掛けることが多くなっています。

「手ずから働き、静かに生活する」ことを願う「匿名証人」

《編集者より》
祈りの気持ち、祈りそのものは、人間の基本的な行動であると私は思っています。自分自身の子供時代を思い出しても、大人から教えられる前に、祈りに似たことをしていたことを覚えています。それが誰だかわからないが、誰かに語りかけ、質問し、お願いをしたものです。これはほとんど全ての人にある経験であると思います。歴史的にも原始人の時代にもこのような行動は知られています。それを一定の形式、言葉などの型にはめて統制された一定の行動のパターンとしてきたのが、宗教なのでしょう。私は、そのような形式を離れて、元々の人間の持って生まれた祈りの気持ちに戻ることは、必要なことではないかと思っています。