「そこに愛がありますか? 」(3)−フリ−ダムより

(5-12-03)

 
鉄腕アトムのようなロボットが将来どんなに進歩したとしても人間の心を持つ事は不可能
でしょう。それはコンピューターが0と1のどちらかの数字で数値化して成り立っているた
め。つまり「白」か「黒」どちらかでいつも判断を下す仕組みなのです。人間の心の中に
はエホバ神のような「崇高」な部分もあれば悪魔サタンのように「醜悪」な部分もあり、
この心からもたらされる複雑な感情とか私たちの考え方や行動は実に「あいまいな」もの
なのです。たとえば,頑固者で知られるおじいさんの頭を後ろからだれかが棒で叩いたと
して,叩いたのが自分のかわいがっている孫のいたずらだとすると、おじいさんの顔はす
ぐに笑顔に変わってゆき「ダメじゃないか」ぐらいの言葉で孫を抱きかかえます。しかし,
これが見ず知らずの他人から叩かれたのだとすると,おじいさんは顔から火がついたよう
に怒り出し「いつか同じように仕返しをしてやるからな」ぐらいの感情を剥き出しにした
りします。同じことをされておきながら反応は天と地のように違いがあります。ロボット
はこの心のあいまいさからくる,その時々の感情や考え方や行動というものを理解したり
身につけたりすることが出来ません。
 
組織はいつも成員に生活の中のさまざまな分野でで白か黒か判断しろと要求してきます。
心や考え方の中から出てくるあいまいさや中途半端というものを許さないのです。「霊的」
か「この世的」か。エホバの側か、サタンの側か。ふさわしいか、ふさわしくないか、こ
のどちらかでいつも自分の考え方や行動を判断しながら生活するという「思考パターン」
を身につけていくようになります。そうなると自分の服装の選び方から聴く音楽,読み物,
友人の選び方までそれは影響してくるのです。いつのまにか会衆の中で「中途半端」に見
える人たちを心の奥底で軽蔑してゆきます。集会に時々来たり来なかったりする人たち、
伝道活動に時々参加しに来る人、親は会衆内で自分の子供と交わるべき子供とそうでない
子供をいつのまにか判断し、霊的な活動に活発にあずかる「霊性の高い子供」と積極的に
交わるよう勧めます。いくら優しさや思いやりを持つ「良い子」でもそれは意味をなさず,
中途半端に集会や奉仕にあずかる子を「霊性の低い子」として交わらせません。そして究
極の白か黒かの判断、それはその人がエホバの証人であるか,そうでないかという判断で
す。
 
組織はいつもエホバの証人ではない人との交友を全面禁止します。ノーベル賞の田中耕一
さんのようにどれだけ社会に役立ち,「霊の実」を身につけたような、謙遜な人格者であ
ったとしても、エホバの側でない人はすべてサタンの側とみなさなければならないのです。
組織はエホバの証人以外の人たちに対する徹底的なマイナスのイメージを植え付けようと
します。そうすべてが不道徳な人たちで汚れていると。組織が最近製作したビデオドラマ
「警告の例」を見て理解できるようにそのビデオで登場してくる架空の人物「ヤミン」は
イスラエル以外の者と交わる事がどれだけ危険な事だったかを訴えます。そしてそのおき
てを破った者がどれだけ悲惨な事態に陥るのかを。
 
「自分を広くしなさい」ものみの塔2003年6月15日号の研究記事はそう成員に教えてい
ます。
第一研究記事「公平な神エホバに見倣う」
 
第二研究記事「だれについても良い点を見ようとする」
 
この二つの記事を抜粋するとこのような事が書かれています。
 
〇「確かに,私たちすべては,自分を広くするようにというパウロの明確な忠告に従うの
が良いでしょう。そうです,背景の異なる仲間のクリス チャンへの愛の点で自分を広げ
るのです。」
 
「だれについても・・・」この中に世の中で普通に生活しているエホバの証人以外の人た
ちは含まれません。愛の点で自分を広くして受け入れることが出来る人たちとは,やはり
仲間のエホバの証人の中だけに限定されています。それではエホバの証人以外の人たちを
「愛し広く受け入れ」エホバの証人以外の人たちの「良い点を見ようとする」方法とはな
んでしょうか。次のように記事は説明します。
 
〇「それでも,人の態度や状況は変化します。突然の病気,親族の死,災害,感情面での
行き詰まり,その他多くの要素が、宣べ伝える業に対する人々の反応の仕方に影響を与え
ます。こちらが消極的な見方をし,伝道してもこたえ応じることはないと思っているなら,
本当に人々の良い点を見ようとしていることになるでしょうか。むしろ、喜びを抱きつつ,
別の時にあらためて訪ねてみることが出来ないでしょうか。異なる反応が見られるかもし
れません。」
 
エホバの証人以外の人たちを「愛し広く受け入れる」方法とはその人たちに対する宣べ伝
える業であり、エホバの証人以外の人たちの良い点を見つける方法とはその人の宣べ伝え
る業に対する反応の仕方、しかも,こたえ応じる時のみという条件付でその時はじめてそ
の人の「良い点」が見つけられるものなのです。研究記事の要点のまとめの質問には次の
ような質問が載せられています。
 
「どのように答えますか」
 
・下記の分野でどうすれば他の人の良い点を見ようとすることができますか
 
  ・宣教奉仕で
 
  ・家庭で
    
  ・会衆で
   
  ・すべての人との関係において
 
この最後の「すべての人との関係において」の副見出し中でもやはりエホバの証人以外の
人のことが含まれることは記事の中でありませんでした。この人には果たして良い点は見
出せるのか,ちょうどリトマス試験紙を用いてアルカリ性か酸性か判別するかのようにそ
れは良いたよりに対する反応の仕方によって決められてしまうのです。その反応ひとつで
その人はエホバの側かサタンの側か、白黒判別されてゆくのです。世界中で新型肺炎SARS
ウイルスが流行している中、政府は一人一人その人の体温が38度以上あるかないかでその
人を隔離しもうそれ以上他の人が近づかないよう措置を取ります。それと同じように組織
はたったひとつの反応の仕方によってもうその人には近づかないよう,心の中で隔離する
よう教えます。自分が霊的感染にかかる事を恐れてその人には近づかないように。組織は
自分たちが世界中で肌の色で人種差別をしないと自慢しますが、実際は自分たちエホバの
証人は霊的に白くて清く,それ以外の人たちは霊的にどす黒ュ汚れているので握手をした
り,一緒の席に着いて食事をしたり、交わったりしてはいけないと教えます。聖書中のパ
リサイ人とそっくりです。イエスやその弟子たちは積極的にその当時罪人とされた人や嫌
われていたらい病人,収税人などと交友を持った事が聖書の中では記述されています。マ
タイ9章10節〜11節にはイエスと弟子たちが罪人や収税人と一緒に食事をした事をパリサ
イ人が非難したということが書かれています。食卓を共にするということは何を意味する
のでしょうか。「洞察」の本のなかで「食事」という項目を参照すれば理解できるように、
ある人と食事を共にするということはその人たちとの友好関係を持つ事を意味することな
のです。
 
同研究記事の中では会衆の中で自分を広くする方法のひとつに「集会ではじめてくる人に
みんなで歓迎する」という提案がなされていますが、以前の投稿「そこに愛がありますか」
で書いたように最初は多くの人から歓迎される人たちも,それはこれからその人が霊的に
どんどん進歩するという可能性や見込みがまだある時までのこと。中途半端な進歩の人た
ちはやがて歓迎されなくなってゆくのです。
 
「家族の中で」良い点を見出そうとする、研究記事は聖書中の事例を次のように取り上げ
ます。
 
〇「家族は緊密なきづなで結ばれています。この面でも,人の良い点を見ようとすること
が出来ます。聖書の創世記37章3,4節は,ヤコブがヨセフを特に愛した事を述べてい
ます。ヨセフの兄弟たちはそのためにねたみを抱き,ヨセフの殺害を謀るまでになりまし
た。それでも,後年ヤコブとヨセフがとった態度に注目してください。二人とも家族の良
い点を見ようとしました。」
 
「家族の緊密なきづな」「二人とも家族の良い点を見ようとしました。」そんなことをよ
く組織は言えたものです。家族の絆よりも優先される組織の厳しいおきて。組織が決めた
取り決めが今まで,そして現在もどれだけ家族のきづなを断ち切りズタズタニしてきたの
かを。良い点を見つけようとしても見つけられないような愛のかけらも感じ取れないよう
な取り決めを平気で考え,成員に押し付けている組織を私は堂々と非難します。家族の中
のひとりに「排斥処分」が下される時そこに組織は家族の中にまでエホバの側かサタンの
側かそこに白黒はっきりさせ線引きするよう要求するのです。「ここからここまでは入っ
てきてもよい,しかしあなただけはここから先は入ってくるなと」
 
2002年8月の「王国宣教」「親族が排斥されているときクリスチャンとしての忠節を示す」
この折り込み記事に組織の取り決めが載せられています。要約すると次のような取り決め
です。
 
〇「排斥された家族と同居している場合,家族は今までと同じような日常生活を行う事が
出来る。ただし,排斥前と何も変わっていないかの印象を、会衆内の交わっている兄弟た
ちに与えてはならない。」
 
〇「たとえば家族の夫が排斥された時、食事の時一緒に祈ってはならない。妻と子供たち
は個人的に声を出さずに祈る。」
 
〇「家族の夫はもう家族と一緒に聖書研究の司会をしたり,聖書朗読や祈りで指導しては
ならない。なぜならそのような事をされると妻とその子供は気持ち良くないと感じるから。
」
 
〇「一緒に住んでいない親族が排斥された時は,その親族とのほとんど接触せずに,もう
不必要な交わりを避け,仕事上の接触も最低限にとどめる。」
 
〇「一緒に住んでいない子供が排斥されて,その子供が親と一緒に住みたいと家に戻る事
を願う場合は慎重に親は考慮する事。その子供は本当に親と生活を共にする必要があるの
か,それは単なる楽をしたい甘えに過ぎないかもしれないから。その子供が帰ってくるこ
とで家族の中に「パン種」を持ち込む可能性も考慮する。」
 
〇「エホバに忠節であることの益」はそうする事によって会衆の清さが保たれる。聖書の
高い道徳基準を擁護するものとして際立つ者となれる。また,腐敗をもたらす影響力から
守られる。」
 
〇「この取り決めを忠節に守ることは「エホバへの愛の実証」を意味する。そしてそこに
私たちにエホバからの祝福があることを確信できる。」
 
以上のようなこと細かな取り決めを組織は家族の中に取り入れるよう要求します。排斥さ
れた夫や子供たちへのエホバへの愛の名のもとで行われる現代版「村八分」子供たちのあ
いだで行われる「仲間はずし」または「陰湿ないじめ」としか感じられないのは私だけで
しょうか。排斥される側の立場もいっそうの孤独感を味あわなければならないため非常に
つらいものですが、この取り決めを守らなければならない逆の立場の家族もつらいもので
しょう。このようにして組織はまだエホバの証人にとどまる家族に対して一種の「ふみ絵」
を前に置くのです。家族の中のきづなを取るか組織とのきづなを取るか白黒はっきりさせ
ろということです。そしてこの折り込み記事で私が一番矛盾を感じたのは次の点です。そ
れは、なぜ家族にまでこのような手厳しい措置が取られなければならないか,その聖書的
根拠,理由です。次のように記事は書いています。
 
〇「神の言葉は,クリスチャン会衆から追放された人と交際や交友を続けないよう命じて,
こう述べています。だれであれ「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,、貪欲な者、偶像を礼拝
する者,ゆすり取る者がいるとすれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をする事
さえしないように・・・その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい。」コリント第一5
章11節。
 
上記の記事の中でわざわざ太文字で強調されている言葉があります。それは「だれであれ」
という言葉。コリント第一5章11節の冒頭に「だれであれ」なんていう語句は書いてあ
りません。これは明らかに組織がこの聖句の冒頭に付け加えた語句です。
 
上記のものみの塔の二つの研究記事。その中で「だれについても」愛の点で自分を広げ良
い点を見い出しましょうと成員に提案する組織,「だれについてもと言っても、それはエ
ホバの証人の中だけにしておこうね」、と範囲を限定するのに対し、排斥という恐ろしい
処罰を加える時は記事の中の「だれであれ」という言葉を付け加え強調して、これは文字
通り無制限にすべての人に適用されるといって範囲を広げられるだけ広げて親族や家族も
含まれるとする組織の解釈。逆ではありませんか、聖書の中で愛を示し合うことは無条件,
無制限に広げて適用していくべきもので、逆につらい思いをしなければならない処罰に関
してはなるべく範囲を限定して適用してあげようと思いやるのが本当の愛とはいえません
か。 
組織は中途半端な組織の忠誠心を許しません。少しの反抗する気持ちさえ許しません。少
しの疑いを持つ事も許しません。百パーセントの忠誠心と完璧な従順、完璧な信頼を要求
するのです。それが出来ない者は「排斥」という脅し、手厳しい措置でのぞむのです。エ
ホバ神への忠節というよりも組織に対する忠節を要求するのです。そしてそこに「愛」は
みじんのかけらも感じ取れません。
 
私たちはロボットではありません。私たちの心は実にあいまいで、あるときはとても悪い
考え方や行動,欲望などが出てきてしまいます。しかし,ある時は他人に対してとても愛
ある感情や行動を取ることが出来る場合もあるのです。排斥された子供が家に帰りたいと
言ってきた時、その事を慎重に考えたり,子供の事を「パン種」などとみなすでしょうか。
すかさず「ずいぶんつらい思いをしてしまったね,お父さんお母さんはおまえのことを今
もそしてこれからも愛しているからね,すぐに戻ってきてもいいんだよ。大歓迎だからね」
そういう言葉が出てくるのが自然でしょう。それが本来の人間というものです。しかし、
エホバの証人になると、いつのまにか生活の中で自分の中のあいまいな心から引き起こさ
れる考え方や判断,感情、そういうものを無視しいつも「組織の出す細かな基準」をもの
さしにして,冷静に,時には冷酷に、白か黒かはっきり判断するようになる「思考回路」
が身についてしまうのです。会衆である人に関して断絶または排斥の発表がなされたとた
んに、成員の一人一人の頭の中で「もうあの人はサタンの側だ」と瞬間的に「白」から
「黒」へと切り替わり,集会が終わってもだれもが無表情、無感情になり何事も無かった
かのようにその人に対して振舞うことが出来るようになるのです。今までその人と親しか
った人でさえももうその人のところへ近寄っていって一緒になって悲しむ事や慰めてあげ
る事、その人のために排斥の措置の撤回を長老たちに掛け合って無理を言って嘆願するな
んてことはエホバの証人の世界ではまずありえません。そういう人が組織の中にひとりで
もいるとしたなら,まだ組織の中に人間味あるところが見つけられるのですが。今考えて
みると,あの時テレビやマスコミで騒がれたあの「川崎の大ちゃん輸血事件」、あの時私
の心の中はどうだったのだろうか。すごく冷酷だった。奉仕で家の人から非難されても組
織がまさにそういう時のために用意した「論じる」の本の中の「あなた方は輸血で子供を
死なせています,ひどい事だと思います。」その項目に載せられている事だけを平然と家
の人に読んで見せたっけ,しかもニコニコしながら。そしてあの頃「野外奉仕のための集
会」の司会者もやっていたから、他の伝道者たちにも同じように答えるよう前もって準備
させていた。組織の用意するあの「論じる」の中の答え・・・
 
〇「しかし,私たちは子供に,もっと安全な輸液は受けさせます。・・・失血がひどい場
合,一番大切なのは,体液の量を回復することです。
・・・その必要を満たすために血漿増量材を用いることができ・・・ですから,問題は,
神が命じておられる事柄を行う信仰があるかどうかという点です。」
 
輸液だとか、〜増量材とか医者の知識も無いくせによくこんなこと冷静に家の人に説明し
てたな。もう輸液だの増量材だの言っている場合じゃないんだね,小さな子供の命がかか
っている時はもう信号無視でもスピード違反でも関係無くてとにかく病院に駆けつけて気
がついたら子どもの「輸血」を受け入れていた。それが当たり前な事で。しかし組織はそ
うした親の自然な感情や行動に同情も理解もできず,その行為が排斥に値するものなのか
白黒はっきりさせるため,あの冷酷で恐ろしい「審理委員会」を開き,淡々と裁判を行う
わけで・・・。奉仕であの時家の若い主婦の女の人は,自分に涙を流して訴えていたっけ。
「かわいそうだと。」自分はその人の自然に人間としてこみ上げてくる感情を理解してあ
げられなかった。一人の子供の命の尊さというものを考えず、自分の中の心もすっかり麻
痺していた。組織の用意した巧みな論理が染み付いて、組織が命令するおきてを何の疑い
もなく白か黒かいとも簡単に受け入れていた。クリスチャンとして本来持つべき愛を持っ
ていませんでした。パリサイ人がイエスに対して「あなた方の弟子がおきてを次々と破っ
ているのはどうしてなのか」と聞いてきた時、イエスは「健康な人に医者は必要でなく,
病んでいる人に必要なのです。」と。もう少しこの言葉をあの時深くかみしめることが出
来たなら。マインドコントロールされている限り,組織の中にいるとそれはなかなか気が
つかないのです。
 
「阪神大震災」あれは自分が組織から離れる三ヶ月前ほどにおきたのです。その頃はもう
マインドコントロールもだいぶ解けていて、組織の中の人たちのあまりにも人間味のない
会話を聞いてつくづく「ああ,この組織は本当の愛を教えてないな」と感じたものです。
「終わりの日の成就よね。」とか「神戸の兄弟姉妹たちのことが心配だわ,とか」そこに
今,エホバの証人以外の人たちも何千人と倒壊した家屋の下に埋もれている時に,組織の
人たちは自分たちの仲間たちのことだけしか頭に上ってこないのです。だからといって、
いてもたってもいられなくなり、神戸の仲間の兄弟姉妹たちのところへ飛んでいって何か
出来ないかと助けてあげようとする人も一人もなく,「冷静に」組織が何らかの指示を出
すまで平然と構えている長老たち。異様です。逆に私はその時アルバイトで長距離輸送の
運送会社に働いていて、仕事中、高速道路で行き交う何十台ものトラックが「阪神大震災
救援隊」という旗をなびかせて災害地へ向かう姿に感動して、私は思わずコンビニで買い
物した際に、レジの脇においてあった「阪神大震災救援金」というボックスに寄付をした
のです。今まで小さな頃から王国会館でしてきた「寄付」と比べて、生まれてはじめて自
分の心の正直な感情に動かされた「心からの愛に基づいた」「人間らしい」価値ある寄付
でした。
 
組織の教えにとって白か黒か,この思考回路がはたらく限り自分や他の人の中途半端さ、
弱さを思いやるといった同情心、感情移入、心の中のゆとりというものを許すことができ
ません。この人には愛を示すべきかそうでないか、この人と交わるべきかそうでないか、
この人はエホバの側かサタンの側か,この考え方は霊的か肉的か、これから取ろうとする
行動はふさわしいかふさわしくないか、いとも簡単に組織の基準で他人を判断し裁き、そ
していつのまにか自分も自分で裁くような傾向が身についてしまうのです。そしてその時
その人はますます組織にとって望ましい都合のいいように操縦されてしまう人間味の無い、
時として無感情にも平気でなれる「エホバの証人型ロボット」の完成に近づいてゆくので
す。
 
メールアドレス  pfreedom@nifty.com
 

《編集者より》
これは「そこに愛がありますか」(2)−フリーダムよりに続くもので、エホバの証人の根底にある硬直した二分的思考を、実例を引きながら見事に解析しています。広くエホバの証人の方々に読んで頂きたい必読のエッセイと言えるでしょう。