「1914年の拠点について」

(3-23-03)

  わたしは先月、会衆内での児童虐待について投稿さ
せていただいたものです。今回はエホバの証人の信仰の
根幹になっている「1914年」の拠点について、わたしな
りの理解について書き記してみました。

  こうして振り返ってみると、わたしがエホバの証人
と出会った時期はあと数ヶ月でハルマゲドンが来るとい
うときのことでした。しかし、わたしがこの事実を知っ
たのはしばらく後で研究司会者からもうじきハルマゲド
ンだということをひとことも聞いた記憶はありません。
エホバの証人として献身し、バプテスマを受けたきっか
けとしてこの時期に読んだ“真理”や“平和と安全”な
どから1914年の世代やC・Tラッセルが1914年を聖書か
ら読みとって40年近く前からふれ告げていたことに感動
したことがあったのです。
  でも、やはり30年近く協会の文章を読みつづけてい
ると“おやっ?”と感じざるを得ないところがあるもの
です。わたしはこの1914年の算出の仕方にこのように感
じました。特にその基点となっている、BC607年の算定
の根拠についてで、このことに気がついたのは20年以上
前のことです。

主題の聖句
  あなたは自分の言葉によって義と宣せられ、また自
分の言葉によって
       有罪とされるのです。−マタイ12章37節
(新世界訳)

エホバの証人に関する考察
−1914年について−
  JWICで公表されている“良心の危機”や“異邦人の
時再考”ほどエホバの証人に大きな打撃を与え、信仰を
揺るがすほどのものはないでしょう。この情報は現代の
エホバの証人の信仰の根幹を覆す力があります。わたし
は日本語版の“良心の危機”を購入して読み始める前に
ウェブサイトのこれらの文章をそれぞれ五回は読んだと
思います。あまりにもショックを受け呆然としてしまい
ましたので、自分の心を納得させたかったからです。わ
たしは抄訳版の“良心の危機”と“異邦人の時再考”を
読むうちに20年以上前からうっすらと感じていたBC607
年に関する算定根拠の疑問が正しかったことに気がつき
はじめました。その根拠となることを聖書と協会の出版
物から考察してみたいと思います。出典はすべて日本語
版です。

  “異邦人の時再考”も示しているように新バビロニ
ア帝国がメディア・ペルシャのキュロスによって覆され
たことはBC539年であることを世俗の歴史も、ものみの
塔協会も認めています。この事実は“聖書全体は神の霊
感を受けたもので有益です”や“洞察”の中で多く述べ
られています。わたしとして知っている限りではBC539
年についてもっとも多くの世俗の資料が1968年11月15日
号(p682-685)のものみの塔の研究記事にあります。
これらの記事を読み比べてみると、たしかにBC539年が
歴史上確立された年であることは理解できます。しか
し、異邦人の時である2520年間を数え始めるための607
年の根拠が定かでないことに気がつきました。
  つまり、協会の説明するところによると、BC539年
にイスラエル人がバビロンの支配から開放された、であ
るからエズラ書3章1節に記されている、第七の月にそれ
らのイスラエル人は故国に戻っていたというのです。ど
の出版物でもこの第七の月はおそくともBC537年だった
(代表的には同ものみの塔p685 23節・霊感p282、
283、285)であろうと書かれていますが、なぜイスラエ
ル人が故国に戻るまで二年の期間がかかったのかを説明
していません。別の考え方をすれば一年だったかもしれ
ないし、三年かあるいはまったく違うかもしれません。
わたしの知る限り、協会はこの二年間に関する証拠を提
出していません。(知っている方は教えてください)
  それで、単純に考えればBC539年から70年さかのぼ
ればBC609年になり、異邦人の時は西暦1912年までと
なってしまいます。さきほどの1968年11月15日号のもの
みの塔の研究記事には側注(p686)があって、エズラ
書の第七の月が天文観測から537年だということを示し
た文献が記されていますが、外国語なのでわたしにはわ
かりません。理由はともあれ、BC539年に二年を加えて
から、BC607年を算出しダニエル書で述べられている、
七つの時である2520年を数えないと1914年には行き着か
ないのは事実です。
  また、協会の説明ではイスラエル人のバビロン流刑
の期間はまる70年だったということになっています。し
かし、エズラ書の記録を注意深く読むともっと短い可能
性があることに気がつきました。この第3章12節ではバ
ビロンに滅ぼされる前の神殿を見て記憶している高齢者
(もちろん見たことのない若い者も含まれていた)が、
神殿の再建がはじまったのを見て泣いたことが述べられ
ています。これらの高齢者を含めた者の泣き声がかなり
遠くまで(エズラ3:13)聞こえたということですから、
バビロンから帰還できた高齢者は比較的大勢だったと推
測します。極端に高齢者が少なければこうしたことを記
録する意味がないと思われるからです。
  これに加えて、ものみの塔は読者からの質問
(1986・10・15 p31)でバビロンからエルサレムまでの
距離を直線で800キロ、遠くて1600キロとしています。
この中間の距離をとっても大勢の高齢者がエルサレムま
で旅することができたのでしょうか? 1000キロという
のは東京から九州の福岡ぐらいの距離です。
そして当時バビロンにいたダニエルは100歳ぐらいとさ
れていますし、詩篇90編では人の寿命が70年か80年とさ
れています。協会が以前に人の記憶が残って当時のこと
を理解できる年齢を10歳とか15歳としていたことを考慮
すると、エルサレムに帰ることができた高齢者は80歳か
ら85歳ぐらいになります。もちろん当時は現在のような
交通機関がありませんので、徒歩か家畜に乗って旅行し
たのでしょう。かりに1200キロの距離で一日40キロ進ん
でも一ヶ月はかかります。協会の説明では何ヶ月もか
かったようですし、同じ聖書の記録ではかなり危険だっ
たので、軍隊の要請(エズラ8:22)を考慮する必要が
あったようです。
  現在でも元気な高齢者で自転車などに乗れる人もい
ます。しかし、何ヶ月もかけて1000キロ以上の旅を徒歩
や家畜でできる人がどれほどいるでしょうか。それにバ
ビロンから帰還する人たちは、ネブカドネザルが奪った
エルサレムの神殿の重い器物などを大量に運ばねばなり
ませんでした。−エズラ1章
  こうしたことを考慮すると、泣き声を遠くまで聞こ
えさせるほど高齢者はかなり大勢存在していたこと、そ
れゆえエルサレムに帰還できた高齢者は比較的若かった
(少なくとも多くの場合80歳以下)と考えられるので、
バビロンにイスラエル人が捕囚になっていた期間は70年
間より短かったと思われます。それで、やはり70年間と
いうのはイスラエル人がバビロンで囚われていた実際の
年数ではなく、バビロンがイスラエル以外の諸国をも含
めて(エレミヤ25:11-14)隷属させた全期間ではないで
しょうか。
こうした根拠で、わたしはひっそりとBC607年というの
は1914年から逆算した数字かもしれないと考えていまし
た。もちろんサイトを見る前にです。危険ですから誰に
もしゃべりませんでした。今でも現役の奉仕の僕ですか
ら、これが見つかったらたちまち審理問題にされ、背教
者扱いにされるでしょう。
  
  これらの歴史的証拠はカール・オロフ・ジョンソン
兄弟が調査してくださった学術論文である“異邦人の時
再考”に詳しく述べられています。日本語で読んでみた
い本です。わたしにはあのような調査ができませんの
で、兄弟が調査してくださったこと、要旨と抄訳を掲載
してくださったことに深く感謝いたします。そのため
に、わたしがうっすらと考えていた聖書的な根拠の正し
さに確信を与えてくださったのですから。
  
※上記の「1968年11月15日号のものみの塔」は“良心の
危機”でも引用されており、1975年のハルマゲドン説を
強く主張している内容です。特に第二研究記事では
「1975年を待ち望むのはなぜか」というタイトルです。
この記事の35節ではマタイ24章36節の聖句の説明とし
て、「『ただ父だけが知っている』と言われたイエスの
ことばをもてあそぶときではありません」と強く述べて
います。
<後略>

《編集者より》
1914年の計算法の欺瞞が、ここまで一般のエホバの証人の間に知れ渡っていながら、いまだにものみの塔の組織がこれを素直に認めて正そうとしない理由は幾つかあります。その最大のものは、1914年の教義が今までものみの塔の教義の中で非常に大きな比重を占めてきたために、これを変更することはものみの塔宗教の根幹を揺るがすことになりかねないこと、一部のエホバの証人の「知識人」以外は、歴史を調べたりそれを理解する能力も気力もなく、組織が何も言わなければ、欺瞞はいつまでも「真理」として通用すること、そして何よりも統治体が背教者の意見を取り入れて教義を変更する醜態を見られたくないというプライドが、彼らにへりくだった態度を忘れさせている最大の要因であろうと、私は思っています。