「聖書の原則をあてはめて」−フリーダムより

(3-21-03)

私が小学生のころ,親に隠れて仮面ライダーのテレビを見るのが楽しみでした。理由
は簡単,戦いのテレビだから。今考えると笑ってしまいますが。そうそう,テレビ自
体も世の精神を反映する情報媒体っていうことで我が家ではテレビのブラウン管を何
回ハンマーで叩き割ったことか。やっぱりテレビが見たいという子供たちのお願いで
買ってみては壊し,買ってみては壊し。当時はテレビは良くないという聖書の、ある
原則にのっとった組織の提案でしたから。主婦の姉妹たちは連続ドラマも警戒しなく
てはならない,なぜなら霊的な事柄に使えるはずのたくさんの時間を奪う「時間泥
棒」だから。だから奉仕活動中や王国会館の中で,「あのドラマ見たー?」なんてい
う会話はまずありえません。だから主婦の姉妹たちも「こっそり」見ているのです。

さて,生活の事細かなことまで組織は私たちの生活の規範を指示してきます。それは
「聖書の原則」にのっとって。この聖書の原則に基づいた規則作りが統治体の兄弟た
ちは大好きなようです。そう,統治体の兄弟たちの聖書の原則に対する理解が拡大解
釈に基づいてしまう場合もあるし,過小解釈もありうる,つまりやりたい放題なので
す。「血を避けなさい」という聖書の原則は輸血拒否を成員に教えるものとなってい
ますが,この原則の解釈は数年前まではすべての血を避けるというものでした。近年
この解釈は拡大解釈されその血の成分の中のあるものは成員一人一人の判断で、なん
ていういい加減な理解になってしまいました。そうなんです。数年前まではある病気
で輸血が出来なくて死んでしまった場合もあれば,今回の新しい解釈のおかげで今は
同じ病気でも助かる人もいるのです。数年前までは輸血をしてしまった人が排斥され
た時代もあれば,今はある成分に限ってはということで排斥措置がなされないので
す。解釈の変更のたびに成員はその解釈を受け入れていかなければならないのです。
この村本さんのホームページの中のリンクのひとつ,「エホバの証人と血の教え」を
開いて読んでみてください。その中で2000年6月1日号の読者からの質問に関する説
明が質疑応答の容で載せられています。司会者が証人からつっこまれると司会者は
「それは協会本部がエホバの御意志に基づいて決めたことですので,私たちが自分で
心配する必要はありません。」「そんなことは聖書に書いてないのはあたりまえで
す。これは統治体の兄弟たちが祈りのうちに決めたことで、私たちはそれに従ってい
ればエホバのご意志に従うことになるのです。」「それはあなたの考えで、組織の見
方ではありません。あなたの個人的な見方を他の兄弟姉妹に押し付けるべきではあり
ません。」「これはエホバの真理の光が増し加わったことによって、統治体の兄弟が
決めたことですから、あなたが心配するべき問題ではありません。」 トカナント
カ、もう支離滅裂です。この司会者の心理構造は、オウム真理教の松本教祖がサリン
をまきなさいと言われたときに、何の疑いも無くまいてしまう信者の心理とまるっき
り同じです。いうまでもなく組織は組織が提供する出版物に指し示されている提案や
決まりごとはすべて聖書の原則に基づいていると主張しています。冒頭で取り上げた
ように,テレビを見ることから,テレビの番組の良し悪しまで,大学に進学すること
はふさわしいか,今は結婚するのがふさわしい時期か、子供をもうける時期か,組織
はこれらの見解をコロコロ変更して,成員各人はそれをどう受け取るかで人生に重大
な影響を及ぼすのです。

組織によって与えられるさまざまな提案や決まり事に各成員が従い,当てはめていく
とき,組織はそこに「一致」があると誇ります。私たちは「清い言語」で結ばれてお
り,一致した言葉,一致した知識,一致した生活行動をとることで世界中で有名と
なっていると。では,そこに本当の一致が見出せるのでしょうか。北朝鮮のテレビの
映像が映し出されるとき私たちはそこに何を感じますか。小さな子供たちが同じ表情
でにこにこ笑い,同じ格好で踊る様子を見て不自然さを感じませんか。一糸乱れぬマ
スゲームや軍事パレードを見て異様ではありませんか。そして何よりもその国の全員
が一人の指導者をあれだけ賛美し服従する人々の姿を見て私たちはそこにどんな一致
を感じ取るのでしょうか。そこに見られるのは国民の一致ではなく国民が盲目的に従
う姿です。2003年5月8日号「目ざめよ!」誌の中でクリスチャンの一致が言及されてい
ます。そこにはこう書かれています。

「それゆえクリスチャンは、自分の信じている事柄が、み言葉の中で神がご自分とそ
の目的について啓示しておられる真理と調和しているかどうかを確かめます。」

先ほどの輸血に関する司会者と証人による質疑応答にも見られるように、「証人」が
自分の信じている事柄がみ言葉の中で啓示しておられる真理と調和しているかどうか
確かめようとするとき、組織は「黙っていなさい、み言葉と調和しているかどうかで
なく組織の出す教えと調和しているのかどうか確かめていれば良いのです。」と言い
ます。その同じ記事の中で組織は「教理の面でも一致は大切です。」と言います。し
かし組織は聖書の原則に照らし合わせながら,その解釈をコロコロ変更してきまし
た。成員には一致の大切さを説きながら、組織の聖書の解釈そのものはいつも変更さ
れその教えに、信条に、一致は見られてきませんでした。記事はさらに「神への愛
は、神のおきてに進んで服するよう私たちを動かします。・・・パウロはこの点で立
派なな手本を示し、教理に関する事柄において一世紀の統治体の権威に服しまし
た。」とあり、ついに組織の本音が出てきます。統治体にその権威があるかどうかは
確かめたり疑ってはならず、ただ「服す」のです。成員がいわば何の疑いを持たず、盲
目的に信じ,盲目的に従うことで、そこに組織のいう一致が成立するのであって、そ
れは本当の一致ではありません。

聖書に書いてあることを「原則」にしてその原則のもとにいくつもの規範を作り出す
組織,イエスは弟子たちに聖書の中から次々と多くの新しいおきてを作り出していく
ようになどと言われたでしょうか。イエスは弟子たちに新しいおきてを与えられまし
た。それは幾つものおきてではなくただひとつ,「あなた方が互いに愛し合うこと,
つまり,私があなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。あなた
方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方が私の弟子であることを
知るのです。」クリスチャンが一致するのに必要なおきてはたったひとつなのです。
それはただ愛するということだけ。各人はそれを動機としていろいろな生活の中で何
をし何を考えていけば良いのです。それとは対照的に、イスラエルに与えられた律法
を次々と拡大解釈して細かな規則を作り出してきたパリサイ人と書士たちにイエスは
こう言われました。「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えてい
るのはどうしてですか。・・・・こうしてあなた方は,自分たちの伝統のゆえに神の
言葉を無にしています。偽善者よ、イザヤはあなた方について適切に預言していまし
た。「この民は、唇でわたしを敬うがその心はわたしから遠く離れている。彼らが私
を崇拝しつづけるのは無駄なことである。人間の命令を教理として教えるからであ
る。」「彼らのことをほおっておきなさい。。彼らは盲目の案内人なのです。それ
で、盲人が盲人を案内するなら、二人とも穴に落ち込むのです。(マタイ15章1
節〜13節)

最後にブルックリンの本部で働く兄弟たちに次のような「聖書の原則」を自分たちが
当てはめてみることを提案します。

「わたしは、すべてこの巻物の預言の言葉を聞くものに証する。これらのことに付け
加える者がいれば、神はこの巻物に書かれている災厄をその者に加えるだろう。」
(啓示22章18節)

なんでもかんでも鵜呑みにして,それに従い,それを守ろうとするとき。しかし逆
に,従いたくても従えないとき,守ろうとしたけれども守れなかったとき私たちはど
のようになってしまうのでしょうか。次回の投稿で取り上げたいと思います。

メールアドレス  pfreedom@nifty.com

《編集者より》
もう一つ聖書の引用を付け加えるなら、「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、それを彼らの心の中に書き記す」(ヘブライ 8:10 )をここで挙げることができると思います。ものみの塔の教理やパリサイ人の律法とイエスの新しい律法の違いがここで明快に示されていると私は思います。ものみの塔の律法はものみの塔誌の神に書かれ、パリサイ人の律法はトーラ−に書かれていますが、イエス・キリストの新しい律法は、信じる人一人一人の思いの中、心の中に書かれているのです。一人一人が全く同じ状況にいない以上、その「一致した」律法の適応が人により時により変わっているのは当然でしょう。この問題は、イエス・キリストの教えとものみの塔の教えとの本質的な違いを浮き彫りにする重要な点であると思います。