エホバの証人のオカルト的要素

(3-14-03)

JWの民間伝承にはオカルト的な要素があります。非常に多くの怪談(悪霊談)が存在して
います。また偶像を避けているように見えますが、実際は偶像や媒介物と呼ばれるものに
対する恐怖心から忌避しています。それは形を変えた偶像崇拝、偶像に何らかの力が働い
ているという恐怖心による物品忌避であります。いわば「たたり」を恐れているのです。
「触らぬ神にたたり無し」。「使徒たちの活動の書」に出てくるエフェソスの人々の精神
とは全く逆です。彼らは「物品に何の力も無い」事が分かったので処分したのであり、
「その力を恐れて」処分したのではありません。

 
これらの客観的な観察から彼らが邪悪な霊の支配下にある事が分かります。

 
JW一般は自分にとって良い事はすべてエホバ、悪い事はすべてサタンという非聖書的な
二元論的世界観を持っています。ものみの塔協会でさえここまで極端でラディカルな立場
を取りません。「時と予見しがたい事は誰にでも臨む」のであり、全ての現象の原因を
「エホバかサタン」に求めるのは早計・短絡的・自己欺瞞的・ご都合主義的でありません
か。この点であなたは独自の宗教的観念を持っています。例えば「良い事はすべてエホバ」
と言うのは、自己中心的発想に起因しており、「悪い事はすべてサタン」と言うのは、自
己責任回避の考え方に起因しているようですが、いかがなものでしょう。

 
「エレミヤ」などの預言者達、またイエス御自身もはユダ・エルサレムの滅亡に悲しみ、
涙すら流しました。使徒パウロは自分を迫害するユダヤ人が救われるためならこの身も惜
しくないと語っていますし、他の聖句には「迫害する者のために祈りなさい」とあります。
 

今日「預言者」級を自認している人達の示す態度はどうでしょうか。例えばラザフォード
は「キリスト教世界の心臓をえぐり出してやる」と叫んだ事があります。「預言者」級に
追従している人々も、敵意と憎しみと嫌悪感で満たされていませんか。「預言者」らしか
らぬ精神を持っているようです。

 
JWが教会批判をするのは敵意からだけではありません。どこの世界でもそうですが、民衆
を教化してある共通の敵を作り上げる事によって、一致団結の精神を作り上げる事ができ
ます。JWの団結もキリストの体に対する攻撃によって成立しています。

 
支配者にとって統一は非常に統治しやすい条件と言えます。支配者の定めた法と秩序を守
らせやすくなるのです。しかしそのような体制は非常に独裁的であり、人々から自由を奪
ってしまいます。また共通の敵が無くなると今までの一致団結は雨霧消散してしまいます。
ですからJWの組織の一致団結にとって、(十派一からげにして)共通の敵「キリスト教世
界」が必要なのです。ですから敵は敵でなくては困るのです。そのためには「敵は偽りで、
自分達は正しい」と宣伝し続けないといけません。このことからJW全般は自分達の正さの
証明に必死になっている理由がよく分かります。しかし「自分の義の証明」=「自己義認」
はヘブライ人への手紙で戒められていますから、さすがのJWも「露骨に」「ストレートに」
それはできないでしょう。自己義認こそは罪の本質だからです。そこで「エホバの主権の
正しさを立証する」という教理が形成されていきました。これによって「エホバの主権の
正しさを擁護する」という建前を取りながら、実質的に「JW組織の主権の正しさを擁護す
る」事のために多くのJWたちを動員できる体制ができました。こうしてJWは日夜「自己義
認」に打ち込まなくてはなりません。しかしJW個人としては「エホバの主権の正しさを擁
護」しているという錯覚に陥っています。そもそも神が御自分の正しさを人間に立証して
もらわなくてはならないことが、神性への冒涜と言えないでしょうか。他の証明を必要と
するようならば、それは相対的な主権に過ぎません。神は絶対的な主権者であります。そ
の主権は何者にも依存しておらず、自存しています。

 
JWにとって教理はたいして重要ではありません。JWの教理が聖書に書かれている事を越え
ていることを問い詰められると(例えば啓示の書のこじ付け解釈など)、「奴隷級」を認
めるかどうかという話になってきます。結局、聖書よりも人間の取り決めのほうが重視さ
れ、権威を持っている事が分かります。

《編集者より》
エホバの証人が偶像を恐れて、その結果偶像の本来の意義をはからずも最も尊重することになっていることは、幾つもの例や証言から明らかです。例えば一般の人が宗教的な意味など考えてもいないクリスマス・ツリーを見て、目の色を変えて恐ろしく避けなければならないものと見る。これは一般の人よりもエホバの証人の方が遥かにクリスマス・ツリーと言う物体に大きな宗教的な意義を置いていることであり、すなわち偶像に支配された宗教と言えるでしょう。また、エホバの証人の教義が自己中心的発想と自己責任回避の考え方に通じているという見方は実に的を得ていると思います。つまり良いことは全て自分たちに関連付けて解釈し、悪いことがあると全て自分以外のもの(サタン)に関連付けて解釈することです。そこには「内なる悪」の見方がなく、従って真の罪の意識は出てきません。サタンが悪いのですから、どこに自分の責任があるでしょう。ここにものみの塔協会の倫理的思考停止が起こるのだと思います。

なお、この投書は他の「大論文」と一緒に頂いたため、読み通すのに時間がかかって掲載が遅れました。おわびいたします。