偶像の語るもの(七転八起)

(3-6-03)

約1年ぶりに投書します。

最近、趣味の写真の被写体として石仏を撮影しています。
特に、磨崖仏と呼ばれる断崖に彫られた仏像を写しています。
山中の崖に千年以上の昔に数メートル以上もある仏像を、誰が
どんな方法で、どんな願いをこめて彫ったのであろうかと考えさせ
られます。畏怖の念を抱かせるほど堂々としていたり、平安な表
情に安堵感を感じたりと、それぞれの石仏と会話する日々です。

きっと、平和や繁栄、安全など、人々の幸福を願って、人生を捧げ
て、造られたのでしょう。そんな偶像を見ていると、ものみの塔が
忌み嫌うよう教えているものとは全くちがう、時を越えて人々に真
の生き方を問いかけてくれる存在であると感じます。石仏の前に
立って、愛や平和を説いてくれているのを感じます。

偶像そのものを神格化することには問題があるでしょうが、偶像に
こめられた願いを感じ取って、共通の気持ちを抱いて生活すること
は、人々益になります。証人であった時には、組織の教えの影響
で、偶像の近くへ行くと気分が悪くなりましたが、それはマインドコ
ントロールによる自己暗示であったことが、今はっきりとわかります。
人の手によって造られたものですから、芸術性を感じ取ったり、作者
が訴えたかったことを感じとればいいわけです。恐れたり、気味悪く
思うことは、組織の洗脳の一部だと感じます。

最近、写真を施設で出張展示するボランティアを始めました。HPも
公開しているのですが、個人を特定できる内容を含んでいるので、
紹介できないのが残念です。このHPで啓発されて、続々と元証人
や現役証人が集えるHPが公開されているのは、嬉しい状況です。
村本さんの努力が実っている分野とも言えるでしょう。村本さん、
本当にご苦労様です。

《編集者より》
偶像崇拝の問題は、偶像の物体そのものにあるのでなく、それを受け入れる人間の心の側に問題があるのだと思います。いわゆる偶像と言われる宗教的象徴物は、信仰の対象となるだけでなく、芸術遺産として宗教の外にある人々にさえ、心の安らぎを与えてくれます。その昔、京都のお寺を訪れ、美しい寺院の中で何百年の歴史のある仏像と共に静かに座っていた時、別に崇拝するわけではなくとも、心の平和を与えらたのを覚えています。そして全く同じ心の平和は、数年前に訪れたアラスカに昔からある小さな村の中のロシア正教の小さな教会の中でも得られました。そこには美しいアイコンの数々が飾られていました。仏像とアイコンは違っていても、人が美しいものを見て心を動かし、平安を得ることは、場所も時代も超えた人の営みです。宗教はそのような象徴物を、人々の心の安らぎの道具として使いました。イエスが教え、今のエホバの証人や多くのクリスチャンがやっている、ぶどう酒と種無しのパンの儀式はそのような象徴物の典型でしょう。ぶどう酒も、パンも、画像も、全て何かを象徴しており、その象徴を宗教的な意味で受け入れるか、芸術として受け入れるか、これは個人個人によって異なるでしょう。ものみの塔のように「これは偶像だからだめ、あれは偶像でないからいい」と指導者が勝手に決めて信者に押し付ける時、宗教的な意味も、芸術としての美しさも、伝統の重みも、全てはエホバの名を借りた統治体の規則によって踏みにじられます。そのようなマインド・コントロールの中で生活してきた元エホバの証人にとって、自由な気持ちで「偶像」の真の美しさと意味とを味わえることは、きっと新鮮な驚きと喜びであったろうと思います。七転八起さんは、引き続き趣味やボランティア活動を通じて心のリハビリを進めていられるようで、お元気で活躍されている様子は、今後とも後に続く元エホバの証人の大きな心の支えになると思います。ありがとうございました。