神の言葉全体を公平に強調することについて

(2-26-03)

巡回大会で、すべての道においてエホバに依り頼むことが強調されました。
神の言葉を当てはめるとき、自分の都合のよい言葉だけに従い、都合が悪
い言葉は無視するということがないようにしなければならない、それがエ
ホバに頼るということであり、物事がうまくいく方法であるという内容で
した。
それに異論はありません。
そして、まさに統治体そのものが、出版物や講演の筋書きを作成するとき
などにそれを実行したなら、会衆はもっともっとすべての人にとって霊的
パラダイスに近いものになると思いました。
関連する神の言葉すべてに注意を喚起し、公平に当てはめさせるなら、疎
外感を感ずる人や優越感を感じる人、苦しむ人や軽薄ボケになる人が増え
るはずはないのです。
具体例として、一つ目に結婚問題を挙げてみたいと思います。
あからさまにはなっていないかもしれませんが、統治体の記事の書き方ひ
とつで、聖書的な見方と対等な自尊心を与えることができる問題です。
以前、海老名の大会ホールだったか王国会館が、近隣の人たちから結婚式
場と間違われたそうです。その後、結婚式に使用することを禁じたので、
そう言われることはなくなりましたが、ベテルの影響は大きく、また、第
2次ベビーブーム世代が適齢期になったこともあって、長い間あちこちで
結婚式が行われました。その中で、独身のままの人たちも当然現れます。
あのころの大会やRBCは、霊的関心事という「形」の中で、世でいうナ
ンパに等しい不安定な目つきの「霊的男女」がウロウロしていました。
そして、結婚にこぎつけた人は「勝ち組」、できなかった人は「負け組」
という暗黙の図式ができ上がっていきました。
ベテルでも、また、統治体でも、自分たちが先駆の手本となっていますか
ら立派なことは言えません。結婚はエホバが創始したものであるから幸福
な結婚は神の賜物で、本当に楽しくいいものだとか、人間はそのように造
られているとか、罪ではないとか、イエスも祝ったとか、挙げ句の果ては、
リベカもラケルもサラも美しかったとか、そういう聖句だけが印象に残る
ような、片手落ちの記事や講演が作られました。
その結果、軽薄思想に拍車がかかったと思います。ベテルの兄弟の結婚の
基準は、「人格は楽園で直るが、容姿は直らないから容姿のいい人を選ぶ」
といううわささえ流されています。真偽のほどはわかりませんが、確かに
彼らは皆容姿のいい人を選びますし、先ほどのサラやリベカを引き合いに
出して、その選択は聖書的だという根拠をさりげなく、でもきっちりと示
唆します。それはまあ本能なので仕方ないとしても、そういううわさが流
されるほど軽薄感を持たれていることを物語っているとも言えるでしょう。
幼稚なロマンチストというか、ベテルぼけというか、世間知らずというか、
せっかくベテル式話術やスマイルを身につけても、また、地方の兄弟姉妹
たちから「霊的な人」のレッテルを張ってもらってアイドル視されても、
幼稚な人間性を暴露する点で自爆状態になっては先が思いやられます。
万が一、本気でそういう考えに影響されている人がいるとしたら、それは、
ベテルにいる限りは通用する基準かもしれないが、ベテルが閉鎖になった
り、ベテルから出されたりしたあかつきには、夫婦関係も含めた人間関係
すべてにとって、人格がいかに重要かを思い知ることになることを伝えて
おきたいと思います。
離婚理由のトップが性格の不一致と言われるほど、人格的なことからくる
苦痛は大きいものなのです。最悪の場合、1年でも体を壊します。容姿も
セックスも、1年も一緒にいたら説得力がなくなることを知るでしょう。
容姿は大抵の場合、毎日見ていると美形でもおかちめんこでも、やせでも
でぶでも同じことになるのです。見なれて別に何とも思わなくなります。
だからこそ、中年になって見違えるほと変形しても仲のいい夫婦が多いの
です。
脱線しましたが、「エホバの見地で物事を見る」とか「エホバの観点で考
える」ことを推奨している統治体が、片手落ちな仕方で聖句を強調する情
報を流せば、軽薄組が軽薄思想を助長させるのは必至です。「勝ち組」の
優越感をくすぐり、「負け組」が劣等感を持つよう仕向けられても仕方な
いでしょう。それとも、劣等感を持つ方が悪いと言いますか。
もし、関連する神の言葉全体を公平に強調し、真に神の見地で記事が作成
され、流されれば、こういうことは生じ得なかったことを考えると、情報
の流し方に問題があったことを否定することはできません。
確かに、結婚は神が創始したもので、アダムとエバが造られた時点ではも
ちろん、古代社会では、子孫をふやすことは大切なことであり、国力にも
つながりました。文字通りの戦争もしなければなりませんでしたので、子
供を沢山生む女性は圧倒的優位に置かれる社会で、産まず女は恥とされま
した。
でも、イエスが来られてからは霊的状況にさまざまな変化が生じ、キリス
ト教になってからは、結婚についても独身が勧められています。エホバが
結婚を創始されたことや、「産めよ、増えよ」とおっしゃったことは事実
ですが、その頃を引き合いに出して記事をつくるのは霊的時代錯誤であり、
「エホバの見地」からのものではありません。現代のクリスチャンは、独
身を保ちながら霊的なことに高い関心を持っている人の方が、イエスや神
の見地からは優位な存在、より立派で忠節な存在なのです。コリント第一
7:38では「……結婚しないで、童貞性を離れない人は、さらに立派に行動
していることになります」と明記されています。それ以外の見方は、時代
錯誤か世の偏見を反映したものでしょう。(もちろん、独身者が自動的に
優位であるなどと言っているのではありませんが)。
以前にも書いたことがありますが、キリスト教になってからは、「情欲に
燃えるよりは結婚したほうがいい」とか、「自分が童貞性にふさわしくな
いふるまいとしていると思う人」は「若さの盛りを過ぎてから結婚しなさ
い」と記述されています。もちろん罪ではありませんし、この聖句を使っ
て禁欲を強制するのも「エホバの見方」ではありませんが、禁欲できる人
と、できない人がいるという事実を認め、自分を美化せず、卑下せず、自
制できない人は結婚すればいいというのが、キリスト教の見地です。それ
以上に美化もせず、それ以下に卑下もしないのが聖書的見解です。
そして、それをそのまま成員に流すのが、「エホバの見地」を推奨する人
たちの重要な務めであり、決して都合によって手心を加えたり、「混ぜ物」
を提供してはならないのです。
結婚ブームの後の別居や離婚ブーム(秘かに進行中とか)で、さすがに最
近は慎重を期すような記事が多いですが、それは結婚の失敗について論じ
ているだけで、結婚そのものに対する聖書的見解を修正しているわけでは
ありません。
もちろん、どちらの人たちも霊的な事柄に深い関心を持っていることが前
提での話です。
関連するすべての聖句が公平に強調されていたなら、いたずらに軽薄な考
えを助長することはなく、彼らや、ある種のオバタリアン姉妹たちが本質
的に持っている俗っぽさ、好奇の目などを助長することもなかったでしょ
う。彼らの思考回路には、聖句を引用するだけで神のお考えがインプット
されることはありません。かなりの衝撃とともにインプットしない限り、
自家製変圧器で情報を都合よく変化させて取り入れるのです。率直で明確
な強調をして、しかも何回も繰り返して、やっと修正されるようです。
結婚のことだけでなく、さまざまな問題において、関連する神の言葉すべ
てに真に公平に注意を喚起するなら、会衆にある肉的温床は自然消滅し、
自然に真の霊的パラダイスとなっていくでしょう。初めからそうしていれ
ばよかったのですが、今からでも仕方ありません。
神の言葉は、正しく用いるときには優れた道具になりますが、誤用したり
偏向的に用いるなら、人に致命的害さえ及ぼす道具になるという意味でも
諸刃の剣かもしれません。統治体の責任は重大なことを深く認識し、くれ
ぐれも注意してほしいと思います。
単なるリップサービスでときどき形式的にほめるのでなく、具体的な特権
を何か用意するとか、形で示すことが軽薄志向にきちっと歯止めをかける
ものとなると思います。開拓者であるとか、ないとかにこだわって形式的
に量るのでなく、霊的関心度に基づいて公平な誉れを独身の姉妹たちにも
与えることを望みます。それぐらいしないと俗的軽薄軌道を聖書的軌道に
修正することは無理でしょう。いわば俗的本能との闘いみたいなものです
から。
ちなみに私は既婚者で、利己的動機で訴えているのではないことをつけ加
えておきます。念のため。

もう一つの例は、人を許すことに関してです。
不完全な者同士、互いに惜しみなく許し合うことが「神の見方」であるこ
とを否定するものではありません。
しかし、惜しみなく許し合うことの以前に、まずそれぞれが努力しなけれ
ばならない分野があり、それが前提になっての話です。さまざまな理由で
肉的な傾向を自制できない人ほど、人に毒や害を与えます。
利己心で人を刺し、会衆に不和の種をまきます。そして、不運にもそのタ
ーゲットになってしまった場合、その人が神の見地で物事を見、愛を示し
て惜しみなく許すことは間違っていません。
間違っているのは、その種の記事がいつもその段階で終わってしまってい
ることです。それは明らかに片手落ちであって、会衆がいつまでもその種
の問題を温存し、ターゲットになる人の負担ばかりが増加することになる
という重大な問題を生み出すことにつながります。
七十七回許すことを強調するのと並行して、いや、むしろそれ以上の重み
で肉的な傾向をガツンと戒めるべきでしょう。元凶はそこにこそあるので
すから。
肉的な傾向はコリント会衆にもあったとか、人間は不完全だからという理
由で、毒気をまく加害者に関しては話をさらりと流し、犠牲になる人に関
して七十七回許すことを強調するのは、本当に神の見地でしょうか。
パウロは、「惜しみなく許すように」とも言っていますが、同時に肉的な
傾向についてもガツンと、率直に、そのままでは死に値すること、神に忌
み嫌われることを言っています。さっきも書いたように、そういう人たち
は共通して自家製変圧器を持っており、耳の痛いことはすべて「不完全さ」
の低電圧に切り換えますから、協会の記事がそれを支持するようなことを
書くものなら、鬼の首を取った状態で前進の動機付け皆無になるのです。
パウロのように、神の言葉を公平に分配して初めて会衆は改善し、片一方
に負担がかかる状態が繰り返されることはなくなるでしょう。
もちろん、被害妄想の類のケースに対しても公平に聖句を分配しなければ
なりませんが、霊的片手落ちが成員を苦しめることは皆無にしなければな
りません。
キリスト教のもとでは、肉的傾向が強い人、利己的な人が苦しむのは当然
のなりゆきで、その苦しみがその人を成長に導くという点で、むしろ敬虔
な苦しみとも言えます。しかし、善良な人、努力する人、まじめな人たち
こそが苦められる場合も多くあるのです。そういう人たちが会衆内で苦し
むのは、敬虔な苦しみではなく、不当な苦しみであり、サタン的要素を含
んだ苦しみです。それを直接生み出しているのは、会衆の自称霊的成員で
すが、生み出す源は統治体の教え方、記事のつくり方、聖句の適用の仕方
にあることを否定できません。
ゆめゆめ偽善者育成に拍車をかけることがないよう要望します。偽善者を
幾ら沢山そろえても無意味です。神が喜ぶはずはありません。
神は、「数によらず」「霊によって」物事をなし遂げていく方ですから、
少数でも本物をそろえたほうが業は発展するのです。偽善者をふやすこと
は、霊的な業の妨げ、聖霊を妨げることにしかなりません。人数が減るこ
と自体は伝道活動には全く影響はしません。数によらない分、むしろ霊の
援助が増すだけのことでしょう。人数が減って困ることがあるとしたら、
それは人間的理由によるものです。
ぜひよろしくお願いします。
村本さん、読者の方、長くなったことをおわびします。きりのいいところ
で切って、次回に回していただいても結構です。
対等に意見を述べる場を作っていただいて、ご親切を感謝しています。

《編集者より》
神の言葉を、あなたの言う「自家製変圧器」によって自分の都合のよい強さの強調に変えて使うことは、あなたのおっしゃる通り、エホバの証人の指導部の常套手段ですが、これは他の原理主義的キリスト教団体にも多く当てはまります。結婚すべきか独身を通すべきかの強調の問題もそうですが、聖書のある部分を強調すれば戦争、特に「聖戦」は正当化されることになりますが、聖書の別の部分を強調すれば戦争は全て拒否することになります。同じように聖書のある部分に注目すれば奴隷制度は正当化されますし、別の聖書の部分を引っ張ってきて奴隷制度は間違っているという議論もできます。これはエホバの証人問題を超えた、聖書自体の問題であると思います。聖書は1000年近くの長い年代を経て多くの筆者によって蓄積されてきたもので、その内容には一貫性がありません。従って、聖書のある部分で言っていることと別の部分で言っていることとが矛盾していることはいくらでもあります。それはそれで仕方がないことですが、それをものみの塔協会や原理主義キリスト教信者が「文字通り」の解釈を掲げて、聖書の無謬性を主張して自分の解釈が絶対に正しいと信じ込んでしまうと、元々の土台が矛盾しているものですから、とんでもない結果に陥るのです。私はその意味で、聖書の「有謬性」を先ず理解した上で、素晴らしい書物として読んで解釈していくことを訴えたいと思っています。