「率直な気持ち」−エホバの証人である妻と暮らして

(2-16-03)


 約三十年エホバの証人である妻と暮らしてきたことに対する私の気持ちを率直にお伝え
したいと思います。
 
 三人の息子たちはそれぞれ成人し、現在、次男だけがエホバの証人となり、結婚し、女
児の孫がいます。妻は熱心な信者で、集会や奉仕を休んだりすることはまったくといって
いいほどありません。私は仕事上、海外勤務になることもありますが、同道する妻は禁令
下の国であっても集会に参加したり、奉仕活動に勤しむことを止めません。
 私はそうした彼女に対し、徹底して「傍観者」の立場を貫いてきました。最初幼児期に
あった息子たちに鞭を与える姿を見た時はさすがにショックというか、日本という風土に
合わない違和感に足がすくみ、たじろぎましたが狂気じみた彼女の形相に二の足を踏み、
泣きじゃくる子供への鞭が止まるまで、別室で息を殺しておりました。基本的には「ダブ
ルスタンダード」というか、異なった価値観で子供を育てるのはよくないという、もっと
もらしい理由をつけてはいましたが、やはり「幼児虐待」に加担したという罪悪感は、今
も拭い去ることができません。
 その後、紆余曲折、いろいろなことがありました。ただ、原則として妻の価値基準を受
け入れる姿勢を貫き通すことで、子供の教育に
も関わっていこうと考え、大会のある時は車の運転手となり、家族で大会に参加もしてき
ました。そんな私が、「無知」であった自分を嘆き、地団太踏むほどの悔しさを味わう契
機となったのは、拉致問題によって「北朝鮮」がにわかにクローズアップされてきたから
にほかなりません。「エホバの証人」も「北朝鮮の国民」と同じではないか、との念が頭
をもたげてきたのです。
 金日成・金正日への忠誠を誓う北鮮の人々は、まぎれもなく「組織」に忠実であるエホ
バの証人の生き方と同じだし、「世の人」を「邪悪な人」と決め付け、その交わりを断つ
のは、外国からの情報源を一切封じる北朝鮮と同じ手法です。「脱北」を企てた者を懲ら
しめる悪辣な処罰も「断絶」「排斥」ということばをぶつけ「口をきくな」とまで言い、
その人間性を剥奪するほど残酷で徹底した「仕打ち」と同じです。これが「愛・喜び・平
和・・・・・」と説く霊の実・「愛」の実態なのでしょうか。映像でみるかぎり北朝鮮に
住む、特に北方の人たちは今、凍飢の中で「死」と向き合っています。エホバの証人たち
も今、「人間性」の「死」に直面しているのです。
 こう考えてきた時、私は自己嫌悪に陥らざるをえません。かといって、性急な態度で妻
を引き離そうとしては、妻はいっそう「かたくな」な態度に出てくるでしょう。
 ほんとうは、もっと書くつもりでしたが、今回はここまでにします。最後に、これまで、
エホバの証人の間で生じた問題として「傍観者」の立場で見聞してきたことのいくつか
(氷山の一角です)を挙げて筆を措きます。すべて、最近の一会衆内でのことです。
 
・長老の子(女子高校生)が、学校で番長格となり、授業をボイコットしたり、教師に横柄な態度をとったこと
 に対し、長老は なんらの指導もしなかったし、高校とのコンタクトも拒否した。
・書籍研究の夜、便所に火をつけ小火をおこした小学生を内密に放置、警察・消防署へ連絡もしなかった。
・公務員でもある50才を過ぎたエホバの証人の男性が、若い「必要の大きい地区」に来られた女性へのスト
 ーカー行為に対し、「ノイローゼ気味」ということを理由に何の処分もせず、若い女性を元の地に帰した。
・未成年(女子)で不純異性交遊の果て出産、「排斥」になった長老の長女が、集会に来られやすいようにと
 会場を変更した。
・我慢できなかったこともあろうが、長老が遊園地のブランコのところで立小便をした。
 
瑣末なことと一笑に付すことも含めましたが、共通するのは「社会性」「人間性」という
財産を無くした、いわば「難民」と同じ状況下にある人たちと同じに見えてくることです。
エホバの証人とて「不完全な人間」。上記の出来事も人間であるかぎり、躓きやすい陥穽
でも
あります。ただ、くやしいのは、いやしくも「宗教」の熱心な信者であることです。やは
り、組織にこそ問題がありそうですね。
 
2/16 SUNDAY

《編集者より》
組織(国家)が個人より優先され、人間性を無視して「原則」を押し通す、その点で北朝鮮とものみの塔聖書冊子協会とは、全く同じことを全く別の理由でやっていると思います。その結果から来る矛盾が数多くの人間性の悲劇を引き起こしていることも、全く同じです。確かに人は皆不完全です。しかし、そのことがその人の行なっていることを正当化することにはなりません。ヒットラーも金正日も「不完全な人間」ですが、それだけでしょうか。ものみの塔協会も二言めには「われわれも不完全な人間です」と弁明しながら自分たちの奇抜な教義と習慣を続けています。それは、「不完全な人間」という盾に隠れてその不完全さを踏襲しているだけで、不完全な人間の心からの反省と謙遜は全くありません。あなたのおっしゃる通り、この病んだ組織に問題があり、その膿を絞り出す必要は今後もなくなりません。


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