「そこに愛が見つかりますか」−フリーダムより

(1-22-03)

あなた方の間に愛があるなら、そのときあなた方は私の本当の弟子となるでしょう。
そのようにイエスは言われました。考えてみると私は現役のエホバの証人のとき、こ
の聖句にあるように本当の愛を身につけるため、イエスの弟子となるよう訓練されて
きたのでしょうか。組織は本当にキリストの愛を実践するよう信者を導いてきたので
しょうか。私が経験してきたいくつかの例を見るとそれは聖書の中に出てくる、パリ
サイ人になるよう導いているような気がしてたまりません。このホームページにも多
くの人たちが自分が経験してきたつらい体験を投稿しています。ある人は証人たちか
らひどいいじわるを受け、ある人は会衆の長老からねたみをかい心を突き刺すような
助言を受け傷つけられています。しかし、そうしたトラブルは一般社会の会社やグ
ループの中でもしばしば見られるものです。問題なのはエホバの証人の組織の中の取
り決め、仕組みの中に愛を見つけることが出来るだろうかということです。

エホバの証人が正式な組織の一員になるためにはいくつかのステップを踏んでいく必
要があります。それはまず定期的な司会者との聖書研究、神権宣教学校への参加、そ
して伝道者となるための資格、バプテスマを受けるための資格、そうしたものがあり
ます。しかしこれらのステップを踏んでいく人に求められる条件は並大抵のものでは
ありません。そもそも条件を満たさなければならないと真のクリスチャンになれない
というところそのものに疑問がわいてくるのですが。聖書に出てくる「放とう息子の
例え」からわかるように、神は無条件にすべての人を受け入れるだけの愛を持ち、ま
たそうした愛を身につけるよう弟子たちに教えています。私はエホバの証人だった頃
よく姉妹たちの研究に参加をさせていただく機会を多く持ちました。
その中の一人に高齢になってから聖書研究生になったおばあさんがいます。年はもう
七十近くなっていたでしょうか、気立てのよいどちらかといえばかわいらしい性格の
明るいおばあさんでした。しかしそのおばあさんは小さい頃の環境が貧しく、学校に
行くことが出来なかったらしく全くといってよいほど文字が読めませんでした。見よ
のブロシュアーはまだふりがなが振ってあったのでひらがなが読めるならまだよかっ
たのです。一回の聖書研究時間に討議できる節は、やっと一節か二節、文章の読解力
もやっとでした。そのおばあさんが始めて王国会館の集会に来たときそのおばあさん
は会衆のみんなから大歓迎されました。「よくいらっしゃいました」という大勢の励
ましを受けてクリスチャンの愛を感じとったのでしょう。当然私もそのときそのおば
あさんに「来てくれて本当にうれしい」という言葉をかけたのです。それからしばら
くして私はそのおばあさんの研究に参加をしたとき、ある提案をしました。それは今
度の集会でものみの塔の注解をしてみようというものです。小さい子供が前もって親
に注解する節と言葉を教わるようにそのおばあさんと前もって答える節と言葉をその
節の横の空欄にひらがなで書き込みました。集会当日私は前もってものみの塔の司会
者にそのおばあさんが始めて手を上げるので指してほしいということと、あらかじめ
準備した節の箇所を伝えました。はじめて注解するおばあさんの挙げた手は震えてい
たのを今でもハッキリと覚えています。そして集会が終わった後大勢の人がおばあさ
んに注解の感謝の言葉を浴びせました。そのおばあさんのうれしそうな顔と、自分の
中でも何かその様子を見て満足感のようなものがこみ上げてきました。それから約二
年ぐらいたってそのおばあさんの研究司会者と一緒に奉仕をしていたとき、その司会
者は私にそのおばあさんが伝道者になりたいと申し出ているということと、伝道者と
しての資格があるかどうかという質問をしてきました。私はそのおばあさんが今何の
本から学んでいるか聞いてみました。研究を初めて二年近くになってそのおばあさん
が学んでいるのは「地上の楽園」の本の六章目でした。まだまだそのおばあさんが伝
道者になるには程遠い年月が必要でした。まして、「崇拝」の本など、そのおばあさ
んの読解力からして到底むずかしすぎて、バプテスマは見えないほど遠い先です。当
時はその二冊の本の研究を満たすことがバプテスマの基本的な条件でした。いいえそ
れが組織の取り決めなのです。集会に定期的に通ってもいつも話されるのは、奉仕、
奉仕、奉仕のことばかり、いつしか集会でのおばあさんの顔からは笑顔が見られなく
なり、周りの人も以前と違い声をかけてくる人の数も少なくなっていきました。そし
て、それから数ヵ月後そのおばあさんとの研究は打ち切られました。打ち切られたと
いうのは聞いていましたが、私はあまりそのおばあさんのことを気にせず、家にも立
ち寄ることをしませんでした。しかしそれからしばらくたった冬の日、たまたまそこ
のおばあさんの家の近くを再訪問したときのこと、そのおばあさんと偶然お会いしま
した。おばあさんはぜひ家に寄ってくださいと、私を招き入れてくれました。温かい
煮込みうどんを出してくれたとき、おばあさんは私に言いました。「寒い中ご苦労様
です。私は頭がバカで伝道なんか出来んので、せめて暖かいものでも出させてもらえ
れば・・・」そのとき、おばあさんがどれだけ伝道者になりたかったかという思いと
なれなかったことへの無念さのようなものを強く感じました。温かいうどんを出して
くれたおばあさんの愛情と、その反面自分がおばあさんのことをすでに忘れ、気遣っ
てやれなかった愛の無さを認めざるを得ませんでした。深い愛情を抱いておられる神
エホバはこのおばあさんが伝道する資格が本当に無いと考えておられるのでしょう
か。

エホバの証人を辞めてふと気付くのですが、果たしてそこで自分は本当の神の愛を学
び、本当のクリスチャンになるための知識を学んできたのだろうかと感じます。エホ
バの証人を辞めてから、ちょっと遠いところから第三者的にエホバの証人の中を冷静
に見ると、聖書の中の「パリサイ人」的なにおいがぷんぷんしてきます。あの人は霊
性が高い、あの人は不道徳的だ、あの人はちょっと物質主義的な傾向があるのではな
いか、あの人の服装はこの世的だ、あの人はなぜ開拓奉仕をはじめないのだろう、な
どなど自分が他人を裁く、裁き人となっている傾向が強くなってゆくのです。そして
パリサイ人の胸にある大きな房べりを見せびらかすように、逆に自分を周囲からいか
に霊性が高く、謙遜で、聖書の知識に富み、活動的であるかを示すために一生懸命に
なって立派な注解をし、開拓者となって形だけの神への奉仕に携わってゆくのです。
結論から言って、私たちはそこでクリスチャンとしての特質や知識を学んでいるので
なく、パリサイ人となるための特質と知識を学んでしまっているのではないでしょう
か。本当にそこで学ぶべきものとは、自分が各個人を裁く人間になることではなく、
それぞれさまざまな状況に置かれている立場の人たちに目を留め、積極的に受け入
れ、愛することだったように思います。ちょうどイエスがらい病人を受け入れ、娼婦
の心を見てそれを受け入れたように。しかし組織が受け入れたがっているのは組織の
拡大に役立つ人たち、健康で、伝道に励み、成員たちの士気を鼓舞するような能力の
ある人たちです。そして、その人たちがやがて年をとり、病気などまた高齢になって
活動的でなくなると、それはちょうど使い捨てカイロのように捨てられるのです。そ
のときになって始めてそこに本当の愛があったのかを知るのでしょう。

pfreedom@nifty.com

《編集者より》
あなたのおっしゃる通り、会衆の役割は全てその人間が組織にとってどれだけ使い道があるかによって決まります。従って、一定の基準に達しない限り、その人がどれだけ個人的に信仰があって献身する意欲があっても、認められません。ものみの塔はエホバの前の門番のようなもので、ものみの塔の門番に気に入られない限り、エホバに近づくことは許されません。もっともあなたもこのおばあさんも、このような経験から、エホバに仕えるのは、ものみの塔を通さなくてもできることに気がつき、でしゃばりの門番を避けて、もしかしたらよりエホバに近づくことが出来たかもしれません。