「まばゆい光り」

(12-28-02)

聖書のある問題に関して「まばゆい光り」がきらめいたため、神の油そそがれた
僕たち、つまり「忠実で思慮深い奴隷」が、関連したテーマを再検討するように
なる場合があります。「ものみの塔誌より」

この「まばゆい光り」とはなにかを長老と言われる人に聞いたところしばらく考えて
いましたが答えることができませんでした、なぜでしょう、それは組織が会衆に伝え
る聖霊に関しての表現のしかたに問題があるのではないでしょうか、多くの会衆の証
人は組織の提示する言葉を聖霊の導きによるものであると解釈しているようです、又
組織も、ともすればどちらともとれるような表現をして聖霊の働きについて曖昧な表
現をしているように思えます、ですから聖霊か人による聖書的な解釈かということに
関してどちらに重きをおくかというてんで区別がつかずこのような質問にも答えるこ
とができないのではないでしょうか、第三者である私なら答えはすぐに考え付きます
「それは人が聖書的な考えにもとずいて導きだした事柄に聖霊が注がれている、又は
注がれていると思い込んでいる」このことから「まばゆい光り」とは聖書にもとずい
て導きだした人間の考えであると言うことです、聖霊を個人が認識するのは自由です
が組織や個人が聖霊が注がれたものとして言葉を第三者に提示することは間違いでは
ないでしょうか、なぜなら組織や個人は神に是認されたのではなく是認されていると
思っている又は思い込んでいるにすぎないからです、もし是認されているのであれば、
はやとちりをして人を混乱させ「統治体も不完全です」などと言う様な事は起こらな
いはずです、ベテルやその関連で活動している人であれば聖霊とは個人の考えである
と当然の事として受け止めているのでしょうが、一般会衆の証人の方はものみの塔聖
書冊子協会と聖霊の働きというてんをもう少し客観的に理解する必要があるのではな
いでしょうか。

「目的の為に組織はできますが、いったんできた組織は目的よりも優先される」これ
は今日存在する組織すべてに共通することだと思います、ある巡回監督がこんなこと
を言っていました「現役を引退したら好きな本でも読んでのんびりと過ごせる日を楽
しみにしています」ベテル関係の人達は終りが近い事を会衆に対して強調しています
が、当人達は表面的には終りが近いと言いながら将来の生活設計はしっかりと立てい
るようです
これはベテルを出て一般会衆に所属している人にも言えるようです、彼らは組織の実
体を理解しています、ですからベテル出身と言うプライドとが相まって現実社会での
生活向上に励みますその結果、会衆の人を対象として、ともすれば怪し気な商売にま
で手を出して金儲けをします、あるベテル出身の人が集会の話のなかで「ベンツに乗っ
ている仲間に偏見をもってはいけません」と話をしていましたが、あれは自分自身の
妬みからでた言葉ではなかったでしょうか、(会衆のみなさん、あなたの廻りにもこ
んな人がいませんか)「ものみの塔」の言う終わりが近いとは、近い時点でかならず
くる事柄ではなく「終わりが近いことを願っている叉は切に望んでいるだけなのです」
この事を一般会衆の人達は良く理解すべきではないでしょうか、このように外部の人
間として「ものみの塔」の状況を見ていますとベテル組織と一般会衆の間にはその考
え方におおきな隔りがあり、「ものみの塔」はやはりたくみに聖句を操って会衆の人
達を利用していると言われてもしかたがないのかなと思えます。

《編集者より》
ものみの塔の聖霊や「光」の教えで問題なのは、組織に与えられる聖霊や「光」と、信者個人に与えられる聖霊や「光」とが相反している場合、どっちに従ったらよいのか、という問題です。もちろん、ものみの塔は組織第一ですから、個人が体験する聖霊の働きや新しい光などは、全て勝手な思い過ごしとして無視され、組織に絶対服従を教えます。これに対し、個人的な神とイエスとの関係を重視するキリスト教では、個人に下る聖霊の教えを尊重し、それはその個人の特殊な状況に最も適した教えとなります。たとえば、ある人が怪我をして血液のある成分がどうしても必要になった時、ある人は神に祈ってその時の怪我の状況、血液成分の内容などを考慮して聖霊によりどうしたらよいかを決めるでしょうが、組織に忠実なエホバの証人は、個人として祈るのではなく、まず組織がどういう方針を打ち出しているかを調べてから決めます。従って、エホバの証人の場合、個人の特殊な状況は無視され、スタンプで押したように世界中で全ての証人がその特殊な環境を無視して同じ行動をとります。一体どっちが人間的で愛のある取り計らいであるのか、考えてみて下さい。