(10-4-02)
◆ KSと申します。エホバの証人と接して四半世紀、聖書を信頼しつつエホバに感 謝しながら歩んできた40代後半の女性です。 つい先週のこと、神権宣教学校で「聖書から論じる」の本60ページを用いて、「あな たはイエスを信じてはいないのですね」と言われた場合にどう答えたらよいかという 内容で5分間の話を作るという割り当てをいただきました。 教会クリスチャンがこのような意見を述べる場合、どういう意味でおっしゃるのか想 像がつかず、これはインターネットで調べるしかないのではないかと思い検索いたし ました。その際、ヒットしたのが村本さまのページでした。 エホバの証人は背教者のページを見てはいけないと言われていますし、中でもエホバ の証人を批判するページは見るべきでないと思っていましたが、一瞬目に飛び込んだ 「本間年雄氏の排斥」「JW最高指導者レイモンド・フランズ」という文字に「えっ?」 と思い、斜め読みをしたのでした。 こんな事実がエホバの証人の一般信者から隠されていたということに非常に驚き、こ の1週間、混乱し戸惑っています。まだこちらのサイトにある情報にすべて目を通し ていないので、今まで信じてきたことをどう考えたらよいのか分からないのですが、 たぶん読めば全部納得がいくに違いないと予想しています。 ◆ 最近の組織の指示には納得のいかないことがとても多くなっていました。 *「個人研究の時間を取るため、週のうち1日はテレビや新聞のニュースを見ないよ うに」-ものみの塔研究。(個人的に決定すべきことに指示を出すのはなぜだろう?) *「聖書の字句にこだわって研究する必要はない」-ものみの塔研究。(神のお考え をはっきり理解したいと思うことがなぜいけないのだろう? ものみの塔協会の出版 物の中では原語の意味を解説しているのに…) *「新世界訳聖書が最もすぐれた聖書なので他の翻訳を読む必要はない」-奉仕会の プログラム。(ものみの塔協会は今までいろいろな聖書翻訳の版権を買い取り、いま でも他の聖書翻訳を取り扱っているし、実際出版物にも他の聖書から引用しているの になぜでしょう?) (わたしは協会の発行している英語の聖書のすべて、その他手に入る限りのあらゆる 聖書翻訳を持っていて、いずれヘブライ語やギリシャ語も少しずつ勉強したいと考え ていました。英語版の新世界訳を批判するほどの英語力はありませんが、日本語版に は明らかに誤訳や間違いがあり、何が書いてあるのか理解できないところが多々あり ます。他の翻訳には神のお名前が出ていない点以外、聖書そのものに問題はなく、か えって分かりやすい翻訳があることは知っていました) *「排斥されていた人の復帰を発表する際、拍手しないように」 (聖書では100匹 の羊のうち、迷い出ていた1匹が見つかったときには、他の99匹以上の喜びがあると 言っているのでは…? 放蕩息子が戻ってきたとき、父親は非常に喜んだのではなか ったでしょうか?) (わたしの属する会衆では排斥と復帰の発表が相次いであり、ある神権家族の一員が 排斥されたときには『以下の者は排斥されました。氏名**』と名前が呼び捨てでし た。また復帰の発表でも『以下の人は復帰しました。氏名**』と『者』が『人』に 変わりましたがやはり呼び捨てでした。何年も前の発表の際はさん付けでしたので、 呼び捨てにするのが今の協会の指針なのか長老の判断なのかは分かりませんが、呼び 捨てにされた家族や本人がどれほど傷つくかと思うと胸が痛みました) *「排斥された者とは、たとえ親子であっても同居していないのならつきあってはい けない」(排斥後、すぐに後悔して集会に来始めている人をどうして邪悪な者として、 冷たくあしらわなければならないのでしょう?) ◆ 取り上げたら際限なくありますが、組織を批判することはタブーでしたから、言 いたいことがあっても飲み込んできました。「自分はすべてのことを知っている訳で はないし、組織の決定なのだからきっと自分に理解できない方法でよい結果がもたら されるに違いない」と言い聞かせてきました。 さらに「どんな時も正直に誠実に生きるようわたしに教えてくれた組織なのだから、 うそを言うはずがない」という信頼もありました。ですから、エルサレムの滅びが一 般の年表と違っていることも知っていましたが、一介の主婦であるわたしが、どちら が正しいかなど確かめるすべもありませんから、きっとものみの塔協会が正しいに違 いないと思ってきました。 ですから、ものみの塔協会が正直でも誠実でもなかったということに非常に驚きまし た。聖書の解釈が間違っていたとしても別に驚きませんし、それをとがめる気もない のですが、自らの間違いを認めることができないためにそれを指摘する人々を次々排 除するというのは、明らかに罪だと思いました。 どうしてこうなってしまったのでしょう? 組織の最初から独善的だったために自分 の落ち度が認められなくなってしまったんでしょうか。ちょうど今の日本人が戦争中、 アジアの国々で行ったことに対して謝罪するよう求められるのに似ているのでしょう か。今生きている大半の日本人は戦争を知らない世代で、自分が犯した罪でもないの にどうして謝らなければならないのか、という思いを抱くのと似ているのでしょうか。 ものみの塔協会も、すでに亡くなった人の言動について責任を求められても、わたし は知らない、ということなのでしょうか。確かに個人の責任ではないでしょうが、組 織として間違いがあったら、認めるべきではないでしょうか。 ◆ それでも、わたし個人としてはものみの塔協会に対して恨みや怒りの気持ちはあ りません。今までの教えを通して多くの益を得てきたと感じているからです。 <中略> ◆ エホバの証人になる前からわたしは「すべての人を心から愛せる人になりたい」 と思ってきました。 今から20年近く前に、ある巡回監督の奥さんが言った言葉を覚えています。「わたし は王国会館に来ている人を見ると、みんなに愛情を感じるの。だって、みんなエホバ を愛して、世から離れて集まっている人たちだから……」 わたしも早くそんな風に感じられるようになりたい、と思ってきました。 証人になる前のわたしは、無口で人とのつきあい方も知らず、自分の気持ちを他の人 に伝えるのは、ことのほか苦手でした。人と親しくつきあったことがなかったので、 他の人がねたみやそねみ、怒りや対抗心といったマイナスの感情を抱くことがあるこ とにも気づかないおめでたい人でした。 そんなわけでエホバの証人になってから、人とのつきあい方を学ぶことになりました。 だれかの言葉にひどく傷ついて何日も泣いたりすることも、この二十数年間には何度 かありましたが、いつも自分ではなく相手の立場にたって物事を見るように努めてき ました。よく考えてみると自分にも落ち度があったことに気づいたりしました。 失敗を繰り返しながら、他の人と仲良くやっていく方法を身につけることができるよ うになったのは、聖書や組織の教えのおかげと感謝しているのです。 ◆ 今のわたしは、ずっと前に聞いた巡回監督の奥さんの言葉に近い思いを持ってい ます。権威を振りかざして圧力をかけようとする長老も、奉仕のしもべだったときは 謙虚だったのに威張るようになった長老も、少しねたむ傾向のある姉妹も、みんなみ んな許せるのです。 確かに今でも時々心を乱されることはありますが、イエスの教えに従って、その人を 避けるのではなく、可能な場合には自分がその人の言動によって傷つけられたことを 時期をみてやんわり伝えると、謝ってもらえるという経験をしてきました。 自分の欠点を決して人に見せず、他の人の小さな欠点をとがめる傾向のある人も、誠 実に愛をもって語りかけると、どうでしょう! わたしがその人の気付いていない欠 点を指摘しているのに「実はわたしはこういう欠点もあって……」と話し始めるので す。 人間て、ほんとに愛すべきものだと思います。みんな自分に自信がない弱い存在なん ですね。わたしだけではないのです。 そして、エホバの証人の中には謙遜さと愛情深い性質を持つ、心から尊敬できる人た ちもたくさんいます。 ◆ わたしは仲間の兄弟や姉妹をとっても愛しています。失いたくないのです。 このサイトを見た直後、集会に出席してつくづく思いました。 あの兄弟も、あの姉妹も、みんな大好きだと、涙がこぼれる思いで感じました。 ですから、 「わたしは夢でも見ているのだろうか?知らなかったことにして、組織にとどまろう か」 「信じてもいないのに信じている振りをする、偽善的な生き方がわたしにできるだろ うか」 「自分だけ事実を知りながら、他の人が欺かれているのを放っておいていいのだろう か?体が丈夫ではないのに身を粉にして奉仕している人がいるというのに……」 などなど、いろいろな思いが浮かんできます。 こう書いてきても、これまで接した情報がパソコン画面の中だけで見たものなので、 いまだに現実のことではないような気もします。受け入れるには時間がかかりそうで す。 お忙しい村本さま:長文のメールで申し訳ありませんでした。 <後略>
《編集者より》
協会が過去の過ちを謝罪しない理由を、日本人が戦争中にアジアで行なった蛮行を謝罪しない理由と比較されていますが、確かに共通点と相違点があると思います。共通点は、あなたが指摘するように、これは過去の過ちで、今の自分たちが責任を問われることではない、という見方です。しかし、もっと大事な相違点は、ものみの塔協会は、過去の過ちは過ちだとは思っていないことです。それに対し、日本人は過去の日本人が行なったことは間違っていると大部分の人々は認識しています。そして、今の日本人はそれらの昔の日本人の考え方を継承していないので、謝るというのは理屈が通らないという見方があるのではないでしょうか。たとえて言えば、あなたの父親がわがままで乱暴者であり、娘のあなたがいくらなだめても言うことを聞かずに、勝手にどっかで犯罪行為をしてきたとしましょう。娘さんのあなたはその父親の蛮行に責任があるかというと、これはないと思います。娘のあなたも被害者の一人であり、加害者の側にはいないからです。それに対し、ものみの塔の場合は、娘のあなたはその父親を全面的に助け、その言われる通りに行動し、いつも父親のやってきたことは正しいと言い続けてきたのに似ているでしょう。そうであれば、私は娘のあなたに責任があり、その責任は共犯として問われるべきでしょう。私は、今のものみの塔協会が、昔行なってきたことを公然と批判し、それを帳消しにするような行動と方針をとらない限り、ものみの塔協会の「有罪」は消えないと思います。
「人間て、ほんとに愛すべきものだと思います。みんな自分に自信がない弱い存在なんですね。」というあなたのお言葉は、その通りだと思います。私もそのような優しい思いやりのある心を養うことは非常に重要なことだと思います。しかし、私のあなたに対する問いは、あなたの「人間」がどうして文字通りの全ての人間でなく、会衆内のエホバの証人だけなのでしょうか。それは巡回監督の奥さんが言ったように「みんなエホバを愛して、世から離れて集まっている人たちだから」ですか?でもほんとに愛すべきなのは、エホバも知らずに、それでも頑張って生きているもっと弱い人々ではないでしょうか。もちろん自信過剰の強い人も世の中には沢山いますが、それはエホバの証人の内部にもいるでしょう。要するに、私はあなたの心の態度にとても共感できますが、どうしてそれを、イエスやパウロが異邦人を全て含めたように、全ての人類に広げられないのでしょうか。どうして、会衆に集まるエホバの証人と、伝道で話を聞いてくれる一部の世の人に限るのでしょうか。別にあなたを責めているわけではありません。ただちょっと考えて頂きたかっただけです。
あなたはごく最近このような見方に触れたばかりで、心の整理は簡単につかないことは充分知っております。時間を充分かけて考えてみて下さい。決してあせらずに。