(9-23-02)
先日、知り合いの証人に会った。離婚の話を聞いた。この世の裁判所では離婚成立。 しかし、この二人の離婚は姦淫が関係してないので、組織が再婚を認めてくれないと 嘆いていた。聖句的根拠に欠けるそうである。離婚した相手の姉妹は重い精神病でた だ相手の非を責めるだけ、すでに十年以上も経ち、実に気の毒である。その兄弟は再 婚を望んでいるがものみの塔の組織は無情である。その二人は会う事も無くこの世で は他人でも、組織の中はまだ夫婦だそうである。このような形で苦しんでいる証人は 多い。 次の例である。 あるべテルメンバーの兄弟の妻がべテルで姦淫をした。その姦淫をした妻は排斥に なったが、その兄弟も責任を問われ、そのあるポジションからおろされた。それが原 因で二人はべテルから出て、別居が始まる。兄弟はどこの会衆へ行っても推薦されず その妻である姉妹をうらんだ。数年後その排斥された妻がどこかの会衆で復帰を許さ れ証人に戻った。そしてある兄弟と再婚しようと思ったが、問題が起きた。その姉妹 の前の夫とはこの世の裁判所では離婚はしていたが、又しても、組織の決まりが立ち はだかる。つまり、いくら相手が姦淫をしても夫か妻が同意しない限り証人の間では 離婚は成立しない、つまり再婚もできない。実は、ポジションをおろされたべテルに いた兄弟はその姦淫をした妻を憎んでいた。そして、離婚を15年以上も拒み、その 間、その復帰した元妻は証人の間では再婚はできない。そしていまでも其の姉妹を憎 んで、離婚を拒否している兄弟の恨みは進行中である。完璧なる復讐劇である。 実に上記の話は作り話ではなく著者自信が個人的に知っている話である。ではなぜ離 婚をさせないのか、その理由は一つ、又しても架空の真実を作らんがためである、そ れは証人の間では離婚はなく、完璧な組織であると印象をつけるためである。そして 苦しんでいる人を無視する体質である。 愛の組織では無く、憎しみの組織である。
《編集者より》
これは9月7日の「物事」氏の投書に対する意見にも書いたことですが、ものみの塔協会の戒律と司法制度の最大の問題は、ただ聖書に書いてあることが正しい、一世紀当時の風習がいいことという杓子定規の形式主義に基づいて、古代の戒律と司法制度をそのまま現代に当てはめていることです。聖書の言葉を杓子定規に現代に当てはめるのは、ものみの塔に限らず、原理主義キリスト教の幾つかの宗派が行なっていますが、それらは皆、時代と環境の違いを無視することから来る問題を引き起こし、しかもそのような問題があっても、それがまた聖書に基づいて正当化されると信じて、改めることができません。キリスト教に限らずユダヤ教やイスラム教も含めて、原理主義を唱える宗派の危険性を、世界的に明らかにして、警鐘を鳴らしていく必要があると思っています。