「カルトの性向をむき出して脅すものみの塔」−王国宣教8月号について

(8-24-02)


「カルトの性向をむき出して脅すものみの塔」という題で投稿させて頂きます。
皆さんは、先日の王国宣教2002/8月号3n「親族が排斥されているときクリスチャンとしての忠節を
示す−1」の討議に参加されましたでしょうか、どんな励ましを得られたでしょうか、私の印象はこの資料
は全く持って聖書的でない文面と扱い方であると感じましたわざわざものみの塔研究並に質問を加えて信者
の脳裏に焼き付かせておくことを意図したものだと思つています。 
 
1節から そもそも排斥者と断絶者を同一にするところから間違っています。
排斥者にもそれなりの色々な理由があります。故意に聖書の原則を犯す人、事情によ
りやむなく罪を犯してしまった人、エホバに申し訳ないと思いながらも自分の弱さの故に 
犯してしまう人そしてそういう人に限って悔い改めたくても周囲への迷惑と恥ずかしさの 
為に帰ってこれない人なのです。さらにエホバの組織を出たいためにわざと罪を犯す人 
も中にはいることでしょう(これは特に神権家族で私の知人に2.3人にいる)。 
等々・・様々なのです。 
また断絶者も事情は様々です。エホバの証人がいやになった人、聖書が信じれなくな
った人、聖書を信じていても家庭の事情でエホバの証人を続けていけなくなり断絶の
手紙を書いた人、聖書が正しいと思いつつも付いていけないために仕方なく止める人 
等々・・これも様々です。 
こうした事情すべてを一緒にして離れた者はすべて毒の入ったゴミくずのように見るの 
は全く持ってエホバの見方から180度はずれています。
人の事情は一人一人異なっているのです。それを考慮してあげるのがエホバの見方 
なのです。こういうと「そのことは審理委員会の時十分示しています」とある長老男は 
抜かすかもしれませんが考慮に値する人であれば排斥後もず〜〜っと優しく扱うのが 
エホバのやり方なのです。(放蕩息子のたとえ、強盗にあったサマリア人の例えなど) 
 
2節から 排斥された人にどのように接しますか、
ここで神の言葉はとしてコリ1 5:11〜13が引き合いに出されていますがこの5章
全体はまだ会衆内にいて存分に交わっている悪行者のことをパウロは述べているの
です。13節にあるようにのぞき去った人を会衆はまたどのようにのぞき去ると言うの 
でしょう 不思議なことです。
誰が見ても到底この聖句は排斥者には当てはまりません。
5章でパウロが言わんとするところは会衆内に悪行を行うような人がいるなら十分注 
意し影響を受けないように配慮する事が必要ですと言う文面なのです。それでこれら
の聖句はまだ審理問題になっていない時の成りそうな状態の注意人物の事柄なの
です。それなのにこの聖句を追放してしまった離れた人や排斥者に当てはめるのは
筋違い聖句の誤用、手前勝手な適用でエホバの意図するところではありません。
 
3節から 「これは、忠節なクリスチャンは・・・・・霊的な交友・・・しかし、それ以上の
ことも関係しています」とあり「そのような人とは共に食事をすることさえしないように」 
コリ1 5:11が挙げられていますがこれはクリスチャン会衆の仲間としてその悪行者 
との交わりから悪い影響を受けないように促しているものなのです。
正常な信者であれば背教者には当然注意するはずなのでパウロがわざわざここで背 
教者について語る必要はありません。 適用誤用
 
4節から 排斥された人と話す。
これもヨハネ2 10が引用されていますがこれは反キリストのことです。
離れていった人全員には当てはまりません 
キリスト教を奉じる者にとってはそれはキリストのことを悪く言う者とは話したくもないし
知らん振りをしたいと考えるのも当然で聖書の述べる通りです。
しかし離れていった人、排斥者の中にどれくらいの人が反キリストでしょうか、 
聖書を学んだことのある人なら聖書の考えに同意出来ますしキリストの言葉や行いに 
賛同できるものです。おそらくはほとんどいないのではないかと思います。 
人と人この社会はどんな人とも共存してゆかなくてはなりません。その最初の発端は 
やはり知らない人とでも「おはようございます、こんにちは、お元気ですか、」など言葉 
を掛け合って成り立っているのです。それを反キリストでもない人に挨拶もしないと言う 
のは精神異常者でしかありません、しかもその人は以前は懇親者、同労者、懇意者 
だった人なのです。現代の社会は知り合いにも挨拶をかけない人が多くなってそこから 
人間関係が疎遠になり犯罪の発端とも成りかねません。そんな社会はいやですからね。 
 
全体を流していくと長くなりますので今日はここまでにしたいと思います。次ぎにまた。
まっ 結論としてものみの当協会はこの離れていった人に対する接し方で巧みに信者 
を操り恐怖心を植え付け人を拘束していると言うことです。ちょっと出たくてもでれない
ほかのカルト教団や共産主義国と同じように「おまえら!ここから逃げ出してでも見ろ!どういう目に合う
か解っているだろうな!」と言っているのです。怖いですね。
この脅しは次回9節からの第2でさらに強烈になっています。一番大事な親族です 
私はこのプログラムを扱う兄弟に協会の聖句不適切扱いについて少し話し合いたいと
考えています。  皆さんはどう感じておられますか、だらだらとすみません
               では失礼します。      P98より 

《編集者より》
この8月号の王国宣教の記事は今まで1980年代から踏襲されてきた排斥者、断絶者に対するこれまでの方針を再確認するもので、新しい内容はないように思います。排斥と断絶とを理由に関係なく十把一からげにするのも、排斥された者を、親族でない他人、同居する親族、同居していない親族の三つの場合に分けて、細かく何をすることが許されて、何が許されないかを細かく決めているのも、以前と同じです。私はこの記事がここで出てきたのは、排斥者、断絶者が数を増すにつれて、それらの人々への扱い方が大分ルーズになってきていることに警告を発するためであろうと思います。比較的新しい証人たちは、1980年代のレイモンド・フランズの排斥事件の頃に確立された、排斥者への忌避の規則を知らない人々がおり、ここで再教育を狙ったのではないでしょうか。


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