「ずらずら意見」−現役証人よりの、ものみの塔協会を擁護する意見

(6-13-02)

 はじめまして.
 現役のエホバの証人の者です.

 失礼ながら,いきなり意見をいわせてもらいます.

 エホバの証人のうちに,こまごまとした多くの問題はありますが,ものみの塔協会が
主張する,

    聖書は人間が書くことのできる内容を超えている.
    ↓
    神が存在する.聖書は神の言葉であり,全ての言葉は信頼できる.
    ↓
    聖書からすると,神はひとつの組織を用いてご自分の民を導かれる

 という,基本的な考えに間違いはないように思いますし,つけいるすきはないように
私は思います.

 そしてほとんどの問題は,組織の教えにまちがいがあるのではなく,個々の人のあて
はめ方に誤りがあるように思います.
 もちろん,教える立場の人がまちがった教え方をする場合も,組織の教えにまちがい
があるというよりは,あてはめかたの誤りに含まれると思い
ます.

 残る問題に関しても,問題外部の人はそれにかかわる詳細な点をしらないゆえに問題
にみえるだけであり,もしも関連する点をすべて吟味できた
なら,妥当な判断だと納得できるのではないかと思います.

 明らかに,協会の教えがまちがいだったという事例もあるかもしれませんが,それは
神がそのようにそのときは目的があって導かれたのであり,
それに振り回された人には,神はそれなりのサポートをしてくださるはずです.
 心のよい人には,組織から離れないように導かれたかもしれないし,死を甘受した人
には復活させてくださるかもしれません.
 いずれにしても,神は長期的な観点で,公正に祝福を与えてくださるはずです.

 枝葉に小さな問題はありますが,全体的にみて,エホバの証人のこれまでの歴史,教
え,信者の間にみられる雰囲気,に神の霊の導きがあるよう
に思います.


 また,「エホバの証人以外の人はすべてハルマゲドンのときに滅びる」という考えは
,統治体の見解ではないのではないでしょうか?

 そのようにとらえているエホバの証人も多いですが,私ははっきりとそのような見解
を出版物からみたことはないように思います.
 むしろ,エホバ神は愛と憐れみと公正の神であり,これから将来その特質をエホバ神
がすばらしい仕方で発揮されるのをみて,わたしたちは驚く
ことになるでしょう,という感じではないでしょうか?

 つまり,(この辺は私の解釈です)結局のところ,述べつたえ教える活動はどうして
も限界があり,お年よりや赤ちゃん,文明から離れて生活し
ている人等,どうしてもエホバの証人の教えに答え応じるには現在の状況では難しい人
がいます.
 そういう人を無差別に殺すのは神の公正という観点からして調和しないということで
す.
 それで,最終的には,心の状態をひとりひとり愛と公正でイエスが吟味されて,滅ぼ
すかどうかをきめるのではないでしょうか?
 述べつたえ教える業は,神と共に働くという特権として与えられているのであり,神
は一定の成果を期待しておられ,そしてそれによって自分自
身も訓練されるという益もありますが,この人間の業をもってすべて裁きの根拠とする
ほど神は人間をあてにはしておられない,ということです.
 ただ,過去のノアの日やロトの日には,赤ちゃんも老人も滅ぼされたようなので,は
っきりどうとはいえないのかもしれません.


 ずらずらと見苦しくも,このサイトを見ていて思ったことを書きました.
 エホバの証人のうちには神の霊の導きが確かにあるとわたしは思います.
 エホバの証人が間違っている可能性を考えるとともに,正しいかもしれない可能性に
ついても考えてください.

《編集者より》
あなたのご意見は、ものみの塔擁護派のエホバの証人の意見を端的にまとめて書いてあります。その点でエホバの証人の信仰の基盤を考えるよい材料となります。まず、あなたの意見の次の部分を考えてみましょう。


    聖書は人間が書くことのできる内容を超えている.
    ↓
    神が存在する.聖書は神の言葉であり,全ての言葉は信頼できる.
    ↓
    聖書からすると,神はひとつの組織を用いてご自分の民を導かれる

 という,基本的な考えに間違いはないように思いますし,つけいるすきはないように
私は思います.
私はあなたのこの「基本的な考え」に最も問題があると思いますし、「つけいるすき」だらけだと思います。「聖書は人間が書くことのできる内容を超えている」かどうか、議論は分かれるでしょう。聖書はそもそも人間が書いたものですし、そのために人間の間違いもそのまま記録されています。従って「全ての言葉は信頼できる」かどうかも議論が分かれます。「信頼」するとはどういうことでしょう。それが書かれた当時の書かれた場所では確かに信頼出来るものであったかも知れませんが、現代の時代にはそれは参考にはなっても文字通り当てはまらないことはいくらでもあります。その意味で、あなたの「信頼できる」という議論も問題があります。

しかしここまでは、人によって聖書の見方も異なり、あなたの意見に賛成する人も賛成しない人もいるでしょう。しかし、第三の「神はひとつの組織を用いてご自分の民を導かれる」という議論になると、これはエホバの証人の思考回路に自分の頭を接続しない限り、誰も同意できません。この結論は、聖書をものみの塔の解釈に合わせて読んで初めて到達する結論で、それ以外の聖書の解釈をする人は誰もこのような結論に達しません。

つまり、「神はひとつの組織を用いてご自分の民を導かれる」という結論は、「ひとつの組織」の聖書解釈を絶対として受け入れて、つまり「神はひとつの組織を用いている」ことを前提として出される結論です。ここでお分かりのように、この議論は偽りの議論です。なぜなら、結論を引き出すのに、結論そのものを前提としているからです。あなたが「ひとつの組織」を信じてその聖書解釈を受け入れなければ、「神はひとつの組織を用いてご自分の民を導かれる」という結論は出ないからです。従ってあなたの三段論法はまともな理性と合理的な思考をする人間には受け入れられません。

次に組織の間違いも「神がそのようにそのときは目的があって導かれた」から、それでも神の祝福があるという議論ですが、それではものみの塔の主張が明らかに間違っており、それに反対する人々の主張が明らかに正しかった時、(たとえばハルマゲドンの来る時期を予測して外れたものみの塔に対し、聖書は「その時は誰も知らない」と書いてあるから予測すること自体が間違いであると主張した人々)、神はそれでも間違ったものみの塔の組織を祝福し、聖書から見ても正しかった反対者たち(元エホバの証人など)をそれでもエホバに反抗する人と見るのでしょうか。そうであるとすれば、あなたの信仰は、正しくても、間違っていてもただただ組織を信仰するだけの、エホバの名前を借りただけの組織信仰ではないでしょうか。あなたはそれでも組織を盲目のように信仰するでしょうが、目覚めた理性のある人には到底受け入れられない論理であり信仰であると思います。

「エホバの証人以外の人はすべてハルマゲドンのときに滅びる」という教えを出版物の中で見たことがないと言うことですが、次の引用を見て下さい。

*** 告 170 12 大群衆―天で生きるのか、地上で生きるのか ***
聖書は次の結論を強力に支持している。すなわち、エホバはハルマゲドンで地上の人々を滅ぼし、ご自分のおきてに従い、ご自分の組織を擁護する人々だけを救われる。

*** 塔97 3/1 15 目ざめている人たちは幸いです ***
そうです、世界情勢がハルマゲドンと呼ばれる段階に達した時、エホバはご自分の民を救出し、サタンの体制を、痕跡をとどめないまでに滅ぼし尽くされます。エゼキエル 38章21節から23節の預言の言葉を読んで、その情景を思い描いてみてください。エホバはご自分の力を行使して、洪水となる豪雨、荒廃をもたらす石のような雹、電光のような火、死を来たらせる疫病などを引き起こされます。ゴグの大群が混乱に陥れられて互いに戦い合うようになると、世界中はパニックに陥ります。全能の神に敵対しながらなお残った者がいれば、エホバが超自然の手段を用いてご自分の僕たちを救う時に処刑されることになります。予告された「大患難」が終息した時、サタンの不敬虔な体制のものは何一つ残っていないでしょう。

これらの引用から見る限り、エホバの証人以外に誰がハルマゲドンで生き残れるでしょう。それともエホバはエホバの証人以外に「ご自分の組織を擁護する人々」あるいは「ご自分の僕たち」がいると考えるのでしょうか。そんな話はものみの塔の教えの中で聞いたことがありません。

もし、あなたが「それで,最終的には,心の状態をひとりひとり愛と公正でイエスが吟味されて,滅ぼすかどうかをきめるのではないでしょうか?」と本当に信じているのであれば、人がエホバの証人になるかならないかはそれ程重要なことではないのではないですか?確かに聖書を読んで神の言葉に触れることは重要かもしれませんから、聖書の配布でもすればよいのであって、なぜものみの塔の組織の一員となるように勧誘することが第一とされているのでしょう。あなたの言うことと、あなたがエホバの証人として実践していることとは調和していないと私は思います。

最後に「エホバの証人が間違っている可能性を考えるとともに,正しいかもしれない可能性についても考えてください」という言葉について一言申し上げます。恐らく大部分の人は、あなたが言うように聖書と神を信じている限り、エホバの証人はエホバの組織として正しいという前提で出発しますが、その後色々調べた結果、「話が違う」ことに気が付いているのです。むしろ問題は「正しいかも知れない可能性」を考えないことより、多くの組織に忠実な証人がちが「間違っている可能性」を真剣に考えないことであると思います。