「バプテスマを受けるってそんなに重要なことですか」

(5-11-02)


初めてお便りします。
私は聖書研究を2、3年前に始めました。最初は知識の本から始め、崇拝の
本へと移行しそれも終了し、本当に全部いわれるとおり信じていました。集
会にも欠かさず出席し、自分の生活の出来るところは正し、自分なりに努力
してきました。
でもひょんなことから、西暦前607年にネブカドネザルは未だ即位してい
ないことに気がつきました。
いろいろな事を調べましたが結局ものみの塔だけが違う意見を持っていると
言わざるを得ない結果になりました。
この事について、研究司会者からの説明を受けました。どうしても納得でき
なくて押し問答になって、自分でもこんなことに労力を使うのが疲れたので
、まあいいや的になっていました。そして去年伝道者になり輸血拒否の書類
を自分で作ることになりました。その書類を作る前の集会で”血液分画は”
自分の良心に基づいて”受け入れていいとか、色んなあいまいな説明がなさ
れました。根拠は”胎児が親からへその尾を通してそういった成分が胎児の
体の中に入る”というものでした。自分は血液の事などよく知りませんが、
”血を避けなさい”という聖書の言葉に従って”輸血を拒否する”ならどう
して血液から作られた分画はよいのでしょうか?
どうしてだめなものはだめで、良いものは良いという明快な説明が出来ない
のか本当に腹立たしく思いました。またものみの塔に対する不信感が「ぶり
返した」のです。それで、そのことを長老と話す機会が”持たされて”(こ
ちらから頼んだのではないのですが)話し合いをしました。私の思ったとお
り、全く組織の意見そのものでがっかりさせられました。(時間を返して欲
しいです)
まあそんなこんなで最近は集会にも出席していません。みんな会衆の人たち
は心配してくれたり、私にはサタンがついているとか(笑)色々うわさが立
っています。
でも、私が本当に知りたかったのは聖書が何を私たちに差し伸べているのか
、何を教えてくれて、自分の人生がより豊かになるか、だけです。
聖書の解釈にも色々あると思います。神の名前がエホバだろうがヤハウェだ
ろうが、三位一体だろうがなかろうが、キリストが一本の杭につけられたの
か十字架だったのかなど、細かな点はどうでも良いこと(失礼)です。本当
にこの宗教にはがっかりさせられました。これを勧めてくれたひとを恨む気
もありませんが、どうしてこんなに曖昧な宗教にだまされるんだろう??と
、不思議に思ってしまいます。(みんな聖書通読を薦められて読んでるはず
なのに・・・)
聖書の事を知るのは本当に良いことで、私は何が起きても今は心の平安を保
てるようになりました。この点については
聖書を知る動機づけをしてくれた事に本当に感謝しています。でも、組織の
言うことには矛盾が多すぎて全く信用できません。私は神を崇拝し、キリス
トに信仰を置いています。(まだまだ調整する点はいくらでもあるのですが
)組織の言うことではなく、キリストを信仰する者への無償の賜物であると
信じています。(これを長老に言うと「では、その信仰をおいた人は何をし
ましたか?人々に述べ伝えたのではありませんか?」と言います。まあ確か
にそうかも知れませんが、私のポイントとは完全にずれてる感じ)
伝道者になり研究司会もしてしまいました。研究生の方には本当に罪の意識
があります。でも彼が本当に聖書を信じて神を崇拝し、キリストに信仰を置
いて欲しいと今でも思っていますが、組織に対する信仰は絶対に持って欲し
くないと思っています。
ところで、バプテスマを受けるってそんなに重要なことですか?だとしたら
、私はどうしたらよいのでしょうか?
何かご意見があったら教えてください。

《編集者より》
エホバの証人のバプテスマを受けることは非常に重要な意味を持ちます。バプテスマを受ける前の今の状態で組織を離れるのなら、それは「真理」を知らないで離れたのですから背教ではありません。それに対し、もしあなたがバプテスマを受けた後で組織を離れたのであれば、あなたは「真理」を知った上で離れたのですから、「真理」に反対していることになり背教者と同じ扱いがなされます。すなわち、家族や友人から絶交され忌み嫌われる惨めな生活を強いられるのです。しかし、エホバの証人以外のバプテスマにはそのような陰湿な意味はありません。もしあなたが一般のクリスチャンとしての生活を受けるために教会でバプテスマを受けることには問題はないと思います。


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