(5-4-02)
元不良開拓者より 村本さん、お久しぶりです。 投稿はしばらくでしたが、更新はいつも楽しみにしております。 お忙しい時間を割いて下さっていることにいつも感謝しています。 ようやく一段落つきました。 なんとか開拓奉仕を降りることができました。実際たいへんにしんどかった です。時間を入れるためにはルートを計画し、端から端へと自転車で 移動します。わざと遠回りのルートを作るわけです。そのかわり体力的には ほんとうにたいへんでした。カチカチの石頭たちは「そうしなければ ならないのは、研究を見つけるのが下手だからだ」と言うでしょう。 ダンナは人が変わったみたいに私にひどい言い方をねちねち投げつけてきま した。心労がたたってか、ついに寝込んで発熱と嘔吐のために救急車 で運ばれるに到り、ようやく許してくれました。これでダンナの「出世」は かなり遅れることになりますが、そんなことよりも子供の将来のこと を考えてほしいと思います。 しょせんものみの塔の宗教は「終わりの日教」でしかありません。ノストラ ダムスの予言を間に受けた人とおなじなのです。ものみの塔にもノス トラダムスの批判は載せられています。ノストラダムスへのものみの塔の批 判はそのままものみの塔の解釈法にもあてはまると思います。 *** 目84 11/22 21 聖書の預言はどれほど信頼できますか *** ノストラダムスのような占い師は,幾通りにも解釈できるあいまいな言葉をし ばしば用います。予言が実現しなかったときに狼狽しなくてもすむ ようにそうするのです。聖書の預言についても同じことが言えますか。聖書 の預言はあいまいなものですか,それとも明確なものですか。 ダニエル書など読んでみても、私には「幾通りにも解釈できるあいまいな言 葉をしばしば用い」ているようにしか思えません。ダニエル11章につ いてのものみの塔の解釈はそれ以外に解釈しようがないものというよりは、1 914年の教理に」合わせてつくられた年表だと考える方がまともで す。こんな宗教のために子供の人生をむだにさせたくはないし、親ならそん な宗教に振り回されないように教育する責任があると思います。 またエホバの証人は子供のしつけの面で、証人じゃない人たちより勝ってい るとも思えません。確かに「幸福な家庭」やそのまえの「家族生活」 の本に書かれていることはうなずけることばかりですが、それはこの20世紀 、21世紀に入って研究されてきた成果のうちのいくつかが紹介されて いるのであって、聖書それ自身にそのように書いてあるのではありません。 ただ「精神の規整によって」とか「こどもたちをいらだたせないよう に」とか書いてあるにすぎません。具体的にどのようにするのかについては 、まじめにその問題に取り組んでいる一般の書物のほうに詳しいので はないでしょうか。近ごろ日本ではスティーブ・ビダルフという育児研究者 の方による「男の子ってどうしてこうなの?」という本がよく売れて います。私もこの本を読みました。特に、「健全な性意識を育むために男の 子に性的に陰湿にならないように女の子たちと友人として知り合うの に手を貸そう;16歳以下の少年と少女の関係を性的とみなす風潮をいましめ よう」という点は証人の方針とは逆ですが、こっちの方が正しいと自 分の経験からも思いました。証人はとかく、男の子と女の子が隣り合わせて 座ることさえあれこれいいます。うちの会衆では、ですけれど。でも 私は性意識は危険なものではなく、愛し愛されることの大切な言い表し方だ ということを分かってもらうようにするほうがずっと積極的だと思い ました。もちろん、セックスは女を服従させる手段として使ってはならない し、たいていの女は暴力的セックスで服従されたりはしないというこ とも分からせたいですけれど。 わき道にそれましたが、こういうことは聖書に書かれているんじゃなくて、 エホバの証人がどちらかと言えば批判的に見る「世の見解、世の知 恵」から引用したものです。ですから特に世よりすぐれているのではなく、 むしろ世の優れた研究の助けを得ているというのが本当のところで す。そして実際面でのしつけの成果はといえば、ものみの塔の子供たちは世 の子たちより不幸のように見えます。だって、精神病やうつ病に悩ま されているっていう報告があるんですから。 とにかく開拓を降り、私は子供によりよく接してゆく時間が増えました。ダ ンナのものみの塔の影響に染まってしまわないように、これからそれ こそ「平衡のとれた」教育を行って行くつもりです。この点では絶対にダン ナに譲らない。どんなことになっても!
《編集者より》
これは以前に、「私の悩み 不良開拓者より」と、「雪」−創造論に関する質問−不良開拓者よりの投書を頂いた方からです。ものみの塔が聖書を現代の私たちの生活に当てはめる時の最大の問題点は、聖書が書かれた時と場所と、現代の私たちの時と場所との決定的な違いを無視している所にあると思います。もちろん幾つかの普遍的な原則、たとえば隣人への愛とか、正直であるというような、抽象的な原則は時代を超えて適用されるでしょうが、事が実際の生活に関係してくると、人間の行動は全てその置かれた時と場所によって規制されます。従って聖書の書かれた時代に有効であった多くの教えは、そのままでは現代には通用しないのです。性に関する道徳も時と場所によって大きく異なっています。聖書の時代には男尊女卑は当たり前でしたが、現代の社会ではこれは通用しません。それは聖書が間違っていたからでもなければ、現代の社会が聖書に反対しているからでもありません。これは単純に時代と場所が変われば人間の行動パターンも変化(進化)するのです。この簡単な事実を無視して、時と場所をわきまえずに統治体が聖書の規則を振りかざしてエホバの証人を統制している所に、エホバの証人の悲劇の根源があるのでしょう。もちろん、ものみの塔も「新しい理解」とか「新しい光」とか言って、聖書の解釈を時代に合わせて捻じ曲げて、何とか形だけでも聖書の規則を守っているという姿勢を続けていますが、私はこれは単なる自己満足と自己欺瞞の粉飾に過ぎないと思っています。あなたの言うように、エホバの証人もエホバの証人以外の人も、その生活のほとんどを、現代の社会通念と科学技術という「世の知恵」に全面的に依存しているのです。そこに聖書を持ち出すのは単なる自己満足に過ぎないのではないでしょうか。
開拓を降りて、お子さんと証人であるご主人との微妙で難しい関係を今後どうやって続けていくか、難問が控えているでしょうが、どうか冷静に「平衡のとれた」態度を続けて頑張って下さい。