精神疾患について−「真実を求め続けたいエホバの証人」

(4-2-02)

@精神疾患について
 
イエスを信じ、神の愛を正しく教えられた一世紀の信者たちは、精神疾患か
ら癒されこそすれ、精神疾患にかかってしまうことなどありませんでした。
同じように、世では様々なストレスで精神疾患がふえているとしても、神の
愛を真実な形で教えられているクリスチャンならば、癒されこそすれ、世以
上にふえるのはおかしなことです。村本さんが書いていらっしゃるように(
まだ、ざっと読んだだけですが)、信者になる人にはそうなりやすい素地を
持っている人が含まれるとしても、信者になることによって心が救われ、な
らないで済む人が多いはずです。精神疾患を持って入った人さえも軽減する
のがイエスの愛なのですから。
 
イエスが人々に示されたものとは全然かけ離れた心、イエスが教えられた神
とは違う混ぜ物の神を教えているから、精神疾患にかかる人が世以上に多い
のでしょう。
 
エホバの証人は厳格過ぎるからという言葉をよく聞きますが、そういう表現
は、いまいち的確ではないと思います。なぜなら、神にも厳格な面がありま
すが、神の厳格さは、人間に破壊されていない自然界の厳しさと似ていて、
ルールを守らないで接すると容赦ない目にあいますが、人を育て、幸福にし
、平等に人を包み込む愛情も人にはっきり感じさせるものです。しかし、人
間が破壊してしまった自然界は、ただ残酷に人を苦しめるだけの厳しさを示
します。それととても似ていると思うのです。つまり、聖書の中のより重要
な部分が、組織によって破壊されてしまい、それが精神疾患をふやしている
原因だと思のです。
 
もし、神の愛を真実な形で教えられていたら、イエスのもとに来た一世紀の
信者のように、自然に喜びはわいてくるのです。厳格な面もありますが、人
間の愚かさを考えると、最大多数の最大幸福をもたらすために、毅然とした
ルールが必要なことは理解できますし、何よりも愛をしっかり実感できるの
で、畏敬の念と共に、自然に温かい感情が心にわき、喜びに直結するのです
。イエス・キリストは正確に神の愛を実践し、教えられましたから、その喜
びが、一世紀の社会の中で虐げられ、底辺に追いやられていた人たちにさえ
も、生きていく活力、自信、幸福感を与えたのです。
 
神のご意志のより重要なものを破壊し、混ぜ物を入れた会衆の中で、「喜べ
、喜べ」と連発しても喜べるはずはないでしょう。しかも話しの終わりに、
「喜びがないと霊を阻害するので、霊的に危険である」みたいな、超超超オ
バカなことを言い放つ神経は、それこそ反キリストじゃないのでしょうか。
言葉で幾ら「主よ、主よ」と言っても、キリストとかけ離れた心を持ってい
るなら、神から「崇拝しても無駄」と言われることは、エホバの証人なら耳
にタコができるくらい聞いて知っているでしょうに(マタイ15:8)。確か
に、詩編とかいろいろな聖句に「喜べ」とか「歓べ」という内容は書いてあ
ります。でも、あれは混ぜ物からくる現象で苦しんでいる人に対して言って
いるのではありません。感謝の欠如とか、心の繧ウからくる不満的なものに対
して呼びかけているのです。その証拠に、パリサイ人の混ぜ物に苦しみ、喜
びを失っていた人たちに対して、イエスは「喜べ、歓べ」なんて、バカな励
ましは言いませんでした。ちょっと考えればわかることなのに、ひたすら組
織マシーン化してしまった兄弟ほど、それを単純に、苦しんでいる今のエホ
バの証人に当てはめて、組織の要望どおり、演壇から「歓べ、喜べ」と言う
から、混ぜ物に苦しんでいる人達は、ますます混乱して、自分が悪いんだ、
感謝がないから自分には喜びがないんだ、感謝がないから神に喜んでいただ
いてないんだと、ますます自分を追い詰めて、救われるどころか拷問状態に
なるのです。そんな霊的拷問にあわされて、一方で幾ら神の愛を強調されて
も、神の愛を実感できるはずありません。それどころか、神の愛を受けてい
ない自分は、神に愛されていないんだという残酷な結論を強要されるのです
。キリスト教の一番大切な部分が、破壊されているのです。
 
その破壊はどこからきたのでしょうか。
答えは超簡単、ルカ21:8に対する違反=聖書的違反が、根本的原因だと思
います。
ルカ21:8にはこう書かれています。 “イエスは言われた、「惑わされな
いように気を付けなさい。多くの者が私の名によってやって来て、『私がそ
れだ』とか、『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行
ってはなりません。”
 
はからずも、終わりの時に登場するとイエスが予告されていた2大背教勢力
の特徴は、『私がそれだ』とふれ告げている「統一教会」と、『その時が近
づいた』とふれ告げている「エホバの証人」の組織にピッタリあてはまりま
す。キリスト教会がビラの終わりに「当教会は統一教会、エホバの証人とは
一切関係ありません」と但し書きをつけている理由はこの聖句にあったので
しょうか。
 
エホバの証人の組織は、ラッセル兄弟当初から、出発点から、まさに「今は
予告された終わりの時である、予告された大患難は近い」ということを大命
題とし、前面に打ち出して、「あらゆる大胆さをもって」ふれ告げてきまし
た。当時の聖書研究者の人たちは、もちろん故意にそのような聖書的違反を
犯したわけではないでしょう。最近の雑誌のどこだったかにも、結果的に組
織を誤導してきた人たちについて、「故意にまちがったわけではない」と擁
護し、故意の罪に問われた昔の背教者とは質が違うこと示す一文を挿入して
いました。でも、過失であっても、結果の重大さによって罪は重くなるので
はありませんか。申命記などにはそう示唆されています。
 
「その時が近づいた」を大命題に掲げるということは、必然的に宣べ伝える
活動が最重要視されます。「命がかかっているのだから、伝道活動以上に重
要なことはない」となり、その活動こそが「神のご意志を行う」ことであり
、「神を喜ばせる」ことになるという流れになっていきます。人間よりも活
動が重視され、統治体の力は強大化していきます。キリストのためではなく
、活動のために、家族が崩壊し、信者や家族の人間性は軽視されます。しか
も、神の是認を活動の結果(拡大)で判断し、記名入りの奉仕報告を出させ
、大いなるバビロンが倒れたかどうかも、信者が非人間的に扱われていると
いう信者の人間性を基準に考えるのでなく、「活動を止めさせたかどうか」
を基準として判断するということにまでなっていきました。角度を間違えて
飛ばしたロケットが、どんどん正しい軌道からそれて、とんでもないところ
へ飛んで行くのに似ています。これほどの聖書的違反を犯したことは、不完
全で済むのでしょうか。
 
神が命じられた週単位の活動は、週1回の集会、週1回の伝道でしょう。と
にかく週1日を神のために取り分けるよう命じられたのです。聖書的にして
いれば家庭崩壊はずっと減っていたでしょう。それでも反対する家族を持っ
た場合、信者は苦しみの杭を取り上げなければなりませんが・・・・・・(
マタイ10:34-38)。記名の奉仕報告なんか出す必要もありません。組織がよ
く引用するルカ10:17-20の聖句は、弟子達が伝道の成果をイエスに報告した
とき、イエスは「名が天に記されたことを喜びなさい」と答えておられます
。組Dに報告する根拠にはなりませんし、一世紀にそういうことがあったこと
を示す記述も見当たりません。活動重視の精神が産み出したものです。また
、今は、緊急な特別な時なので、活動の強化は聖書的に必要だと言うかもし
れませんが、神は石にでも叫ばせることがおできになるのですから、聖書的
にやって足りない部分は、どういう方法を使っても補うことができるのです
。活動に走って非聖書的要求を人々に強要し、崩壊しなくも済んだかもしれ
ない家庭を崩壊させ、活動的な人を賞賛することによって、そうできない人
たちを苦しめ、会衆の霊的状態を奉仕時間や数字で判断し、長老には会衆を
活動的にさせるよう強要し、あげくの果てに若者が生活基盤を確立するのを
妨げる等々、すべては、ルカ21:8の違反から産み出されたものです。
神の答えは、多分、終わりを遅くし、自然消滅とまではいかなくても、力を
大幅に削ぐことで表明されると思います。神にとって千年は1日のようなので
すから、1時間遅らせても40年くらい遅くなることになります。
真に聖書的軌道に戻すことこそ、緊急に必要だと思います。

《編集者より》
精神病は真の病気であり、医療による治療を優先させるべきである、というのが私の主張です。宗教は精神病に関して、良い方向にも悪い方向にも働きます。あなたも書かれたように、ものみの塔の教義が今のようなものである限り、心の病を持つ人々に安らぎは来ないでしょう。心の病を霊的な問題や信仰心の問題と履き違えている所にものみの塔の最大の問題があります。

誤った予告をしてエホバの証人に混乱を与えたものみの塔指導部の責任ですが、「故意にやったのではない」という言い逃れがものみの塔誌の記事に載ったのを私も覚えていますが、それがどこであったか思い出せません。この言い逃れは、まさに「盗人白々しい」そのものです。ものみの塔の教えはその最初から、誤りだらけであることが一貫して内外から指摘されてきました。それを「故意」にもみ消し、内部の批判を鎮圧し、外部の批判に耳を塞いでおいて、それが「故意」でなかったとは何と言う言い訳でしょうか。この組織の根本的腐敗を見事に示す言動であると思います。