「思ふ事」−世界人類の問題にどう対処するか?

(4-1-02)

村本様はじめまして。
僕は男性であり匿名を希望する者であり、
現在は活動を休止している者です。

日本の最高学府で最も難関とされる学部で医学を
学ばれた、つまり日本人として最も優れた頭脳を
持つであろう部類に選ばれる人々の中に入る村本
様にお尋ねしたいことなのです。

人間とは何であり、これから将来に向けて進むべき
方向をどのようにしたら最善となり、人間全体のた
めに、いや人間を含めた存在一般のための最良の方
法とは何でしょうか? 

このような類の問題が宗教的アプローチによっては、
個人的資質の問題もあって限度を感じてしまいました。

現在も世界は揺れ動いており、世界貿易センターへの
テロ行為、自分自身の命を捨て多くの人々の命を破壊す
るという方法。愚劣であり、その愚劣さを嘲笑うがごと
くのようなアメリカのアフガニスタンへの攻撃。

更に少しも歴史から学ぶこともないかのようなイスラエル
とアラブ難民との争い。16歳の少女の自爆テロ。なぜそれ
ほど失意のうちに生きなければならないのか?

僕の心は世界の片隅に隠れながら痛んでいます。

村本様はこの世界をどのように治療されるのですか?

一匿名人

《編集者より》
非常に深淵なご質問で、お答えを考えるのに数日かかりました。あなたのご質問はある意味で「究極の疑問」であると私は考えまして、「世界人類の問題にどう対処するか?」という副題をつけさせて頂きました。なお、私は特に優秀な頭脳を持っているとは思いませんので、そのような先入観を持って私の答えを読まないでいただくことをお願いします。ただ、私はあなたと同様、また多くのエホバの証人と同様、このような究極の疑問を考えつづけてきましたので、私自身の見方を持っています。この機会にここでそれをご紹介します。

まず第一に私のお答えの土台となる事実認識から述べます。もし、事実認識が認められなければ、それに基づいた意見は全く理解できません。まず第一の認識は、今という時が人類の歴史の中で、あるいはもっと広く地球と宇宙の歴史の中で、何か特別な時なのかという問題です。私の認識は、「歴史は常に繰り返され、何時の時代もその時に生きている人は、良いことでも悪いことでも、今が特別の時代であると感じるものですが、歴史を振り返ってみると、それは同じテーマの変形と繰り返しに過ぎない」ということです。これを私は「自己中心錯覚」と呼びます。つまり人は「自分」の置かれた場所、時間、状況が人とは違う特別なものと考える傾向があるのです。これを人類全体の「現在」という時間にあてはめると、何時の時代にも、たとえば第一次世界大戦の時代のラッセルの時代でも、第二次世界大戦前のラザフォードの時代でも、冷戦さなかの1975年でも、すべて自分たちは今、特別の時にいるという「錯覚」に陥るのです。しかし、これらの出来事も時代も、無限に流れ過ぎる歴史のほんの一こまに過ぎません。この「人は自分の時代を特別と感じる錯覚に陥る」ということを第一の事実認識としましょう。

第二の私が提案する事実認識は、苦しみと悩み、そして喜びと希望は両方とも切り離せない人間の、そして人類の生活の一部であるという認識です。病気、災害、戦争、悲劇の無かった時代が今まであったでしょうか。それと同時に喜び、希望、祝いの全く無かった時代があったでしょうか。苦悩も希望も人生の不可欠の要素であり、これは人類の存在にとっても不可欠の要素なのです。私はこれも歴史に一貫したテーマであり、これは何時の時代にも変わらないと思います。確かに幸せな人々と不幸せな人々がいますが、百パーセント幸せ、百パーセント不幸せということはあり得ません。どんなに幸せな人にも必ず不幸は訪れ、どんなに不幸せに打ちひしがれている人にも一縷の希望が見えてきます。また「幸せ」「不幸せ」というのは常に相対的なものであり、人の心の状態によって大きく変動することも事実です。「苦悩と希望は常に共存する人間の生活の一部である」ということ、これが私の第二の重要な事実認識です。これは甘味だけでなく酸味や、時には苦味までが美味しい料理の不可欠な要素であることと似ています。

第三の事実認識は、人間の本性に関するものです。昔から人間の本性は「善」か「悪」かという議論が、宗教家や哲学者によって論じられてきました。「性善説」に代表される見方は、人間の本性にはよいものがあるから、それを伸ばすことによって人間は良くなれる、という見方です。それに対し、「性悪説」の見方は、人間は元々罪深く不完全な存在であるから、常に矯正して叩き直さなければならない、あるいは不完全な存在を捨てて完全な存在に変わらなければならないという考えです。エホバの証人やキリスト教の教える「アダムの原罪」の考え方はこれに基づいています。私は長年人間を観察して分析することを仕事としてきましたが、それに基づく私の認識は、人間は常に「善」と「悪」とを共存させているということです。つまり、どの人間もまた人類全体も「全て善」であることはあり得ないし、反対に人間の本性を全て「悪」として片付けるべきでもないということです。もちろん、この議論で欠けているのは「善」と「悪」の定義の問題ですが、これを議論しだすと更に長いお答えになりますので、ここでは常識的な「善」と「悪」ととりあえず考えておきましょう。私の第三の事実認識は「人間は、個人としても人類全体でも、『善』の性格と『悪』の性格を常に共存して持っており、この葛藤は常に続いている」ということです。

それでは以上の三つの事実認識に基づいて、あなたの「究極の疑問」を考えてみましょう。確かにこの数年、世界中の人々は悲観的になっています。昨年9月11日のテロ事件、アフガニスタン、中東での紛争とテロ等、世界各地で悲劇が繰り返され、経済状態は悪化し、やはり今が特別の時であり、「終わりの時」なんだろうか、と思いたくなります。しかし私は、上に述べた第一の事実認識に基づいて、これは単なる自己中心錯覚であると思っています。ものみの塔協会がよく使う議論に、戦争が増え、地震が増え、疫病が増えて食糧難があるから、今が「終わりの時」であるというのがあります。エホバの証人をやった人なら知っている、必ず身に沁みて教えられた物の見方であると思います。しかし、この見方は全くの錯覚であり、悪く見れば大衆を扇動するためのものみの塔協会の欺瞞であるとも言えます。地震が何時の時代にもあり、悲劇が繰り返されていますが、それは決して特別なことではないことは、「地震は変化しているか?」の記事に詳しく紹介しましたので、参照して下さい。戦争やテロリストの行為で人が大量に殺されるのは、実に心の痛むことです。ではこれが何か特別の現象でしょうか。古代の時代から、人間の大量殺戮は繰り返されて来ました。例えば、ヨシュアの10章、裁き人の3章、16章、20章、サムエル第二の8章などに描かれている、エホバによって許された大量殺戮は、現代のコソボや、ルアンダ、イスラエルやパレスチナ、ニューヨークの世界貿易センターの大量殺戮を凌ぐ大規模のものでした。10世紀前後にヨーロッパで起こった十字軍も、キリスト教の名目の元に、現代では考えられないような大量殺戮が行なわれました。もちろん、第二次世界大戦におけるヒトラーのユダヤ人虐殺や、原爆による広島長崎の大量殺戮はわれわれの記憶に新しいことです。その他、病気や飢饉による悲劇や死者も、同じように繰り返され、歴史的に見れば特に現代がひどい状態であるとは言えません。むしろ、現代はそれでも昔に比べれば遥かに改善しているのです。従って、「世界人類の問題」は我々の心を痛め、何とかしなければという気持ちを駆り立てますが、それは決して新しいことではなく、人類の歴史と共に常に存在してきたことであると言えます。

それではそのような「この世界の悲劇をどのように治療するのか」とあなたは尋ねます。人類の歴史と共に常に存在してきたこのような人類の苦難を誰が一夜にして無くすことができるでしょうか。私の答えは簡単です。これは不可能です。人類の歴史の中で多くの宗教家が「救い」を約束してきましたが、その救いは単なる先延ばしであったことは、身近なものみの塔協会の歴史を見れば直ぐに分かることです。しかし、私はこれに対して「治療」でなく、むしろ「共存」することを提案します。ここで私が上に述べた第二の認識を思い出して下さい。人間にとって苦悩は、希望と共に、生きることの不可欠な一部なのです。そうであれば、苦悩と戦ったり、現実離れした苦悩のない別世界の楽園を妄想するより、苦悩を受け入れてそれをより楽なものにする工夫をすることを提案します。このことは、決して戦争をなくす努力をやめたり、病気の治療と予防の努力を捨てたり、環境の保全、防災計画の充実、食料やエネルギーの供給源の開発などを怠ったりすることを意味しません。これらの努力は今後も今以上に行なわなければなりません。しかし、これらには限界があり、決してあなたが希望する「治療」にはなりません。だからこそ、何時の時代にも人々の努力にもかかわらず、悲劇は繰り返されるのです。人間の最大限の努力にもかかわらず、起こってくる苦悩と悲劇は何時でもどこにでもあり、これは受け入れなければなりません。繰り返し強調しますが、このことは我々の苦悩と悲劇を回避する最大限の努力をした後での話です。ものみの塔協会の教える、「この事物の体制は直ぐに滅び去るから、努力しても無駄だ」と言って、将来の楽園の妄想を植え付ける努力しかしないのとは全く正反対の態度です。

この考えは何も私だけが提案する新しいものでは決してなく、実際多くの人々が実際の知恵で学んできたことです。多くの不治の病の人々とお付き合いしてきた私にはそれがよくわかります。例えば末期の癌や、不治の神経系の病気を患う人は、出来る限りの治療を行った後に、何ができるでしょう。もちろん、痛みや苦しみを出来るだけ和らげる治療は最大限続けていきます。しかし、これは解決ではありません。解決は病気と共存して心の平安を得ることなのです。確かに多くの人は、自分の病気が不治で、命は限られていると知ると心を打ちひしがれて、うつ状態に陥り、悲しみの中で人生を閉じていきます。しかし、別の人々は限られた余命と限られた能力を認識する中で、今までになかった全く別の喜びと希望を見出して生きていきます。その人たちは、人生の今まで気がつかなかった細かいことに、大きな喜びと希望を見出すことができるのです。その人たちは充実して平和な死を迎えられます。

同じ事が人類全体の苦悩と悲劇についても言えます。私たちは今後も、悲劇を防止する最大限の努力をし、不幸にして悲劇に見舞われた人々には最大限の助けを与えるべきと考えます。エホバが許した聖書の大量殺戮の時代に、誰が今のような戦争犠牲者への援助を行なったでしょうか。それに比べて現代では、アフガニスタンでもアフリカでも戦争難民に対する経済的、医療的援助は、歴史でかつてない大きな規模で行なわれています。また、戦い合っている国や民族の間で、戦争を超えた平和な交流を求める動きが人々の間から自発的に生まれてきます。これらは全て悲劇と共存して生きていく方策です。先日も私はテレビで(アメリカでの放送ですが)イスラエルの病院で繰り広げられている人間ドラマを見ました。アラブの自爆テロリストによって殺されたイスラエル人の内臓が、臓器移植を必要として待っていたアラブ人の患者に移植され、そのアラブ人の命を救ったのです。宗教の違いに源をもつパレスチナのアラブ人とイスラエル人の限りない憎しみとテロ、戦いの中で、テロで打ちひしがれた家族が、敵の命を救うために犠牲者の臓器を提供し、その結果、憎しみ合っていたアラブとイスラエルの家族同士が赦しと感謝の気持ちで抱き合っているその姿は、まさに私が言う、悲劇と苦悩の中に存在する喜びと希望を体現するものであると思いました。ちなみに、このイスラエルの病院では、たとえ戦争の真っ只中にあっても、敵も味方も全く区別せずに同じように人間として最大限の医療が与えられるということでした。

ここで私が上に述べた、第三の認識を思い起こしてください。人間は個人でも、人類全体としても、罪を犯す「悪」の本性を持つと同時に、「善」の本性も持っていると述べました。その「善」とは正しいことを行い、人を愛し、悩むものに同情することです。これは宗教や文化を超えて存在する人間の本性であると私は思います。この事実は、聖書のルカ10:30に描かれているよきサマリア人の話によく表されています。ここでは、ユダヤの民族と宗教を超えて、普段軽蔑されているサマリアの人々が、ユダヤの高い地位の人々よりも自発的に「善」を行なうことを示しています。現代で言えば、エホバの証人よりも「世の人」の中に、より高い道徳律と愛ある行いを行なう人々がいることと似ています。英語ではこれは「compassion」という言葉で表されますが、日本語ではこれに当たる適当な訳語がありません。一般に「同情」すなわち「sympathy」という言葉と同じに訳されますが、実際の英語の中で使われる「compassion」は日本語の「同情」よりも遥かに強く深い意味を含めています。私は「compassion」は全ての人間に潜在的にそなえられた「善」の本性であり、それは人がどの宗教に属するかに関係なく、あるいは宗教に属さなくとも、持っているものであると思います。ルカ10:30の話の本来の意図はそこにはなかったかも知れませんが、この話はこの点を見事に示していると私は思います。「compassion」は時に応じて、人々の間に活発になります。全くキリスト教も宗教の話も知らない未開地の人々が、道に迷って困った人、怪我をした人を、自発的に助けてくれた話は無数にあります。その人たちは、決して義務や、教えや、教義に基づいてそうしたのではなく、そうするのが当然と自然に感じて行動しているのです。もちろん、その反対に道に迷った人、怪我をした人を襲ったという話もまた無数にあり、それだからこそ、人の本性は全て「善」でもなければ全て「悪」でもないのです。

私は、この人類の避けられない不幸と悲劇を受け入れる中で、人間に元々そなえられている、この「compassion」を最大限に伸ばすことで、苦難と悲劇を防止したり、その痛みを出来る限り軽くし、受け入れやすくすることができると思います。政治、宗教、経済、文化などの違いが、この人間の本来の「compassion」を押しつぶす時、人は争いに走り、自分(自分の国、自分の宗教、自分の人種、自分の利益)を優先させます。ここに人々の苦悩と悲劇が始まり、事態を悪化させるのです。この中で、宗教の果たす役割は微妙なものがあります。確かにある宗教は、悲劇と不幸を受容していく過程で大きな役割を果たすことができます。ある宗教は強い「compassion」を教え、人の心に限りない平和を与えてくれます。特に祈りの人に与える効果は、他では得られない貴重なものです。その意味で、私は宗教の人類の幸福に対する役割を否定するものではありません。しかし、ものみの塔を代表とする、既存組織宗教はそれ以上に「悪」を増大させていることも事実です。現代の多くの紛争や悲劇は、古代の「聖典」を時代の違いを無視して文字通り現代に当てはめる硬直的な原理主義的宗教信者によって引き起こされています。これはエホバの証人の排斥や輸血拒否の悲劇に始まって、ユダヤ人のシオニズム、イスラム教徒の聖戦に至るまで無数にあります。しかも、それは何も現代に始まったことではなく、聖書の時代にも同じ悲劇が起こっており、これも人類の歴史と共にある現象です。このことは、少なくとも原理主義的宗教組織に関する限り、宗教は人類の悲劇に対する答えではなく原因であると結論せざるを得ません。もちろん、私は先に述べたように、宗教の貴重な役割を否定するものではなく、私個人は宗教(私の場合はキリスト教ですが)を信仰し続けますが、あなたが問題提起したような人類の悲劇に対しては、宗教、特に組織宗教はその解決にはならず、むしろその原因となり続けると私は思っています。

以上長くなりましたが、あなたの「究極の疑問」に私なりの答えを考えてみました。これに対するご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。