(3-26-02)
私は断絶して7ヶ月になります。たまたま、地域の役員として神社の宗教儀式に 参加する必要に迫られ、行なってみて感じたことを書いてみます。 証人だった時は、近づくのも忌み嫌っていた神社の拝殿に座って、玉串奉奠を 行ないました。サタンの策略や影響なんて、まったく存在しません。今までと何 ら変わりません。 日本古来の宗教は農業に関連した祈願が多いのですが、それは自分達では どうすることもできない、天候に関して神頼みをするという意味があったからでし ょう。ですから、人々が余計な不安感を抱くことなく生活できるための精神安定 剤のような役割を果たしていたのだと思います。 私自身、今はどんな宗教にも関わる気持ちはありませんが、地域の人々の精神 安定に役立つのなら、あえて拒否するほどの意味はないと考えています。宗教 とは人々が安心できる為や、人生の導きを得るための手段の一つだと感じてい ます。それは、人によって選択できる自由な存在であるべきですし、人を掟によっ て縛るほど頑強なものであってはいけないと思います。 人の人生を豊かにすることの中に宗教も含まれるかもしれませんが、人の自由 を奪うほどの宗教は益よりも害が大きいと感じます。証人をやめて、私自身は 開放的な気分の中でより充実した人生を送っています。最近も半年ぶりに会った 方に「若返って美しくなった」と褒めていただきました。こらからも、宗教は距離を おいて関わっていくつもりです。
《編集者より》
元エホバの証人として他の宗教の儀式に参加することは大きな勇気がいることですが、見方を変えればただの「形」に過ぎないことがわかり、参加をするもしないも大きな意味はないことが分かるでしょう。他の宗教の儀式を恐れて避けるというエホバの証人の態度自体が、それらの宗教儀式に全く無関心な人に比べて、エホバの証人がより大きな意義を認めている証拠だと私は思います。それは逆の形でそれらの「異教」に「参加」していることになるように思います。
私は人間が宗教を求める気持ちは、人間の文明が始まって以来存在する、基本的な行動の一つと思っています。それは人間の歴史と共に常に存在し、人間の文明の営みの一部となってきました。そして全ての人間の基本的な行動と同じように、「適度で健全な」宗教が人間に多くの良いことをもたらしたのに対し、「過剰」な宗教、「病的な」宗教が、多くの害悪を社会に撒き散らしてきたことは歴史が示す所です。それはちょうど、飲酒が人間の文明と共に存在し、「適度で健全な」飲酒が人間の心と体の健康に役立ってきた反面で、多くの「過剰」な飲酒、「病的」な飲酒が多くの悲劇を生み出してきたのと似ています。しかし、宗教を廃して無神論の社会を作ることが失敗に終わることは、旧ソ連の崩壊で示されたと思います。これは丁度アメリカで1919年に行なわれた禁酒令が1933年に失敗に終わったのと似ています。従って、私は「適度で健全な」宗教は人にとって有益なものであると思いますが、「過剰で病的」な宗教はアルコール中毒と同様、常に警戒を続けていく必要があると思っています。