「教育に関する意見」−神の存在を教育に取り入れることについて

(3-20-02)

**と申します。
ホームページを見て、メールいたしました。

今日は、教育に関してひとつご協力をお願いしたく、どうぞよろしくお願いいたし
ます。

教育の分野で、今一番取り入れなければならないことがあると思います。

それは、創造主である神の存在です。
神の存在は、ダーウィンの進化論によって完全に否定されたかに思えます。
しかし、ダーウィンの進化論でさえ、実は、神の存在を物語っているのです。
進化論によると、生物はみな、ある一つのDNAから、突然変異と自然淘汰の累積
・分岐によって生まれてきたことがわかっています。
また、突然変異は、あらゆる変化が可能だったわけではなく、遺伝子が出来る過程
で可能なものに限られていました。
ですから、どんな生き物でも出現が可能だったわけではありません。
このひとつのDNAから派生が可能だった生き物たちが今の自然の調和を作り出し
ているのです。
自然の調和には、眼を見張るものがあります。生き物とその食物との両方の存在。
例えば、蝶と花の蜜。食物に届かなかったものは淘汰されてしまったにしても、な
ぜ、蝶のストローのような口があって、それがちょうど届く花びらのまんなかに、
その食物である蜜があるのでしょう。それらが別々に進化してきたことを考えると、
この二つの関係は当然のことでは決してありません。
また、進化によって生き物が得た「眼」というものが、光に対して完全に機能する
カメラのような構造になったこともそうです。最初のDNAによっては、途中までし
か進化できなかったり、違う方向にしか進化できなかった可能性が十分あり得たこと
を考えると、眼の存在は非常に不思議です。
これらがなぜ完成できたのか。すべての種の起源である最初のDNAに、その可能
性がすべて秘められていたとしかいえません。最初のDNAが存在したことはあきら
かですが、このDNAは偶然できた代物だったでしょうか?
このDNAの存在は、創造主、すなわち神の存在を証明しているということです。
これは、宗教的な話ではなく、科学的な話です。宗教や国境、人種の壁を超えて、
すべての人が共有できる話です。耳や、肺や、消化器官、みな同様です。
とくに繁殖器官は、それを通して繁殖ができなければ進化もできなかったわけで、
進化論の累積淘汰を議論する以前の大前提になっているのです。
最初のDNAの出現、それは、創造主である神様の存在を物語っています。

創造主である神様が、この天地を創造され、神様によって我々人間を含むこの世界
が生かされている、という関係が成り立ちます。
では、神は、なぜ、この世界を創造されたのでしょう。それは、愛したいがゆえ、
愛の対象を得たいがゆえでした。
それは、私たちが生きていて、満足を得ることが出来ることから、あきらかなこと
です。私たちが満足を得るものは、すべてこの宇宙に存在しており、それは神が配慮
しておいてくれたとしかいえないからです。
すなわち、神様の、愛したいという、愛が動機となって、世界は存在しているので
す。

教育や社会のなかで、いま最も強調するべきなのは、「創造主である神様の愛」だ
と思います。
「生きる力」、それは、自分が神に願われて存在するようになったことを知るとこ
ろから生まれてきます。
創造性や主体性が重要視されますが、それらを得たとしても、はたして行くべき目
的地はどこなのか、それを明確にする必要があります。
それは、神様の絶対的な愛を知って、神様のように人々を愛することができ、ま
た、限りない幸福感に満たされながら生きる、完成した人格だということです。

私たち人間一人一人は、神様の子供であり、神様の愛の対象だからこそ、尊いとい
えます。現代社会においては、人の命や自分の命を粗末にする悲しい出来事が多いで
すが、それらをくい止めることのできる明確な理由はここにあるといえるでしょう。
自然は、神様が私たち人間のために創造してくださったものですから大切にしなけ
ればならないといえます。
家庭は、神様の愛を学ぶところです。親子が、夫婦が、兄弟が、ほんとに仲良くな
るためには、神様の愛を学ぶことが一番です。
また、創造主である神様の愛を知った家庭が構成する社会こそ、真の平和を得るこ
とができるようになるでしょう。
神様の愛によって自分が生かされたことを知れば、人の為を考えることができるよ
うになるからです。
宗教戦争は、創造主である神様に対する理解不足からくるものです。神様の愛を正
しく理解することこそが、真の世界平和をもたらすでしょう。

いまの子供たちは、真理を求めています。相対的な価値観や損得勘定では納得しま
せん。神様の愛という絶対的な価値観の提示がこれからは必要です。また、大人も同
様です。大人にとっても神様の愛を学ぶことは非常に有益です。
政教分離ということがいわれますが、特定の宗教や宗派に偏ることなく、自然や人
間を創造された神様の愛を科学に基づいて説き、道徳に結びつけることは、可能であ
ると考えます。

ブッダも、神の啓示によって、仏教の教えをひろめ始めたと聞きました。

ぜひどうぞ、ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

<住所氏名削除>

神の実在を証明し、神の愛と心情を伝えるサイト
http://member.nifty.ne.jp/mru/go/

《編集者より》
エホバの証人と直接関係ありませんが、全く同じ問題はエホバの証人についても言えるので掲載しました。この問題はキリスト教国のアメリカでも問題になっています。まず、あなたの言う「教育」が公立学校での教育を意味するのであれば、これは問題があります。神を信じたくない人、別の神を信じる人の自由を奪うことになるからです。しかし、家庭内や私立の学校でこれを行なうことは問題なく、実際に広範に行なわれており、仏教やイスラムでも同じ事が行なわれていると思います。

進化論と創造主を信じる信仰との関係ですが、これは非常に複雑で長い議論になりますのでここでは控えます。ここでは、宗教は科学の知見を取り入れながら、歴史的に徐々に変革してきたことを指摘したいと思います。それは、ものみの塔の教えではないですが、「光が増し加わり」今までに見えなかったものが見えてきたのです。一世紀当時の聖書の時代の「世界」は地中海沿岸と中東だけでした。その後アメリカ大陸やアジアなどが見つかって世界観が大きく変わりました。地球が平らでなく球であることがわかった時にも、宗教は大きな変革を迫られました。何よりも大きな衝撃は、神が創ったはずのこの世界は、何と広大な宇宙の中のほんの小惑星に過ぎなかったことです。それはお釈迦様の手のひらにいることに気が付いた孫悟空の心境にも似ています。それでも、宗教は聖書のある部分を象徴的に解釈しながら、なんとか新しい科学の知見を取り入れてきました。ものみの塔協会がやるように、「一日」の長さをとんでもない長い時間に解釈させて切り抜けるのも一つのやり方でしょう。私はそのようにして、科学の知見を取り入れながら聖書の解釈を文字通りの解釈から象徴的解釈に変えながら、宗教の信仰を保ち続けることは良いことだと思っております。従ってその意味では、あなたの言う「創造主である神様の愛」を教えることには反対しません。

しかし、ものみの塔の教えるように、もし科学の知見が自分たちの聖書解釈では説明できなくなると、科学を「世の知恵」として攻撃するとしたら、それは誤った教育、本末転倒の教育であると考えます。その意味で、ものみの塔や一部の原理主義キリスト教の、生命と進化の科学に対する攻撃に対しては、その間違いを指摘する教育も是非進めなければならないと考えています。