「エホバの証人やめれ」―「エホバ」の名前について

(2-19-02)


「エホバの証人やめれ」

この故に汝らは斯く祈れ。「天にいます我らの父よ、願わくは、御名の崇められん事
を。
(マタイ福音書六章九節)

 イエスの父である唯一真の神のお名前は“ヤハウェ”ないし“ヤーベ”であるとい
うのが今日的理解であり、“エホバ”は誤読であったことが分かっています。これは
学者の共通した意見であるし、ものみの塔協会自身それを事実とし認めています。
 それにもかかわらず、協会はこの点、「“エホバ”という呼び名を“ヤハウェ”に
変更するのなら、“イエス”を“イエスース”、“エレミヤ”を“イルミヤフー”に
変更しないと一貫しないがそこまでするには及ばず、また“エホバ”の名前だけ特別
扱いしその他は従来通りとするならば『二重の基準』を用いることとなりかえって妥
当ではない」また「“エホバ”は誤読ではあるが、神のお名前の(厳密な意味での)
正確な読み方は未だ定説がない」と主張し、神を“エホバ”と呼び続けています。
しかし、これは神の御名を用いる事を専売特許としているその組織の態度としては
「矛盾している」と言わざるを得ないでしょう。

 確かに、神の御名を“エホバ”と信じ誰も疑うことがなかった時代であれば神の御
名を“エホバ”であると広く知らせることの過ちは非難されるほどのことではありま
せん。しかし、それが誤読であると認識してなお固執し続ける場合は違ってきます。
いよいよ非難されてもやむをえません。
 つまり、こういうことです。たとえば「笑子」の正しい発音が分からない場合、こ
れを「えみこ」と読んだり「しょうこ」と読んだりするかもしれません。正しい読み
を知らないなら間違った名で呼び続けることもあるでしょうが、正しい読みを知りた
いと思うでしょうし、また間違った呼び方をしていたことに気づいたなら直ちにそれ
を正すでしょう。正しい呼び名を知っていながらあえて間違えた呼び方を続けるなら
ば、それは「笑子」さんに対する侮辱です。そのような人格を無視した態度は人を小
ばかにしたものであり礼を失したものです。それが神のお名前であるなら、どうで
しょう。言うに及びません。実際、ものみの塔さえ参照資料付新世界訳聖書の序文
(6頁)で、「・・・その方の、神としての独特のみ名を省略したり、隠したりする
ことは、その方の威光また権威に対する非常な不敬、まさに侮辱の行為となります」
と認めています。

 もちろん、神のお名前は言い伝えられてこなかったために“エホバ”という呼び名
が永年用いられ定着している現実があります。もはや本名を用いることに意味がない
どころかかえって混乱を招くというのであるなら、定着した“エホバ”を「愛称」ま
たは「通り名」として用い続けることの方が優れているといえなくもありません。そ
してこれがものみの塔の論法でもあります。
 しかし、“エホバ”を「通り名」としてすることさえ出来ないと考えられます。

「それでもモーセは神に言った、「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って、
『あなた方の父祖の神がわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても、『そ
の方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば、わたしはこれに何と言えばよいで
しょうか」。すると神はモーセに言われた、「わたしは自分がなるところのものとな
る」。そしてさらに言われた、「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わ
たしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。そののち神はもう
一度モーセに言われた、「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなた方
の父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神エホバがわたしをあなた方の
もとに遣わされた』。これは定めのない時に至るわたしの名、代々にわたるわたしの
記念である。
(出エジプト3:13-15 NWT)

 神ご自身その御名を「代々にわたるわたしの記念」とされた以上、人の都合でその
「記念」を粉飾したりはできないでしょう。このモーセに明かされた記念の名は一体
どのような発音だったのでしょうか。

 以上のように、神のお名前は預言者やその他の人間のそれとは違い神聖なもので、
特別に扱われて問題ないどころかそうすべきものです。ですから、神の御名の正しい
読みが“ヤハウェ”であると確信しているなら、二重の基準を取り入れ、イエス以下
その他は従来通りの通り名のままでかまわないも、神のお名前は“エホバ”から“ヤ
ハウェ”に呼び替えなければならないと私は考えます。
 これに対し、「神がお用いになる地上における目に見える組織」であるものみの塔
は、神の御名を“エホバ”とし自らを“エホバの証人”と名乗り、変えようとしませ
ん。もし、ものみの塔が唯一地上で神を代表している組織であり、その方の神聖なお
名前を最も重視する組織であるのならその姿勢を一貫させ、崩すべきではないでしょ
う。

 ものみの塔の集会で何遍この祈りが捧げられたことでしょうか。

「そこで、あなた方はこのように祈らなければなりません。
「『天におられるわたしたちの父よ、あなたのお名前が神聖なものとされますよう
に。
(マタイ6:9NWT)

                                      
    文責:insight


《編集者より》
エホバの証人が「エホバ」の名を使うことは、自分たちの神が、たとえ聖書に基づいていても、他のキリスト教の神とは違う自分たち特有の神であるという潜在的な意識を信者の間に植え付ける効果を上げていると、私は思います。もちろんエホバの証人も神という言葉は使いますが、実際に自分たちと直接関係を持つ神として呼ぶ時はほとんど「エホバ」と呼びます。この時には「エホバ」と呼ばれた神には、他のキリスト教世界が崇拝する宇宙全体の神と同一という意識よりも、自分たち「エホバの組織」の神という意識が支配していると思います。それは丁度、「エホバ」が古代イスラエルの部族の選ばれた民の神として存在していた時と似ていると思います。イエス・キリストとパウロの後、この神は世界中のイスラエル以外の様々な民族の共通の神となりました。イスラエルの古代の言語であった神の名前が自然に使われなくなったのは当然でしょう。これに逆行して一つの名前に固執して自分たちの神を意識の中でより分ける態度は、古代民族の土着宗教に近い心理状態、そしてこれは現代のカルトに共通する閉鎖集団の心理状態を高揚するのに役立っていると思います。


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