(1-29-02)
一部の若い人(一部の大人)が、世の中の流行に倣って(附和雷同のように)髪を染めて いることに、私はつまずきます。 こんな私は狭量でしょうか? 私の見方は狭すぎますか? では、仮にそういうことにしておきましょう。 しかしながら、クリスチャンであるからには、人をつまずかせることは避けるべきではな いでしょうか? ある兄弟姉妹はつまずかないことでも、私はつまずくことがあります。 私がつまずかないことでも、別の兄弟姉妹がつまずくことがあります。 人がつまずくのはなぜでしょうか。 それは、聖書によって訓練されてきた良心が反応し、一種の警告(警報)を発するからで はないでしょうか。 人間が完全でないことは当たり前です。 しかし、そのことが人をつまずかせて良い理由にはなりません。 私は、もし自分の言動がだれかをつまずかせているなら、他の人の良心に配慮し、襟を正 して自分を変えていこうと思っています。 それは、クリスチャンである私が当然なすべきことです。 P.S. クリスチャンは世の中に迎合することは避ける必要がある、ということをここに付 記しておきます。
《編集者より》
これは「最近のエホバの証人の服装・身繕いについて−現役2世より」に対する意見だと思います。人がある事を体験して(この例では髪の毛を染めたのを見て)つまずくかつまずかないかは、人によって違うでしょう。私は髪の毛の染めたのを見て、それに違和感を覚えることはこの前書いた通りですが、それで「つまずき」はしません。あなたはつまずきを「聖書によって訓練されてきた良心が反応し、一種の警告(警報)」と考えておられますが、そうであれば人によって良心が異なり、警告の発し方も人によって異なるのは当然ではないでしょうか。私は毛染めをしてはいいかいけないかはどこにも聖書に書かれてはいないと思いますので、違和感は覚えてもそれは聖書とは何の関係もありません。あなたは誰かがある種の身繕いでつまずくのであれば、それはやめなければいけないと考えるのでしょうか。もしあなたが髪の毛を染めたのを見てつまずくから、全ての人が髪の毛を染めることをやめなければいけなくなったら、その結果はどうなるか考えたことがありますか。ほとんど全てのことを禁じる口実になるでしょう。実際これが、エホバの証人の社会の無数の「禁制」の原動力になっています。
一般に女性の化粧を考えてみましょう。女性の化粧の多くの部分は性的魅力を引き立てるために行われます。私があなたの口紅を見て、「あなたが口紅をつけることは性的刺激があり私をつまずかせる」と言ったら、女性の口紅を全て禁止しなければならないでしょうか。あなたの論理で行けば、私が「あなたの香水も、スカートの長さも全て性的刺激を与えるからつまずきになる」と言えば、あなたは女性としての化粧も止めて、スカートも長いものしか着られなくなるかもしれません。実際アフガニスタンのようなイスラム教の国では女性の顔を見せることさえつまずきになるから、女性が顔を隠さずに外出することは禁止されています。あなたはそのような、あれもいけない、これもいけないという、禁制づくめで縛られることがクリスチャンの生き方と考えますか。エホバの証人であれば、あなたの答えは「はい」でしょう。しかし、私はそうは思いません。イエスは女性を少しでも色情の気持ちで見ればそれで罪を犯したことになると言っています。それはいかに人間の作った禁制を守るだけでは、罪を避けることが不可能であるかを教えるたとえ話であると思います。たとえあなたが口紅も香水もミニカートも全て禁止しても、それでつまずきがなくなるわけではありません。次には私はあなたの長い髪に性的魅力を感じるかもしれません。イエスの上の聖書の教えでは私はそれで罪を犯すことになりますから、あなたの髪の毛の長さはつまずきです。あなたは尼さんのように丸坊主にすべきです。次はあなたの首筋かもしれませんし、かかとかも知れません。このような禁制で人を縛る社会は限りなくエスカレートし、最後は女性は頭から足まで黒い布で隠さなければならなくなるでしょう。
それではなぜ唇を染めること(口紅)はつまずきでなく、髪の毛を染めることはあなたにとってつまずきなのでしょう。私はそれは、あなたが口紅をつけることには社会習慣として慣れているのに対し、毛染めは社会一般に受け入れられていないために、私と同じようにそれに違和感を覚えるからではないでしょうか。つまり、あなたは知らないうちに社会習慣に基づいて何がつまずきか、つまずきでないかを判断しているのです。あなたは、「クリスチャンは世の中に迎合することは避ける必要がある」と言っていますが、実際に口紅をつけて香水をつけ、髪の毛を伸ばして性的アピールを増長してもつまずきと感じないのは、あなたがまさしく世の中のこのような社会習慣に迎合しているからではないでしょうか。それが証拠にあなたがアフガニスタンに生まれて育ったら、女性として頭から足までかくさなければつまずきと感じることでしょう。これも単に社会習慣の違いから来る感じ方の違いで、それが「迎合」ならあなたも「迎合」していることになるのではないですか。