「聖書の引用句を用いて論じてください!」

(1-20-02)

私が知らない又は知らなくてもよい事があれこれと記載されてますけど根拠
となる聖書の引用句を論じてその適用がどのように間違いか指摘すれば単な
る批判では無くなると思います。

《編集者より》
エホバの証人は、何でも聖書の引用句と関連付けて説明をされると納得するが、聖書の引用句がないと納得しないという訓練を受けています。あなたの質問はその態度の典型であると思います。しかし、私はその事自体に問題があると思います。たとえば、あなたのようなエホバの証人が実際に生きるか死ぬかを決定する輸血拒否についても、血液の「主要成分」は受けないが「細かい成分」は受けつけてもよいという、現在の組織の方針は、聖書の引用句なしに論じられています。もちろん「血を避ける」ことに関する聖書の引用句は使徒の15章を初めとして論じられていますが、「主要成分とそれ以外の成分」、つまり真に受け付けていけないものと受け付けてよいものという決定的な区別、その区別によって誰が生きるか誰が死ぬかの決定をされる生死を分ける区別、が聖書の引用句なしに行われているのです。問題は、ものみの塔の大事な方針が聖書に基づくのではなく、統治体の頭の中で作り上げた「聖書理解」によっていることです。このような例は数限りなくあります。今の国連が「緋色の野獣」であることは、啓示の書の引用句を使って論じてありますが、そこには「国連」の言葉も言及もありません。いくら引用したところで、最終的に「根拠」となるのは統治体の「聖書理解」によるもので、他の人がいくら聖書を読んでもそこに「国連」を読み取ることはできません。だからこそ、聖書に書かれたことに全く変化がないのに、それを引用して作られた教義はどんどん統治体の気分によって変わっていきます。

私はこれは、聖書を単に利用して、実際は自分たちの目的を実現させようとしているでけのことだと思います。臓器移植や予防接種を聖句に基づいて禁止していましたが、それらの医療行為が医療の中で重要な役割を持つようになると、それを撤回して、今度は輸血拒否に転じ、そのために使徒の15章の聖句を利用しているだけです。そして、今度は血液の成分療法が普及してくると、時代に合わせて、自分たちの都合の良いように方針を変え、そんなことはどこにも聖書に書いていないのに、またまた使徒15章を引用して「細かい成分」は受け付けてよいと決めているのです。

私はこのような聖書や聖句の悪用を見習って、自分の目的達成のために聖書の引用句をこじつけることはしたくありません。もちろん、聖書に実際に書かれている事実が問題になっている場合には、聖書の引用句を使って論じることは今後も続けたいと思います。しかしそれよりもむしろ私があなたに訴えたいのは、聖書の引用句を使われると聖書に書いてないことまで、いつのまにか煙に巻かれて納得してしまうという、あなたがたエホバの証人の心理状態の根本的な問題なのです。