大好きなエホバの証人への手紙(登場人物の名前は架空)、公開希望

(1-11-02)

 こんにちは。お元気にお過ごしでしょうか?そうであれば良いのですが・・・、昨
年、私は、ある意味、あなたの「個人の尊厳」を侵害する可能性を含む内容の、私の
率直な考えをお伝えさせていただきました。特に輸血に関しては、随分、私なりには
どうしようか悩みましたが、あえて、最大に嫌われてしまうことを覚悟のうえでお伝
えさせていただきました。あなたを不愉快にさせるつもりなど毛頭ありませんでし
た。ただ、私が望んだのは、何よりも大好きなあなたの心に「輸血」に関してもう一
度、冷静に考えてみようとするためのきっかけを生じさせたかった、ただ、それだけ
です。神の存在や聖書自体を否定するつもりなど全くありませんでした。神の存在は
私も昔から確信しているところです。よく、眠る前に、「明日も家族みんなが元気に
過ごせますように、神様よろしくお願い致します」と祈ります。本当は、「全世界が
はやく幸福に包まれますように」とそちらを真っ先に願うべきなのでしょうが、まだ
そこまで私は人間が出来てはいないようです。
 もし、神様の存在を信じつづけていなかったのであれば、いまごろは自分も世間の
大多数の人々と同様、「偽の快楽」に心を奪われてしまい、お金のためなら精神を売
り払ってしまうような、およそ「人間」とは呼べぬ存在になっていたのかもしれませ
ん。
 鈴木さん、お願いです、心からお願いします。一度、何ものにも拘束されていない
真っ白な状態(小学校三年生よりも前の自分の気持に帰って)で、自分自身の思考を
働かせて、聖書図書館や大書店を利用して、「客観的にみて真実である可能性の高い
資料」多数にあたって、自分の信じていることの全貌を明らかにしてみてください。
 なぜ、その必要性があるのかを述べます。
 考えてみてください、人は自分自身がどのようなものであるのかということを、自
分自身の心を「鏡」にするだけでは正確に知ることは出来ません。多くの他人の中に
混じって、他人から良い意味での刺激を受けたり、他人を観察したりするこによって
のみ、人は「人間らしさ」を獲得しうるのであり、また、他人をも「鏡」とすること
で自分の長所と短所が明白になるものなのだと、少なくとも私にはそう思われます。
 ところが、この点、ものみの塔はどうでしょう。塔出版物等以外のものに接するこ
とに関してはあまり肯定的ではないことが、集会・大会・書籍などの内容から総合的
に判断して明らかなように思われます。
 たしかに、霊性にとって消極的な影響をもたらしうるものも世の中には無数に存在
するのは事実です。
 しかし、個人の人格的発展に不可欠で有用な情報が、書店・図書館等に存在してい
るのもまた事実です。
 したがって、この点に関してはものみの塔の姿勢に対して、残念ながら完全な賛成
はできません。もっと端的に言えば、あたかもこの世の学術、文芸等を無価値視して
いるように感じられる姿勢に関しては単純に受け入れることなど出来はしない、とい
うことです。
 ところで、少なくとも私には統治体はただの人間の集合のように思われます。
 したがって、間違えた聖書解釈をしても無理はありません。実際に、「終わりの
日」に関しての解釈が幾度か不実現(より正確には、解釈による年代が神の予定され
ている時とは不一致)に終わったことは証人の多くが知るところでしょう。
 さて、鈴木さんもこれは理解していることでしょうが、何もエホバの証人だけが平
和を望んでいるわけではないし、たとえエホバの証人とは異なった方法であっても、
自分を犠牲にしているなどとはこれっぽちも考えることのない謙虚さをもって、難民
キャンプなどで、ほぼ無償で、真に自発的に医療活動等に従事している人々が、大勢
います。
 この人たちは、平和を望んでいる点においては、エホバの証人と共通するものがあ
るのではないでしょうか。
 それとも、この人たちは、自己満足のために活動に携わっているのでしょうか。少
なくとも私にはそうは考えることは出来ませんし。たいした生き方をよく自発的に選
択したものだと思い感心してしまいます。臆病な私にはとても出来そうにないこと
だ、そんなふうにさえ思うこともあります。
 鈴木さんはどう思いますか?

 たしかに、何を信じるのか、その選択は個人に委ねられており、また、それに口を
さし挟む何の権限も私にはない以上、何も意見するべきではないのでは・・・いつ
も、そうは考えつつも、・・・しかし、真剣に自分が好きになった人が最も大切にし
ている「信仰」であればこそ、その内容につき、私にとって考えられうる精一杯の方
法で調べたうえで「正確なことであると判断できたこと」を知っておいて欲しかっ
た。好きな人であるがゆえ正しい道を歩みつづけてもらいたい。だからこそ、操作の
加わった知識ではなく「正確な知識」を受けとめ理解してもらいたかった。
 理解してから、受け入れる、受け入れないの選択をすれば良いのですから。いくら
正しいと思われることであっても、無批判に信じ込む、または信じ込もうとすること
は正しい思考の在り方のように思われません。よく直感的に、などといいますがこれ
ほどあてにならないものは、ないように思われてなりません。なぜなら、直感が「錯
覚」であることや、自己の考えを正当化するための、単なる道具として無意識的に用
いられることがよくあるからです。
 とはいえ、もちろん、そのように遠回しに意見することも、回を重ねるうちに、君
の中に、どうして、この人は無神経にも私の心の中に立ち入ろうとしてくるのかしら
と思い始め、私を不可解な奴だと固定して捉え、さらには、嫌悪と恐怖の感情をも生
み出してしまうことがありうるのであるから、君に少しでも好きになってもらいたい
私としては、とても厳しい選択でした。でも、どうしても、「限られた時間」の中で
正確なことを伝えておきたかった。きつい内容のことを言ったかもしれませんが、そ
の中に込められた私のあなたに対する真剣で純粋な愛を汲み取ってください。

 ここで、話を少し変えますが、あなたにとって、私は変な人でしかなかったのかも
しれませんが、私にとっては、あなたは不思議な透明感に包まれた人でした。多くの
人が失ってしまった「正常な感覚」が君の中には確実に生き続けており、お金などで
は買えない本当に大切なものが何であるかを鈴木さんは理解し大切にし続けているよ
うに思えました。そんな姿が心に痛いほどでした。質素ながらもいつもバランスのと
れた装い、華美ではないけれど、お花のように美しかった。どんなお花よりも誰より
も世界で一番美しかった。見栄などはることがなく、いつも、同じサザビーのバッグ
で、底が擦り切れても大切にしているところがとても素敵でした。意思のつよそうな
瞳をみていると、このまま時が止まっても惜しくはないそんな気持ちにさえなりまし
た。あなたを見つめつつ、そんなに見つめていては失礼になるとの理解があっても、
どうしても、見つめ続けていたかった。いつも夢をみているようで、少しでも長く鈴
木さんの側に居たかった。
 鈴木さんの言っていたことで一番、私の心を揺さぶり、また、それが鈴木さんを好
きになった理由のひとつでもある言葉は、経堂局の食堂での話です。私が「鈴木さん
にとって幸福だなーと感じるのはどんな時ですか」とたずねたのに対して、「いま、
こうしていられること、お昼もこうしてちゃんと食べられているし・・・こうしてい
られることが・・・」という言葉でした。
 私は、正直に言って感動しました。あの言葉をきいた瞬間、私は鈴木さんに心を奪
われてしまいました。自分がとてもちっぽけな人間なんだということを再自覚させら
れ、「なんとも無欲で美しい考え方の出来る人なのであろうかこの人は」、ああ、素
晴らしい!!そんなふうに大声で叫びたいほど、あなたという人がただ目の前に座っ
ているだけで嬉しく幸せでなりませんでした。
 どうしても、もっと、深くお話がしてみたい、もっと鈴木さんのことを知りたい、
そんなふうに強くつよく思われて仕方がありませんでした。何としてでもこの人と友
達にならねば、まさにこの人こそ私の探している人なんだそう思いました。
 その結果、経堂局の帰り、そんなことを女の人に言うのは初めてでしたが「鈴木さ
んは男の人に電話番号を教えたりしませんよね」、などと言ってしまいました。失礼
なことだとは思いました。しかし、このまま二度と会えなくなるなんて絶対に嫌だ、
死ぬほど嫌だ、幼稚にもそんな風に思いました。あのときは、緊張しているのを悟ら
れたくないのと、あまりにも私が深刻な様子にみえるとかえって鈴木さんがひいてし
まわないか、などと思い、突拍子もなくあのような聞き方になってしまいました。
 鈴木さんといつでも会える、例えば同じ学校の生徒どうし、同じ会社の社員といっ
た環境にいたのであれば、もっとゆっくりと人間性を知ってから、また私のことも
知ってもらってからでないと、電話番号をきいたり、教えたりだとか、鈴木さんが大
切にしている事についての立ち入った話なども決してすることはなかったことでしょ
う。しかし、実際には時間はありませんでした…
 これほど大切に一人の人間としてのあなたに、純粋に興味を抱いていたにもかかわ
らず、キャンペーンの場で、私はいつもあなたの側では不自然でした。わざと不必要
に明るく振る舞ってみたり、わざとよそよそしく振る舞ってみたり・・・、
 でも本当は、あなたには、私が静かに考えごとをしている姿や本を読んでいる様
子、また、勉強に没頭しているところ、そんな自分をみてもらいたかった。なぜな
ら、それが「私の好きな私の有るべき姿」であり、またそうしていられる瞬間を自分
は幸福だと感じ、愛しているのだから。
 あのようなカード営業の現場における私は、ある意味、いつも、演じられた者であ
り、いわば、フィクションであるとさえいえるほど、「真の私」とはかけ離れた世界
に住むあまり好きにはなれないタイプの「人」でした。さぞ周りから見れば、異常に
明るく、大きな声で、いつも元気に振る舞っている姿は、こいつは馬鹿かと思われる
ものであったことでしょう。
 営業としてアルバイトをしている以上、俳優と同様、いつも好きなタイプを演じて
いるわけにはいきません。ああ、こんなことつまらない、無意味だと思う気持が強け
れば強いほど、より一層に、その本心を消すための、営業が成立するための、つま
り、郵貯利用者うけするキャラクターを演じる必要性があったわけです。
  私は、あんな奴は大嫌いです。軽薄な感じでお調子者で、思ってもいないことを誉
めてみたり、全く嘘つきです。あんな私は私の外見を借りた人間に値しない屑です。
そんな姿を、大好きな鈴木さんに見られているのが、いつも、心の中で辛かった。
 鈴木さんは自分がしているカード営業に意味を感じられず辛くはなかったですか?
 恐らく、辛かったであろうと思われます。
 もっとも、誰とのペアか、どこの局かでまた違ったキャラクターが演じられていた
わけですが。比較的本当の自分に近い私は経堂局の食堂に居た私や、梅が丘で、朝、
初めて会ったときの、やや人間嫌いっぽい無愛想な表情をした私なのかもしれませ
ん。
 あのとき、鈴木さんは私のこと、「悪い意味での変な人」だなとおもいましたか?
 そうではないように私には感じられましたが、それは、私の思い込みですか?
 誰かと接して、「単に変だと思うの」は自分とは違う者に接していれば当然のこと
であり、逆にそう感じなければ、自分と他人が同一人物ではない以上おかしいとも言
えるのではないか、そんなふうに私は考えておりますが、この点、鈴木さんはどのよ
うに考えますか?
 君は私が最期に会いに行ったとき、梶ヶ谷駅で「だからみんなに「変」だと言われ
るんですよ」と言っていましたが、私は、鈴木さん以外のメンバーには少し冷たいと
ころも(といってもそれが私の人間一般に対する標準的接し方なのであり、鈴木さん
に対してが特別・例外であったのだと思いますが)あったので、…ほら、鈴木さん、
世田谷局に実川さんと三人で入ったときのこと覚えていますか、鈴木さんは、「実川
さんにもトイレの場所を教えてあげて下さい」と言ってちょっと怒っていましたよ
ね。そう言われて、私はそんなに差別的に扱っているのかな、とずっと気にしていま
した。それから、楽しく、明るい振る舞える五十嵐さんと三人で、遠くの局に入った
日のこと覚えていますか?あの日のお昼、本当は、一人ずつ行くのが公平で誰ひとり
傷つかなくていいとは分っていたのだけれど、五十嵐さんと私は、何度も一緒になっ
てお互い気楽によく話していたこともあって、また、五十嵐さんは、自分は嘘を付か
ないと自分で言い切れるほどの人だとも知っていたから、彼女には私が鈴木さんのこ
とをどんな風に好きでいるのかなどについてかなり細かく話ていたこともあって、彼
女が、自らの意思で私に気を使ってくれてのことなのですよ。彼女には悪いなと思い
つつも鈴木さんと二人で、少しでもキャンペーン以外の空間で話がしたかった私は、
「いえ、一人ずつ行きましょう」とは言えませんでした。結局、五十嵐さんの「私は
あとの方がいいから先に二人で行って」との言葉に甘えてしまいました。鈴木さんは
あの時もやはり怒っているようでした。私も良心が痛みました。いくら、五十嵐さん
が自発的に気を利かしてくれたとはいえ、鈴木さんが五十嵐さんのことを気にかけて
いる表情を見ていると、私は自分に対して卑怯な奴だな、とも思いました。やはり、
幾分、冷たかったように思います。いくら鈴木さんのことが好きだからと言って他の
人に少しでも辛い思いをさせてしまったことは間違いであったような気がします。
 この様なことが鈴木さん以外のメンバーの一部の気に障って、私に隠れたところで
の私に対する「変な人」のレッテル貼りを助長したのかもしれません。
 とは言っても、これは私の推測にすぎないわけですが、もしそうであるとすれば、
理由の如何を問わず、愚かな行為であるように思われます。何か気に入らなければ、
本人に向かって言えばすむのであり、隠れて個人の価値を減じる方向の話をすること
は私の最も嫌うところです。
 隠れてする場合であっても、人をプラス評価する噂はよいことですが…陰口は、そ
れが、たとえ根拠のあることであっても、「間接的ないじめの構造」と何ら変りのな
い低俗な行いであると私は考えています。
 私は、相手に何らかの形で、きちんと、面と向かって、批判する「原因・理由」を
示したうえで、「陰口」ではなく「意見」として自分の考えを伝えることが出来る人
に対しては人間としての一定の価値を認めますが、そうでない人に対しては、人間と
しての存在価値さえ認めようとはしません。
 思うに、人に面と向かって直接言えないようなことは、その多くが感情に基づくこ
とにしかすぎず、全く論理的でない場合が多いわけです。感情的であるがゆえ、自分
たちの抱いた不愉快の原因をすべて相手の方に転嫁してしまうのであり、あいつは、
「変」だなどと言ってストレスを解消しているわけです。残念ながら、そのような行
為のベースには「私は正常だ」などという浅はかな、思慮を欠いた自己に対する過信
が多かれ少なかれ存在しています。人間関係が相互作用である以上一方のみが絶対的
に悪いなどということはほぼ皆無に等しいのですから。
 私の場合は、このような愚行を、未然かつ可及的に防止するために、「私の考え
方」はあくまでも「私個人の思考パターン」にすぎないのであって「他人の価値を計
るための物差」としての絶対基準などとして用いることなど出来ないものである、と
いう認識を維持しようと意識しています。そういう自覚が、私が他人を「変」だと決
め込むなどという思い込みを持つという愚かな行為をすることのないよう見守ってく
れているのです。
 ところで、君は、研修で御茶ノ水へ行く途中、以前、伊勢丹でのサティ展示会を見
に行ったと言っていましたね。そのエリック・サティも「変な人」だったらしいと
言っていましたが、それに対して私は、「でなければ芸術家ではなく普通の人になっ
てしまうでしょ」と言いました。
 「変」ということはよく言えば「個性的すぎる」ということであり、また、それは
お金では買えない価値でもあります。また、「常に」変でありつづけられるとすれば
それはある意味「才能」でさえあります。
 「常に」多くの人々とは異なった視点で世界を捉えられるということは、常にそれ
と同時代に存在する一般人レベルの感覚をも正確に理解していなければ出来ないこ
と。常にずれている状態を「維持」できるから「個性」なのであり、それが社会的・
経済的価値を生み出すときに限定して「才能」と呼んでいるわけであります。
 ようするに、「個性=常に変(特定時代の特定地域の多くの人における価値観に対し
てのずれが認められると言う意味で)」と「才能」の区別は「特定の社会」が勝手に
決定するものでありなんら絶対的なものではありません。
 思うに、「普通」と呼び表わされる人たちが一つの世界にしか生きることが出来な
いのと比較すると、「常に変で居られる人(個性又は才能があるとよばれるもの)」
は二つの世界を生きているのかもしれません。
 「変人」の多くは時代とのマッチングが上手く行かず「才人」と認められることな
く「その時代の多数派=ただの人(普通の人)」と比較した場合に、より苦難の道を
たどり死んで行きますが、死後にその特異な個性に対する積極的な評価が与えられる
こと(死後に才能と評価されること)があるのは、音楽家、画家、作家、学者、など
を考えてみれば明らかです。
 一般論として言えることは、今の世で正しいと思い込まれていることが未来におい
てもまた正しいなどという保証はなく、逆に言えば、今の世でおかしなことだと一般
に考えられていることが将来においては標準となることがありうるということであ
る。
 そのことは、歴史をみれば明らかです。
 君には、二度と誰に対してであっても「変」などと言う視野の狭さを感じさせる言
葉を使って欲しくありません。大好きな人にだからこそ、あえて、言っておきます。
どうしても使う場合には、私にとっては、という限定を加えることが、自分の「無能
さ」をさらけ出さないための「知恵」であり、同時に、そうすることが「相手に対し
ては思いやり」になります。
 私は、君が何を信じていようと君を少しも「変な人」だなどと考えていませんし、
又、ちらりと思ったことさえありません。ただ、そうか、そういう考えなんだ、と
か、そういうことを信じているんだ、などと客観的にそう感じるだけです。それは良
いことだ、悪いことだなどという判断はしていません。そのような評価づけは私のす
ることではありませんし、出来もしません。それだけに、君が「変な人」という単純
な言葉で私を評したことに関しては、底知れずの寒さと君に対する部分的な失望を感
じずにはいられませんでした。

 さて、長くなってしまいました。このあたりで締めくくります。伝道での訪問先な
どで君がきつい言葉を投げかけられたりしても傷つくことのないように心から祈って
おります。同時多発テロの影響で宗教一般に対する風当たりが強いことでしょうが、
つよく乗り切って下さい。
 数年後、きっとまた会いましょう。私は精神的に大きく進歩していることでしょ
う。その時には、もはや君を精神面では必要としていない可能性もありますが、これ
までに一番に好きになった人は どんな人でしたか、と尋ねられれば、間髪入れず
「鈴木理佐」さんという本当に心の美しい人でした」と、3年、5年、…10年後で
あっても即答していることでしょう。
 今度会うときは、まず第一に「人として」、会ってください。私は、そのときに
は、暖かみに欠ける家庭や、経済的に恵まれない環境に生まれ、脇道へそれてしまっ
た青少年の心の代弁者となれるような敷居の低い、気さくな、誰にでも話し掛けても
らい易い庶民派の弁護士(ある意味、才人)としての日々を送りつつ、又、臨床心理
学をも学んでいることでしょう。
 これに対して、鈴木さんは、お花の世界できっと有名人になっていることでしょ
う。世界が「才能」を放ってはおきませんから。きっとそうなりますよ。私は個性的
すぎる人間ですから、「才能がある人」を見抜けるのです、昔から。
 お金ではなく、自分らしさをフルに活かせるしあわせを感じて毎日を過ごせるよう
になれるよう、無理をせず、マイペースで、自分を他人と比較はせず、しかし他人の
長所は積極的に学び取り、自分の描いた理想の自分を追いかけ続けてください、それ
がきっと、多くの他人のしあわせにも繋がっている道なのでしょうから。
 人間は恐ろしく変化します。私は、自分自身をみていてそう思います。鈴木さん、
物事を大らかに(怠惰という意味ではない)考えることもときには大切だとは思いま
せんか?これは自分に対しての質問かつ戒めでもあります。
 お元気で、いつまでもなにがあっても・・・もし、万が一のことがあって(ないこ
とを願っておりますが、特別な人間はいないので何が起っても不思議ではない)、輸
血が必要なときには、私はA型で、全く汚染されていませんので、君の友達や御家族
の誰に対してでも、いつでも、提供させていただきます。忘れないで下さい。
それでは、いつもあなたが幸せでありますように…

《編集者より》
名前は架空ですが、多くの情報から、読む人が読めば個人を同定できるような手紙ですが、投稿者の希望により掲載しました。エホバの証人との恋愛に決着をつけるのに必要な一つの行動であったのであろうと推測します。