「雪」−創造論に関する質問−不良開拓者より

(1-3-02)

奉仕の時、巡回監督が雪の結晶の話をしました。
「雪の結晶はひとつひとつが違っていて、同じもようの結晶はない。
エホバの創造の独創性、巧みさが伺える。親はそのようなことをいつも
子供たちに話すべきだ」という話でした。

不意にそのときわたしの心の中で、いや違う! という叫びが起こりました。
どの雪の結晶もまったく同じ、寸分違わぬもようであるならたしかにそのように
設計されたものと仮説をたてることもできるでしょう。でも、雪の結晶は
「同じもようのものはない」と監督は言いました。協会の出版物にもそのように
書いてあります。(12/22/87 目ざめよ)1987年1月6日のニューヨーク・タイムズ
で「雪の結晶は驚くほど精緻な数学的法則に従っている」という記事があったそうです。
また霜も結晶を作る事があり、そのもようは雪の結晶に似ているそうです。
(11/22/94 目ざめよ)
「情報センター」に長年接してきたせいか、今ではこのように思えたのです。
つまり、自然世界にはもともと「精緻な数学的法則」を備えており、それが
雪の結晶や霜の結晶を形作るのではないか、と。自然の法則は「自然に」
「精緻な数学的法則」性を備えたもようを形作るしくみを持っているのではないかと
思えました。だからどの結晶も同じもようではないのだろうかと感じました。

では生命もそうなのでしょうか。
生命も高度なしくみを形作る自然の作用によって誕生したのでしょうか。
しかし生命については同じ種を形作るしくみになっています。
人間は同じような人間を生みます。
わたしはエホバの証人は、少数の人間が多数の信者を支配するカルト的宗教団体だと
確信していますが、生命の創造説についてはまだそれを支持してしまいます。

村本さんは創造、そして創造者についてどのようにお考えでしょうか・・。

《編集者より》
これは非常に深遠な質問で、簡単な答えでは全てを言い尽くすことは不可能ですが、それでもよく投げかけられる質問ですので、ここであなたと一緒に考えてみたいと思います。

まず、上の雪の結晶の例でも同じ事ですが、ものみの塔、そしていわゆる「創造論」を主張する人々が使う議論に、雪の結晶でもDNAの分子でも、これらが偶然でできる可能性はゼロだから、従って誰かが創造したに違いないという議論があります。そしてその証拠として雪の結晶も生体高分子も二度と同じものは出来ない、あるいは同じものが出来る確率はゼロに近いからという議論を使います。あなたも含めて多くの人々は、「それなら誰か特別の能力を持った者(神)が材料を集めて精密な設計をして作ったに違いない」という確信に至るのでしょう。しかし、日常の私たちの周りを見回せば、雪の結晶のように自然現象に限らず、私たちがやっていることで二度と同じ事が起こらないことはいくらでもあります。例えば、一メートル四方の白い紙と絵の具を用意して下さい。絵の具をたっぷり筆につけてそれを白い紙の上に細かく振りかけて下さい。きっと抽象画のような面白いパターンが出来るでしょう。次にもう一枚の紙を用意して、また絵の具を振りかけて下さい。きっと別のパターンが出来るでしょう。さあ、何度これを繰り返したら、あなたは最初に作ったパターンと全く同じものを作ることができるでしょうか。これはまず不可能なことです。同じように見えるパターンが出来たとしても、その紙を一ミリ四方の細かい区画に分けて(合計で一万区画)その中の絵の具のパターンを一つ一つ比較すれば、全てが一致することはまずありません。更に細かな区画を見れば、その確率は無限に小さくなります。

このように、神でなくとも、私たちは二度と同じものが出来ないようなことを何時でも行うことが出来ます。あなたの巡回監督の言葉を借りれば、エホバでなく「自分の創造の独創性、巧みさが伺える」ことになりますが、本当にそうでしょうか。別の例をあげましょう。私の住んでいる地域の動物園では、象が鼻に筆をもってキャンバスに絵の具を振りかけたりなすりつけたりして抽象画のような絵を描き、それが高く売れているそうです。この象の「創造物」はどれ一つとして同じではありません。このように見れば、象も人間もみなエホバと同じ「創造者」になれるのです。今、庭に散らばっている落ち葉のパターンを見ていますが、これだって、明日でも一年後でも10年前でも、決して全く同じパターンで一つ一つの同じ大きさと色の落ち葉が正確に同じ場所に落ちている確率はゼロに近いでしょう。「創造者」が毎日毎晩落ち葉を計画的に並べて同じようにならないようにしているのでしょうか。こう考えれば、全てこの世の中に起こっていることは、雪の結晶に限らず、絵の具のしぶきのパターンも、象の抽象画も、落ち葉の位置も、全て「創造者」にこじつけることはできますが、これは全て「偶然」の産物に過ぎません。

しかしこの説明ではどうしてたまたまこの地球上に生命ができ、人間が出来たのかは説明できていない、と創造論者は主張します。この主張は丁度、上の絵の具を紙に振りかける例で、次のような主張をするのに似ています。ある時紙の上に絵の具を振りかけたら人の顔に似たパターンが出来たとしましょう。それ以後何度絵の具を振りかけても決して全く同じパターンは出来ません。どうしてあの時に人の顔が見えたのだろう。これは偶然ではあり得ない、きっと超自然の力が働いたから、という議論がなりたちます。ここに「神懸り」あるいは「奇跡」を期待する人々の心理が働くのです。しかし、人の顔に見えた絵の具のパターンも、最初に作った無意味のパターンも、たとえば1978634回目に出来た別の無意味なパターンも、全て偶然で、同じ確率で再現が困難なのです。どうして1978634回目のパターンは奇跡でも神の創造でもなく、人の顔に似たパターンは奇跡で神の創造と感じるかというと、それを見る者がそのパターンに意味を感じるからです。そしてその意味が大きくなればなるほど、「神懸り度」も「奇跡度」も増すのです。地球上の生命も、人の存在も、その意味が大きければ大きいほど、偶然とは信じられなくなるのです。

現在この地球上に生命があり、人間がこのように住んでいると言う事実の裏には、恐らく無数の「無意味」な可能性が他の場所と時間の中で繰り返されたと私は思います。生体高分子の偶然の組み合わせは、何億回、何兆回繰り返されても、地球上での生存が可能でない限り、「無意味」であり消滅します。しかし無限に思える時間の中で無限に思える繰り返しを行う中で、たまたまこの地上に生存可能な組み合わせが出来たときに、それは「意味」をもち、その時にはそれが唯一の可能性となります。しかもその意味は自分たち人間にとって最も重要なものです。そのような唯一の意味ある可能性が、何億回、何兆回の可能性の中からただ一つ実現した、と考えると、奇跡とか神の創造とか考えたくなるのは自然でしょう。これが「創造者」信仰の起源であると私は思います。

これは丁度上の例を使えば、顔の形に見えるように飛び散った絵の具のパターンを再現することは不可能に思えても、これを何億回、何兆回と繰り返すとそのうち必ず再現されるのと似ています。私は「その確率は無限に小さくなる」と言いましたが、決して「その確率はゼロである」とは言いません。ただ人間の限られた力と時間に縛られた直感の中でこれを理解することはほとんど不可能であり、それはほとんど不可能に感じるのです。しかし人間の限られた時間と空間を越えた宇宙の開始からの無限に近い時間と宇宙全体の無限に近い空間では、このような無限に近い繰り返しの試行錯誤は可能であったと思います。

しかし、直感で日常の出来事から、これを理解することも出来ます。もう一つの「奇跡」、「神懸り」の例をあげましょう。最近のアメリカのパワーボール(日本の宝くじに相当するもの)は賞金額の増大と共に、販売数もますます増え、最近では一億ドル(130億円)の賞金を目指して人々がチケットを買っていますが、この一等賞(ジャックポットと言います)を獲得できる可能性は一枚のチケット(一ドル)について80億分の1と言われています。(一生のうちに雷に打たれて死ぬ確率より小さいそうです。)もしあなたが今日一枚のチケットを買って、それが一等賞に当たったら、これは奇跡に近いと感じるのも無理はないでしょう。しかし、この宝くじはほぼ三日おきに行われており、ジャックポットに当たる人はほぼ一ヶ月に一度は出ており、時々新聞やテレビで報道されています。このようなニュースを年に何回か聞きつづけていると、「ああまた奇跡が起こった」とあなたは感じるでしょうか。賭博に全く興味のない私にとっては、このニュースはなんの珍しいことでも奇跡でもなく、「ああまた成金が一人増えた」と感じるだけです。パワーボールは1から49の数字の書いてある49個の白いボールを5個並べ、1から42の数字が書いてある42個の赤いボールを1個組み合わせた数字を当てることにあります。この組み合わせは、絵の具を無作為に振りかけて作ったパターンと同じように、余りにも多くの可能性があるために、ある一人の人が一枚のチケットに賭けた組み合わせが出る可能性は無限に思えるほど小さいのです。しかし、毎回抽選が行われる度に、何らかの組み合わせが、同じような無限に小さい確率で出てきます。ほとんどの場合、そのような組み合わせはあなたにとって「無意味」な組み合わせであるために、無視され、奇跡とも神の力とも感じません。しかし、たまたま自分の賭けた組み合わせが出た場合には、それが自分にとって莫大な「意味」を持つがために、「奇跡」であり、「偶然を超えた絶対者の摂理」が感じられるのです。しかし、「奇跡」である組み合わせが出る確率と、「奇跡」でない組み合わせが出る確率は同じように80億分の一なのです。そして私のように賭博に関心の無い者にとっては、月に一回誰かがジャックポットに当たったとしても、「ああまたか」と感じるだけで、たとえ80億分の一の確率でも、何も不思議は感じません。それは私にとって、どんなに稀なことでも「意味」がないからです。

このような見方はこれまで科学者には理解できても、一般の人々には理解は困難でした。しかし、最近のコンピューターの進歩はこのような過程を実際に再現することを可能にしています。コンピューターは丁度宇宙の空間と時間のように、人間の直感を超越する数の試行を可能にします。上の絵の具を振り掛ける例に近いことはコンピューターの上で再現できるでしょう。その時には生命の誕生や生物の進化など直感で理解できないことも、一般の人の理解できるような形でシミュレートすることが出来るようになるかもしれません。同じようなことは、宇宙の誕生と進化に関して既に進んでいます。

最後に、それではこのような生命の誕生や進化に関する科学的な知見は私を無神論者にするかというと、そうではありません。今のものみの塔の教えるような人間の直感に訴える形で作り上げられた創造論は、おとぎ話として、丁度地球が平面であるという説と同じように、時間と共に誰も相手にしなくなるでしょう。しかし、そのことは、人の絶対者・創造者を求める心を変えることはできないでしょう。私は今後も、人間の神への志向は継続し、その志向は人間の心の健康にとって不可欠のものであり、今後も尊重されるべきであると思っております。