「『エホバの証人』の信者の方と話し合いをしました」

(9-30-01)


 こんにちは。福原和明と申します。(名前を出していただいて結構です)

 前回、「『エホバの証人輸血拒否訴訟』から考える患者の自己決定権」という私の
拙論を「読者の広場」にてご紹介いただき、ありがとうございました。
 おそらく、貴サイトから来ていただき、私の拙論をお読みいただいた方も多かった
と推察しております。その中のおひとりに、現役の「エホバの証人」の信者さんがい
らして、掲示板に私の意見に対して同意する部分があることをお知らせいただきまし
た。
 そこでひょっとしたら、「エホバの証人」の輸血に関する認識も違ってきているの
ではないかと考えまして、直接「エホバの証人」の信者さんと意見交換をしてみたく
なりました。
 7月の半ばから8月の半ばまで入院をしておりましたので、その間に伝道にみえら
れた方に家内がアポイントを取り、冊子「血はあなたの命をどのように救うことがで
きますか」を入手いたしました。
 9月2日に、対話は実現しました。話を聞きたがっているのが男である私というこ
とで、「エホバの証人」の信者さんもいつもお越しいただく女性ではなく、同じ会衆
の男性が私の自宅へお見えになりました。
 先方は「エホバの証人」の聖書である新世界訳を、私はいつも読んでいる新改訳聖
書を参照しながら、2時間半話し合いをさせていただきました。
 やはり争点は使徒訓令(使徒行伝15章29節)にある「すなわち、偶像に供えた物と、
血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けて
いれば、それで結構です。以上。」という記述に関してでした。
 私の主張は、クリスチャンであるならば、律法によらずにイエス=キリストを信仰
する事によって救われるのだから、使徒訓令は初期教会における異邦人伝道問題を解
決する妥協案として使徒ヤコブが提案したものであるということです。
 しかし、先方の答えは、「聖書は神の霊感によって書かれたものである(テモテへ
の手紙二3章16節)→血を避けることは再びクリスチャンに与えられたのである→聖
書を正しく解釈しているのは「エホバの証人」の統治体である」という典型的なもの
でした。さらに衝撃的だったのは、「輸血を受けることは淫行に等しい」と言われた
ことです。
 話し合いが終わって先方が帰られた後も、釈然としない、落胆にも似た気持が残り
ました。血液製剤や血の分画については、信者個人の良心基づいて受け入れる・受け
入れないの判断をしてもいいとのことですが、聖書が輸血を禁じているという教えそ
のものを、教団による生存権の剥奪だと私は考えているのです。しかし、「エホバの
証人」の信者の方は頑なでした。
 今回の話し合いで私が感じたことを文章にし、HPに掲載いたしました。結局、批
判的なものになってしまいましたが。

http://homepage1.nifty.com/revolt/jikoketteiken2.html

がURLございます。またトップページからリンクしている「ご意見・ご感想」に掲
示板に書き込みいただいた「エホバの証人」の信者さんのご意見を掲載しております。

http://homepage1.nifty.com/revolt/iken.kikensisou.html

がURLです。
 輸血拒否の教義と人権に関する考察は今後も引き続いて行うつもりでおります。ま
た、「エホバの証人」の信者の方と話し合いをするつもりでおりますので、進展があ
りましたらまたお便りさせていただきます。
それでは、これで失礼いたします。

《編集者より》
次回話す機会がありましたら、血液の分画一つ一つを取り上げ、それが良心に基づいて受け入れられるのかどうかを尋ね、次にその理由とそれが聖書とどう関係するのかについて、明確な回答を求めて下さい。たとえば、「血漿は良心に基づいて受け入れられないのに、血漿タンパク質は良心に基づいて受け入れられるのですね、それは聖書に基づいていますか?聖書にないことならそれは誰が決めたのでしょうか?聖書に書いていない規則に基づいて死んだ人々は本当にエホバの掟を守って死んだのでしょうか、それとも人間の規則に命を捧げただけなのでしょうか?」これに関してエホバの証人の方々に質問することは他にも沢山あります。エホバの証人と血の教えのウェブサイトを参照してください。


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