「9月16日の「ものみの塔」研究記事が教えていたことについて」−「真実を求めつづけたいエホバの証人」

(9-22-01)

 エフェソス4:13の「私たちは皆、信仰と神の子についての正確な知識との一致に達し、……キリ
ストの満ち満ちたさまに属する丈の高さに達するのです。」の適用を、あの記事では、信仰と知識
の点で「仲間のクリスチャンとの一致」を保つことを強調し、第一に「一致」を守るべきであると
繰り返していました。 そして、個人的な見解にこだわらず、忠実で思慮深い奴隷を通して啓示さ
れる真理に全き確信を置くことが、神のご意志であり、円熟への道であると示唆していました。
 でも、本当にあの聖句はそういうことを教えているのでしょうか。聖書的ではないことを聖書的
と教えていたらどうなるでしょう。、それを「真理」として受け入れる信者の一致は、神にとって
何の価値もありません。イスラム過激派だって、自分たちのしていることは神のご意志であると堅
く確信して一致しているのです。
 あの聖句が意味していた一致は、その前の節で言っている「人々の賜物」が正しく機能したとき
に、初めて可能になるのであり、やみくもに組織を是認するものでありません。クリスチャンの一
致には、「信仰と神の子についての、正確な知識との一致」がなければなりません。神の真意と一
致した信仰や知識が存在するとき、初めて信者はふさわしい仕方で一致し、キリストの丈の高さへ
成長することが可能になるわけでしょう。
 聖書が言っている「正確な知識」は、イコール統治体の解釈ではなく、神が本当に伝えているこ
と、つまり「神の真意」を意味しているのであり、私たちが神の真意を「宝を探すように真剣に探
し」、見出したとき、見出した分だけ、キリストの丈の高さへと成長する道が開け、一人一人の成
長が総合して、真の一致を生み出すことになるということでしょう。
 先入観を持つと、真実が見えなくなりますから、統治体の解釈は、一つの解釈として尊重し、本
当に聖書と調和しているときだけ、自分の信仰の糧とするのが正解だと思います。
 でも、私の場合、エホバの証人と出会えていなかったら、これほど聖書のことを知ることはでき
なかったし、知りたいという意欲も続かなかったと思います。組織と共に歩んだことにより、聖句
のネットワークのようなものが自然にできてきました。その教育力と、生き方を改善させる力は高
く評価しています。真実に深く感謝しています。ただ、組織の「あるべき居所」を超えた、僭越的
、偏重的教え方や線引き、あり方、官僚化、ベテルの特権階級づくり等々、そういう聖書と調和し
ていないものが蔓延していることも事実であり、結論として、「ここだけが神の組織である」と神
は言っておられないことを確信せざるを得ません。「あるべき居所」が守られている部分について
は、神に用いられていると思います。
 つまり、どこの教会でも、聖書と調和している部分については、部分的に神に用いられていると
思います。そして、信者を真剣に誠実に世話している人たちは、各人、それぞれが忠実で思慮深い
奴隷であり、イエス・キリストが到着されたときに明確に是認され、裁きが終わった時点で、新秩
序で、イエス・キリストの持ち物すべてを委ねられることになると確信しています。

《編集者より》
私はあなたのこの見方は、バランスのとれた見方として共感します。私も最近ものみの塔研究記事を読みながら、司会者からではなく、自分から夫々の文節に質問を投げかけてみます。そしてその答えを記事が教える参照成句ではなく、聖書の他の部分や協会の昔の出版物に当たって考えてみます。すると、研究記事とは異なった結論が出てくることをよく経験します。「研究記事」の「研究」はエホバのご意志の研究ではなく、やはり統治体の老人達の頭脳と思考経路の「研究」であることがよく体験できます。