「不良開拓者」を自称する方からの質問

(8-9-01)

こんにちは。このHPはずっと楽しみにしています。とても良質のHPです。
「読者の広場」は特に楽しみにしています。ここ一年ほどで読者の広場の内容はとても重厚で、深刻な内
容になってきました。より深く理解したいという気持ちから、いくつか質問があります。
私は決してエホバの証人の擁護派ではありません。証人ではありますが。不良開拓者です。なぜなら「静
かなる嵐」さんの指摘されたように、私は家の人と会話するより仲の良い姉妹と車の中でだべっている時
間の方が圧倒的に多い開拓者だからです。もちろん、その時間も報告の中にビシバシ入っています。では
質問です。

1)「物事をありのままに見たい証人」兄弟のコラムにあるように、科学では創造説の立証はできない、
とよく言われます。これは学校の物理の先生もそう言ってました。どうしてそうなのでしょうか。科学、
というのはいったいどういう物なのですか。どうして科学は創造者や創造を「肯定もしなければ否定もし
ない」というのですか。

2)広島会衆の事件についてです。
「事件簿」で金沢兄弟が「織田信次」に以前から睨まれていたと成城会衆の長谷川(個人的に知っていま
す。私は成城会衆の成員ではありませんでしたが、友人がそうでした。態度の大きい、嫌な人というのが
若い兄弟たちの当時の評判でした)から知らされていたとありました。結局、どういう理由で睨まれてい
たのでしょうか。織田信次がどういう理由で金沢兄弟を目の敵にするようになったのか、よく理解できな
いんです。そこはこうなっています。

金沢兄弟は1982年3月、海老名を見学した。その時友人の大越兄弟の世話で、べテルの昼食会に招待
された。大食堂で偶然、隣りに越し掛けたのは織田信次兄弟だった。
 「兄弟はどちらの方からおいでになりましたか」
 「北海道の広島からです」
 「北海道の出身ですか」
 「いいえ、任命で広島へ行きました」
 「ああそうですか。じゃ特開か何かで」
 「ええ、その時はそうでしたが今は降りてます。ところで兄弟はべテルでどんな奉仕をされてるんです
か。あっ、そういえば聞いたらよくなかったのですか(どうして?)」
 「いや〜、かまわないですよ。翻訳の仕事をしています」
 「それはお忙しいでしょう。早く新しい聖書が出るといいですね。大変じゃないですか。用語が変わっ
たところもありますし」
 「・・例えばどんなところですか」
 「たしか・・コリント第一9章27節の“打ちたたく”が“pummel”になってましたね」
 「詳しく調べているんですね。もとはどんな語でしたか」
 「え〜と、何でしたでしょうか」
 「ビート(beat)ですか」
 「いや確か、単なるbeatsではなかったと思いますが」(blowbeatがすぐ出てこなかった)
ここで大越兄弟がしきりに目で合図を送ってきた。「まずい、まずい」、彼の目はそう語っている。そこ
で話題を変えた。
 「そう言えば、どうやって日本語にするんだろう、と思うような表現がたくさんありますものね」
 「どういうところ、そう思いますか」
 「やはりヨブ記ですね。あそこは本当に大変だと思いますよ。日本語訳が出るのが楽しみですね」
この後、会話は途切れた。食事が終わって皆が席を立っても、織田信次兄弟は座ったまま押し黙ってじっ
と前を見つめ、何事か考え込んでいる様子であった。

大越兄弟は部屋に戻るとすかさず言った。
「あれはまずいよ」(これくらいのことでなぜ「まずい」のか、おそらく外部の人には分からないであろ
う;はい、分かりません。その理由が今どうしても知りたいのです、私。)
「どうして」
「彼を知らないの? べテル一の切れ者と言われてるんだよ」
「誰なの」
「織田兄弟の弟さんだよ」
「そうか」
大越兄弟によれば、織田信次に睨まれるとべテルにいるのは難しくなるとのことであった。

となっています。この会話の中のどこが織田信次を怒らせたのでしょうか。どこのところが織田の面子を
つぶしたのでしょうか。また、織田信次は今でもべテルでナンバーワンの切れ者として勢力を振るってい
るんですか。

3)「七転び八起き」さんの投稿で見た、「カルトか宗教か」という新書版の本、読みました。そこにこ
んな事が書いてありました。
☆172ページから。
 もちろん「世界の終わり」という考え方そのものは人間の歴史と同じくらい古い。宗教人類学者のエリ
アーデは、終末論とは人々に天変地異や事件や罪の連鎖から解き放たれるという希望を与えるものだと述
べた。「世界の終わり」は母親の子宮へ回帰する一表現でもある。誕生前の快適な状態を人は夢見る。
 また危機の時代の不安の核心は「終わり」が来ることに由来するのではなくて、「終わり」が見えてこ
ないところにこそある。カタストロフィーの「終わり」の後には事態は改善されると期待できるからだ。
「終わり」は不安の解消の表現なのだろう。
 精神病理学的にも、精神分裂病の症状のひとつとしての「世界没落体験」はよく知られている。この病
気が人類に全く存在しなければ、そもそも宗教というものも今のようなかたちでは存在していなかったと
思われる。

十分には意味が把握できないのですが、要するに終末論を特徴とする宗教は現実の苦労、困難から解放さ
れたいという願望から生じた、精神分裂病気味の妄想から派生してきたっていう意味ですか?
私は何かの書物の挿絵で見たように覚えているんですが、フロイドっていう学者が、ヨハネ、あの啓示の
書を書いたヨハネは精神分裂病だったというようなことを言っていたというのを見たか読んだかした覚え
があるんですが、間違いですか?村本さんは専門家でいらっしゃるんでしょう? 私はとくにこのことに
は興味シンシンです。ヨハネの黙示録には、精神分裂病から来る「世界没落体験」の形跡が伺えるでしょ
うか。もしそうだとしたら、キリスト教っていうのはまったく妄想の産物だったんですね。これはドギツ
イ週刊誌的なスクープ?
ぜひ、教えてほしいです!よろしくお願いします!

《編集者より》
出来る範囲でお答えします。

1)科学が創造者や創造を「肯定もしなければ否定もしない」理由は、創造者による宇宙の創造は宗教の概念であり、科学では扱わないことだからです。端的に言えばお門違いの質問をしているからです。科学は一般に宗教を持ち込みません。しかし宗教は、特にものみの塔などは、自分たちの見方を正当化するために科学を持ち込みます。そこに混乱が生じるのです。私の見るところでは、単純に「創造者が宇宙を創造した」と信じることが心細い人が、何か目に見える証拠を欲しいと思い、科学にすがり付いているのだと思います。

2)については私は全く知りませんので回答できません。読者の中でこのいきさつをよくご存知の方は投書して下さい。

3)については、私も聖書のなかの幻や奇跡や予言の描写の中に、多くの精神病理が隠されていると思いますし、啓示の書やダニエルの書にその典型が見えると思います。しかし、それだからと言って聖書の著者が全て精神分裂病であったというのは、短絡的結論であると思います。多くの「正常」な人が、ある状況、たとえば非常に強い恐怖、強い喜び、強いショックを受けると、精神病と同じような幻覚や妄想の体験をすることがあります。現代では薬物の乱用が問題になっていますが、昔も同じように、薬草で幻覚を引き起こして宗教体験をすることもありました。聖書の中の登場人物の何人かは、恐らく癲癇(てんかん)持ちであり、それが突然の陶酔状態や「お告げ」を口走ったこともあると思います。

しかし、それだからと言って「キリスト教っていうのはまったく妄想の産物だった」とは私は思いません。非常に強烈でユニークな体験は、幻覚や妄想と区別がつかないことが多くあります。よく研究されている現象に死ぬ直前の体験があります。多くの人々が死の直前に宗教的な要素を持った幻覚、妄想を体験するということが、死の直前で生き返った人々の証言から知られていますが、これも病気に関係ない、むしろ脳特有の機能としての幻覚妄想であると私は思います。私は聖書の記述の中に、特殊な脳の機能変化によって起こされた現象(てんかん、妄想、幻覚、幻聴、幻視)に基づいたものがあると思いますが、そのことは聖書の中核となるメッセージの価値を変えることにはならないと思っています。