「エホバの証人の姉妹たちも人間です」(静かなる嵐)

(6-30-01)

この21世紀に生きる世代に化石の社会が存在する。その社会の中では女性は低く扱
われ、男性と同等の権利も認められない社会。それはものみの塔が経営するエホバの
証人の会衆である。
姉妹がどんなに頑張っても、会衆内では男性しか特権が与えられず、どんなに有能で
あってもお祈り一つ許されない。きっと姉妹たちからみれば、こんなぼんくらが長老
なら私でもできるわと思う事も多いのではないかと思う。少し前、森首相をこきおろ
した
コマーシャルで、ある主婦が「こんな政治なら私でもできるわ」と言った心境と同じ
ではないか。

この男女平等の権利を憲法で認められているアメリカでさえこんな差別が平気でまか
り通る組織は以異常としか言いようが無い。たとえば、服装の決まり。
姉妹はミニスカートを禁じられている。
姉妹はズボンも絶対に禁じられて、もし集会に着用すれば大きな問題となる。日本の
或る会衆の姉妹は、会衆のピクニックにジーパンを着用した結果、6年間補助をする
特権を剥奪された。

ものみの塔誌の見解では「女性も男性と同じ価値のある人間と」説明しながら、会衆
内ではその見解は適用されていない。神権学校の割当てにも差別がある。姉妹だけは
会話形式のみの、つまらない話。演壇に立って直接聴衆に話すことは許されていな
い。

或る巡廻監督が姉妹たちにこう言った。もし兄弟がいなく、姉妹が司会する場合、頭
に覆うものが必要である。しかしその場には何もなく、あるのはおむつのみである。
ではあなたはどうするかと尋ねた。その巡廻監督は「おむつしかなければ、おむつを
あたまにのせて司会しなさい」と言った。これは冗談ではなく本当の話である。これ
ほどの侮辱があるだろうか。

以前は独身の姉妹たちもギレアデ学校ヘ申し込めたのに、現在は夫婦者のみ、しか
し、独身の兄弟たちはMTスクールへ参加できる道がある。では独身の姉妹等のMT
スクールはないのか。

海老名べテル内の殆どは兄弟たち。しかも少数のべテルにいる姉妹たちは、不道徳の
原因を作ることになると、殆どの兄弟から敬遠されている。

ものみの塔は信者数を減らしたくないが故に、姉妹の結婚相手までコントロールし
て、信者でなければ、結婚すべきでないと言うバカゲタおきてを公然と用いたので、
姉妹たちはいつまでたっても結婚できない。なぜなら、適齢期の兄弟たちがあまりに
も少ないから。
 オールドミスの姉妹たちがアメリカにも日本にも大勢いる。現在、そのような姉妹
たちは年を取り、昔は開拓をバンバンして、巡廻監督から誉められ、その気になって
いたのも過去の話。現在では会衆から冷たく扱われ、お荷物扱い。いったいその姉妹
たちの老後は誰がみるのだろうか。
宣教者を15年すると協会がその後一生その人をめんどうみるそうである。かわいそ
うなのはただの開拓者たち。彼女たちには誰からも何も援助はない。使い捨ての白金
カイロである。熱い時は大事にされ、冷えて年取ったら無用である。

べテル奉仕者がどのように若い姉妹たちをみているかひとつの話を紹介する。
あるべテル奉仕者はこう言った。「結婚相手の条件は、新しい体制に入ったら、妻の
性格は直っても容姿は変わらない。だから結婚相手は容姿端麗に限る」。べテル奉仕
者の兄弟はどこに行っても歓迎され、若い姉妹たちの熱い視線を浴びる。しかし彼等
の目は霊性では無く外見である。

今回、札幌の裁判判決で統一教会が敗訴した。「青春を返せ」事件である。まさにエ
ホバの証人の姉妹たちも同じ気持ちでしょう。結婚して、子どもを産んで、ごく普通
の人生も許されなかった。

《編集者より》
ものみの塔協会を始めとする、原理主義的な聖書解釈をとる宗教の行っている女性差別は、根源をたどれば聖書に書かれたことを時代と状況を全く無視して文字通り現代に当てはめようとすることに、根本的原因があると私は思います。私はこの点で、女性差別と奴隷制とは似たような状況にあると思います。聖書の書かれた時代、女性が男性より多くの事柄で低い扱いをされることは当然であり、イエスも使徒も一切疑問を挟みませんでした。これと全く同様のことが奴隷制度にもあてはまります。聖書の書かれた時代には奴隷制度は当然の事柄であり、イエスも使徒も、奴隷や奴隷を使う人々を激励しており、奴隷制度そのものには何の疑問もはさみませんでした。

それではなぜ現代のわれわれは、聖書を信じる大部分のキリスト教徒も含め、奴隷制度を間違ったこととしてその習慣に反対しているのでしょう。それは大部分の人が奴隷制度の矛盾を知り、聖書を文字通りに現代にあてはめるよりも、奴隷制度を廃止することがもっと大事なことがあることに気がついているからです。奴隷制度は、聖書の教えの最も根底にある原則である「隣人を自分のように扱う」という「愛」のない行為であることが明白であるからです。このことは、ものみの塔協会も異議を唱えないはずで、ものみの塔協会の出版物にも奴隷制度を非難する記事は沢山出てきました。

丁度同じ事が、女性差別についても言えるでしょう。ほんの数十年前までは、宗教界でも一般社会と同じように女性の立場を低く見る見方は当然のことでした。それがなぜ、最近になって変わってきたのでしょう。それは丁度奴隷の場合と同様、男性が女性を蔑視し続ける限り、聖書の根底の原則である「隣人を自分のように扱う」という「愛」を男性が女性に対して行っていないことになるからです。ごく最近、多くのキリスト教宗派はこの間違いに気づき、女性を対等に扱い、女性の指導者への登用が増えてきました。

しかし、ものみの塔協会のように、奴隷制度は非難しても、いまだに堂々と女性差別を固守している人々がいます。私はこれらの、ものみの塔協会に代表される人々は、聖書の根底にある精神を守り続けるのでなく、聖書を形式的に文字の上で守ることに躍起になって、大きな全体像を見られなくなっていることによるのだと思います。