pendulum氏へのお返事−「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

(6-18-01)

pendulum氏から、2001年5月17日付けで『「物事をありのままに考えるエホバの証人」へ−感想と
質問』という形で、「質問」が寄せられましたので、お答えしたいと思います。

pendulum氏は、これまでも、この「読者の広場」を通して、

  ●「組織」に対する考え-組織を憂い、真理を求める奉仕の僕より(3-4-00) 
  ●改革派JWになることについて−「pendulum」より(1-23-01)
  ●「一般のエホバの証人に事実を公表するには」についての意見−「pendulum」より(2-5-01) 

などの投稿をしておられます。

こうした投稿を、改めて読み直してみますと、pendulum氏の聖書に対する真摯な姿勢がにじみ出ていて
好感を持ちました。


まず、pendulum氏の私に対する直接的な質問にお答えしたいと思います。その後、関連する事柄にも触れ
てみたいと思います。わかりやすくするために、兄弟のご質問の部分を引用させていただきながら、お答
えしたいと思います。

   ここから話は違うのですが、兄弟に質問があります。
   兄弟は現役の長老で開拓奉仕もされているようですが、兄弟の書く
   エッセイをみると、とてもJWとして普通の長老がしようとするような
   組織への献身まっしぐらの姿勢で奉仕することはできないと思われ
   ます。自分の良心の叫びと、一方で要求されるJWとしてまた長老
   としての奉仕の間の葛藤をどのように解決されているのでしょうか。
   開拓奉仕をしてまで今の組織の穴だらけの教えを広めることに気が
   ひけるなんてことはないんでしょうか。(別に責めているわけではあり
   ません。あしからず)

ここでは、2つの質問が含まれているように思います。

   (1)普通のJWの長老としての奉仕をすることは良心的に難しいと思われるが、その点、どうして
      いるのか?
   (2)開拓奉仕は、なおさら難しいのではないのか? 開拓奉仕を続ける意味があるのか?

まず、(1)についてですが、現在、エホバの証人の長老には、おおまかに分類して3つのタイプがある
と、私は分析しています。 

   @組織を絶対的に、あるいはかなりの程度信奉している人。何が何でも組織が言うこと(「ものみ
    の塔」誌や大会、手紙などで公表される組織の考え方)をがむしゃらに実践するのが正しいと思
    っている人。
   A組織の危うさをうすうす、あるいは相当程度感じながらも、他の方法や場所、組織などを見出す
    ことができず、現状維持を保っている人。そうした点で特段の行動をしていない人。組織にぶら
    下がっていれば、何とかなるだろうと安易に考えている人も含まれます。
   B何も分かっていない人。

私は、そのいずれにも属していないと、自分では思っています。私の知っている長老の中には、@〜Bの
すべてのケースが含まれています。その比率はどの程度なのでしょうか。そこまで腹を割って話す人は限
られてきますので正確には分かりませんが、Aが一番多いのではないでしょうか。そして、@とBも確実
にいます。


ある会衆の主宰監督は、典型的な@のタイプでした。例えば、こんなことがあるわけです。公開講演者を
他の会衆から招待するのはよくあることですが、その講演者にはたいていは交通費が支払われます。実費
+多少の色をつけるのが礼儀とされています。ある時、近くの会衆から講演者がきましたが、その人に交
通費をいくら支払うのかが長老たちで相談されました。長老たちで意見が分かれました。ある長老は、自
分がその講演者の会衆に招かれた時に、いただいた金額と同じ金額を支払えばよいのではないかと提案し
ました。主宰監督は、それよりも多く支払うことを提案しました。たぶん、講演者の長老がRBCの有力な
長老であり、近々王国会館の建設を控えていた会衆の印象を良くしようと考えたのかもしれません。他の
長老たちの意見も分かれてしまいました。たかが交通費のことです。別にどちらでもよいわけで、自説を
強く主張するほどの問題でもありませんでした。しかし、その主宰監督の取った行動は非常に特徴的なも
のでした。自説の正しさを立証するために、協会の出版物を血眼になって探し始めたのです。他の長老た
ちは、「そんなことまでする必要はありません。あなたの好きなだけ支払って結構です」と譲歩したので
すが、収まらないのです。もう、その時点では、彼にとっては、金額の問題ではなく、自説の正しさを立
証することが目的化しているからです。

こういう長老は、何事にも協会の出版物を盾にとって議論しようとします。それが絶対の指針なのです。
協会の出版物や指示そのものが、実はかなり気まぐれなものだとも知らずに。例えば、バプテスマの時に
男子の場合、上半身裸になってもよいか、シャツを着た方がよいかという議論が起きたこともありました。
ある地域大会本部では、シャツを着用するように各会衆に指示しました。理由は、最近のバプテスマ風景
を写した「ものみの塔」誌の記事の挿絵で、映っている兄弟がシャツを着用していたからでした。

でも、よく考えてみると、バプテスマの写真は、上半身裸であったり、シャツを着ていたり、かなりテン
ポラリーであるように思います。つまり、どちらでもよいのです。それを、何か鬼の首でも取ったように、
「こうすべきである」ということが、どうして言えるのか、また、何故そこまでしたいのか、私には不思
議でなりません。

少し腹を割って話してみると、そういう組織のこまごまとした指示に疑問を持っていたり、RBCのやり方
に不満を持っていたり、医療機関連絡委員会のやり方に疑問を抱いている人などはかなりいます。実際に、
そうした事柄を率直に「意見」として、委員会に提案したりしている勇気ある兄弟も、私は知っています。
でも、そうした兄弟たちも、「ものみの塔協会」は究極的に正しいと考えている人が多いようです。やり
方に対して率直に批判することはあっても、組織には従順な人が多いわけです。でも、これも、本音なの
か、組織に不従順であることを明らかにしたら、この組織にはとどまれないということを知っているので、
そうしているに過ぎない場合も多いかもしれません。


さて、少々脱線してしまいました。私の場合に戻りますが、組織がいろいろな問題を抱えているにしても、
それによって、長老としての日常的な仕事が、できなくなるわけではありません。私は現在、会衆の主宰
監督として奉仕しています。主宰監督が日常的に行なうことは、だいたい以下のような仕事です。

   ●4回/年の長老の集まりを司会する
   ●奉仕委員会の司会者として奉仕する
   ●審理問題が生じた場合に、長老団の司会者として奉仕する
   ●公開講演を取り決める
   ●奉仕会のプログラムを取り決める
   ●会衆への発表を承認する
   ●巡回訪問に備えて会衆を組織する
   ●バプテスマや伝道者の取り決めを監督する
   ●協会から会衆宛ての手紙を受け取る
   ●4回/年の会計検査を取り決める
   ●会衆の運営費の支払いを承認する
   ●案内、音響、ステージ部門を監督する

ざっと、こんなものです。お分かりのように、主宰監督の仕事というのは、実際には、聖書の教理とはほ
とんど関係のない事務的な仕事がほとんどなのです。最近も、長老の集まりが行なわれましたが、大勢い
る長老たちの意見を調整しながら、会議の進行を行なう役割に過ぎません。

「教える」という点では、「ものみの塔」研究の司会者や神権宣教学校の監督は、より大きな役割を担っ
ています。私は、そうした「教える」という事柄には、極力、直接は係わらないようにしています。特に、
「協会」の教えを単に伝達するだけの「教える」業は、他の長老に委任するようにしています。何しろ、
最近でも、科学的な内容を扱った「ものみの塔」誌2001年4月15日号の研究記事に対しては、あか
らさらまに他の長老に不快感を表わしてしまいましたので、なかなかできません。書籍研究の司会はやむ
なく行なっていますが、納得のゆかない部分は、付加的な質問をしたり、宿題にしたりして、少なくとも
出席者がよく考えて結論を導けるようにしています。まあ、それでも、限界はありますが。

では、それで、葛藤がないのかというと、決してそうではありません。大いに葛藤している毎日なのです。
でも、聖書に日常的に触れる環境として、エホバの証人の社会に身を置くことは、ある意味で簡単には捨
てにくいのです。当てもなく、さまよい出ても、行くべき先を見出すのは容易ではありません。だからと
どまっているというのは、いかにも宙ぶらりんですが、今のところ、最善の策が見出せないというのが本
音なのです。


関連して、はっきりさせておきたいことの一つは、私自身は、600万人の会員を擁する「ものみの塔協
会」の路線を変更させることなどは、少しも考えていないということです。正直、そんなこと到底不可能
なことです。それは、ある地域監督が言っていたように、まるで、線路の上で驀進してくる列車に向かっ
て、アリが「とまれ!」と叫ぶに等しい行為です。

私は、自分が疑問に思ったことを、会衆という組織の末端では披露できない事柄を、インターネットとい
う手段を用いて、公にしているに過ぎないだけの人間なのです。それによって、目覚める人がいくらかで
もいれば、それはよいことでしょうし、それでも目覚めない人は大勢いることでしょう。

会衆での会話の中でも、インターネットに関する会話が着実に多くなっています。でも、ほとんどは若い
人たちが中心で、姉妹たちは、なかなかそこまでは、という段階でしょう。姉妹のご主人たちは、関心を
もってみている人は多いようですが。なかなか、姉妹たちは、インターネット=背教者という短絡的な思
考を植え付けられていますので、内容を吟味せずに、受け付けない姿勢を示すことがまだまだ多いようで
す。私自身は、会衆で極力インターネットなどの話題を取り上げるようにしているのですが。

いずれにしても、今後、私自身が、この組織の中で、どう振舞ってゆくのか、どう振舞うべきなのかは、
家族などとも相談しながら、慎重に決めてゆく必要があると思っています。それぞれの人生に係わってく
る事柄だからです。安易な道は取りたくありません。慎重に、しかし、重大な決意をもって臨む必要があ
ることは確かでしょう。


会衆において、日常的に一番問題となるのは、会衆の長老団の中に、先ほど分析した長老の@のタイプが
存在する場合です。その場合、「問題行動」をする長老には、すぐに批判の矛先が集中することは、容易
に想像できます。その場合、会衆において、私のように「いい加減」な態度を続けてゆくことは、かなり
難しくなるでしょう。幸い、私たちの会衆には、そうした長老が皆無なので、今のところは助かっていま
すが。

なお、誤解がないようにしておきたいと思いますが、ここで「いい加減」と表現したのは、無責任という
意味ではなく、いつか、この「読者の広場」で別の方から質問があった際に、述べた事柄などを指してい
ます【「物事をありのままに考えるエホバの証人についての質問(6-19-00)」に対するお返事(7-19-00)を
参照してみてください】。


さて、もう一つの点である(2)の開拓奉仕についてですが、これは、確かに、あまり続ける意味がなく
なっていると、私自身も判断しています。従って、そろそろやめようかと考えているところです。


   また、いつかの「真実を求めつづけたい証人」の方からの質問に対
   して兄弟は「この組織が真の神から用いられている組織であってほ
   しいと思っている」みたいなことをかかれていたと思いますが、今でも
   本当にそう願っておられるのですか?神がそのような方法をとられる
   と本当に思われますか?

   私も今はまだ「隠れエホバの証人」みたいなことをやっていますが、
   いつまで「エホバの証人」を続けられるか、最近特に自信がなくなっ
   てきています。
 
   兄弟の中で実存的なクリスチャンとしてのあり方と、この組織の
   方針との葛藤にどう折り合いをつけようとしておられるのか、兄弟
   の考えを教えてください。私は統治体は使徒の15章の会議を模し
   たものでもなければ、神から用いられてもいないと思っていますし、
   それでもこの組織を辞めていない理由と言えば仲間の人間に聖書
   の言う真理とは何かを知ってもらいたい、少なくとも考え直す機会を
   持ってもらいたいという動機があることだけです。

   もしよろしければ、個人的にメール交換したいので兄弟のメールアド
   レスを教えてください。私も現役の奉仕の僕ではあるものの、現役の
   長老であれば自分の情報を出すのに一層警戒する必要があるのだろ
   うとは思います。それでも、もし教えていただけるのなら大変嬉しいこ
   とです。

「この組織が真の神から用いられている組織であってほしい」と、確かに1年ほど前までは思っていまし
た。今はどうかといえば、そうした希望はかなり薄らいでいます。そういうものではないということに、
さすがに鈍い私も気がついてきました。

だからといって、先ほど述べたように、この組織をどうこうしようという気持ちは、私にはさらさらあり
ません。この組織が本物かどうかではなく、人生の中で、偶然にしろかかわってしまった、この組織との
かかわりの中で、自分の歩むべき道を見出すことが重要なのではないかと考えています。

つまり、むしろ、組織ではなく、自分というものを基軸にして、物事を考えるべきであると考えているわ
けです。組織がどうあるべきかではなく、自分がどうあるべきかを考えるのです。そうすると、自分の良
心と組織のあり方や意向が異なっているということに気が付くかもしれません。その時に、通常は、長老
のタイプ@〜Bの人たちは、すべからく組織に自分を合わせることを選びやすいわけですが、自分として
は、そうはなりたくないということだけです。

他の人を巻き込むことはなかなかできません。それは、教える立場の長老として無責任ではないか言われ
るかもしれません。でも、私たちは組織の中にあっては、いわばファクシミリのようなものなのです。上
から送られてくる伝達事項をファクシミリのように、たがえずに伝えることしか期待されていないのです。
異なる見解があれば、それは別の場所で公表するしかありません。

それでは、単なる鬱憤晴らしに過ぎないのではないかと言われるかもしれません。でも、残念ながら、今
のところ、それ以外には、効果的な方法が見つからないのです。少なくとも、会衆という単位で変革を実
行することは、現状では不可能に近い事柄となっています。


では、それで、まったく効果がないかというと、限界がある中でも、できることはあるものです。因みに
私たちの会衆では、クリスチャン本来の愛ある気づかいがあふれる状況がみられていると思っています。
多くの成員が、聖書に親しむ集会を楽しみ、奉仕を「適当」に行ない、クリスチャン同士の健全な交わり
を楽しんでいます。高等教育にも、異議は唱えられず、個人的な都合で集会を休んでも、たいして小言を
言われることもなく、奉仕が多少熱心でなくても、「もっと奉仕に熱を入れるように」という「励まし」
は行なれません。そんな会衆があっても、いいじゃないかというわけです。不活発者が発生すると、「自
発的に入会した宗教なのだから、無理に引き戻すのはやめよう」ということになります。でも、一度排斥
された人が「もう一度戻りたい」と言えば、どうぞお戻りくださいとなっています。

限界はありますが、百名以上のクリスチャンの兄弟姉妹が、そうした中で比較的伸び伸びと、できるだけ
聖書に従って歩んでいます。若者の髪型が多少長くても、おしゃれ気が出始めた若者がピアスをしていて
も、多少茶髪に染めていても、眉を剃ったしても、長老たちはたいして小言を言うことはありません。甘
ければよいというものではありませんが、聖書に書いていないことを、目くじらたてて規則にしてしまう
のも考えものだと思っています。不十分ではあるものの、一種の理想的な共同体的クリスチャン社会が出
来上がっていると私自身自負しています。確かに、限界はありますが。

実際、輸血の問題や、かなり深刻な問題が生じる可能性もあります。この問題では、最近の協会の方針で、
かなりの程度、個人の良心の幅が広がったために、ある程度やりやすくなりました。それでも、私自身は、
だれの「委任状」にも、責任を持たないようにしています。自分の「委任状」はつくりませんでした。別
に誰かに見せるわけではないことだし。


でも、今のやり方が最善なのかどうかは、正直言って、私にもよく分かりません。まだ、「目覚めてから」
の期間は、あなたと同様わずかなのですから。私も、まだ、最善の道を模索中なのです。でも、決して、
@〜Bのような長老にはなりたくないという気持ちで努力しているのです。


さて、これまでのpendulum氏の投稿
  「組織」に対する考え-組織を憂い、真理を求める奉仕の僕より(3-4-00) 
によると、
   1.エホバの証人の言う「背教者」になって、組織からは離れ、真理を求める
   2.忠実な証人を振る舞いつづけ、内部から少しずつ変えていく
という方法があるということが述べられていました。

この点について、少し触れておきたいと思いました。私は、背教者になる必要はないと思っています。も
ちろん、レイモンド・フランズ氏のように、向こうがそうした行動に出てくる場合は別ですが。

無理に、忠実な証人を振舞い続ける必要もないでしょう。思ったことを行なえばよいのです。ただし、そ
うしたことができる環境にあればの話ですが。残念なのは、そうしたことができない環境が、あまりに多
いということでしょう。それで、会衆では行なえずに、インターネットに逃れ道を求めざるを得ないとい
うことになるわけです。でも、それも、立派な意見表明の一つの形態なのではないでしょうか。「ものみ
の塔協会」を内部から変えるという大げさなことは考えずに、その中でも、自分としてのアイデンティテ
ィを確立することに努めることができるのではないでしょうか。


今回のご質問の中で、科学の専門的な面でのご指摘をいただき、ありがとうございました。
  http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/astro.htm
は参考にさせていただいています。


さて、pendulum氏は個人的にメール交換を行ないたいという希望を表明しておられますので、このお返事
は兄弟にも直接お送りしたいと思います。兄弟との率直な意見交換を是非行ないたいと、私も思っていま
す。


最後に、今回のご質問の際の編集者の村本氏のコメントは興味深いものがありました。村本氏は、組織に
批判的でありながら、長老の立場を続けている人の気持ちとして
   ●家族、友人たちとの関係を犠牲にできないこと
   ●他の兄弟姉妹に見切りをつけて群れを放棄することができないと感じていること
などを挙げておられますが、これは概ね当たっていると思います。関係する人々の苦悩について、村本氏
は、よくご理解しておられるようです。

確かに、それは苦しい選択ですが、その中で、最善のことを成し遂げようと努力しながら、個人としての
歩むべき道を確立しようと目指してゆくのは容易ではないのです。でも、それはやはり避けて通ることの
できない道なのです。



2001年6月18日
「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

《編集者より》
今までに多くの投稿を頂いていながら、「物事をありのままに考えるエホバの証人」(以下「物事さん」と省略します)の自分自身に関する個人的な見方がよくわかりませんでした。pendulum氏の質問は、私の物事さんへの質問でもありましたが、現役の証人の方々が抱える微妙で複雑な状況を考えて、詮索することは避けてきました。今回の物事さんのお返事で、あなたの置かれた状況がよくわかりました。

主宰監督として愛ある自由な雰囲気の会衆を主宰しながら、「私的」な個人として多くの優れたエッセイを投稿して「目ざめた」証人の輪を広げようとしている物事さんの姿勢に、心から敬意と賞賛の気持ちを表したいと思います。最近の編集後記にも書きましたしが、物事さんが今後組織に留まるか、外に出るかは本質的な問題ではないのではないか、と感じます。物事さんがおっしゃる「組織ではなく、自分というものを基軸にして、物事を考えるべきである」という態度を持ちつづける限り、物事さんは組織の中でも、組織の外でも、また別の組織に入ったとしても、やはり自分自身の個人としての良心を犠牲にしないで生きていかれる事でしょう。そのことは、人がある組織に入っているかいないかよりも遥かに重要なことなのではないでしょうか。

ただ、それで万事うまく行くかとというと、必ずしもそうではありません。多くの組織に留まる「目ざめた」証人たちは、物事さんと同じように難しい決断に直面せざるを得ません。物事さんに組織の上部からプレッシャーがかかり、組織と物事さんの良心との板ばさみになる時(良心の危機)が来るかどうか、それは全くわかりませんが、そのような時に本当の難しい決断の時が来るかもしれません。

最後に、物事さんの「この組織をどうこうしようという気持ちは、私にはさらさらありません」という発言に一言コメントいたします。確かに物事さん個人の意図は、まさしくその通りなのでしょう。そして私はそれはそれで尊重したいと思います。ただ、物事さんを始め、多くの実在する「目ざめた」証人の人たちの発言は、この数年組織の中枢に確実に影響を与えています。物事さんはもちろんそのようなアプローチをしていませんが、多くの「目ざめた」証人たちが(アメリカ、ヨーロッパでの話ですが)、本部に直接意見書を送っています。何人かの人々は、本部から詳細な返事をもらっており、その中で彼らの意見が、少なくとも組織の中枢で検討されていることは確かなようです。もちろんそれらが、今までの少数意見と同様葬り去られる可能性は高いようですが、少なくともある程度の影響を与える可能性は大いにあります。また、物事さんの多くのエッセイは、エホバの証人社会の中での「世論」の形成にも大きく貢献し、それがまた組織を変える原動力にもなるのです。

物事さんのような個人の努力の集合の裏に、大きな力が働いているというような大それたことを申し上げる積もりはありませんが、「目ざめた」エホバの証人の存在は、「驀進してくる列車」のスピードや進路を変えていることは確実ではないか、と私は思っています。