「物事をありのままに考えるエホバの証人」へ−感想と質問

(5-17-01)

こんにちは。pendulumです。今回は「物事をありのままに考える
エホバの証人」氏の最新のエッセイを読んで感じたことを書きた
いと思います。

まず、同氏(以下、兄弟)の見解に概ね賛成していることをお伝え
したいと思います。そしてこのような見識を持つ長老がJWの中に
一人でもいることを嬉しく思います。失礼な言い方かもしれません
が、一般的な長老と比べてかなり教養のある方とお見受けしました。

「創造者」の本は仰るとおりJWの組織がこれまで推し進めてきた
世の教育への姿勢からは到底たどり着く事のできない専門的な
内容を載せています。私は高校時代宇宙物理学、哲学などの本
を他のクリスチャンからは「世の知恵」と非難されながらも好きで読
んでいたため、「創造者」の本が扱っている内容を見たときはかつ
て自分が読んできた本の引用を見つけたりして、大変驚きました。
そしてこの本の論の展開の稚拙さにも驚きました。また、引用も不
誠実と感じるところがありました。

たとえば現在の宇宙論ではほぼ定説となっているインフレーション
理論を否定的に書いておいて、一方で自分たちに都合の良いビッグ
バン宇宙論は大々的に取り上げています。アラン・グースとほとんど
同時にインフレーション理論を発表した東大の佐藤勝彦教授の見解
は全然載せていませんし。もし、彼がエホバの証人に都合のいい発
言をしていれば、すぐに引用していたでしょうけど。

「創造者」の本は、インフレーション理論を否定する方向に話を持って
いこうとして、「しかし最近グース博士は、自分の理論が『宇宙がど
のように無から生じたかを説明するものではない』ことを認めました」
と書いていますが、そもそも、宇宙論で「無からの創生」という場合の
「無」は量子力学上の言葉で使われているのであって、日常用語とし
ての「無」ではありません。協会の文書はそこらへんをわざと混同させ
て読ませているように見えます。このグース博士の言葉の引用元も
書いてません。

宇宙論を扱った話については、「創造者」の最初の部分と似たような
話が、下のリンクではなされていました。私も持っているのですが、
「誰が宇宙を創ったか」という本でロバート・ジャストローが書いた本
の中の特別寄稿の文書です。話のベクトルとしてはJWが喜びそう
な類のものです。

http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/astro.htm

しかし、この本もそうですが、一般にまともな科学者は「科学」を
用いて「神」を論じることはしません。創造科学なんていうのも最近
は幅を利かせているようですが、科学では、神の存在は肯定も否定
もできないのです。論理的に突き詰めれば「神」という言葉を使った
とき、それはどのような存在を意味するのかなんていうところまで
議論は拡散しますが、ここで私が言いたいことはそういうことでは
ありません。一言で言うと、「形而下学を用いて形而上学上の命題
に何か結論めいた判断を下すべきではない」ということです。

協会の「創造者」の本は上のHPにあるような議論を用いて鬼の首
を取ったように神の実在の証明の走っていますが、「科学的に」神
の証明など決してできません。ジャストローはその辺をきちんとすみ
わて書いています。

神の存在についての議論は今からもう200年以上前にカントという
哲学者が「実践理性批判」の中で言及しています。神の存在は人間
の側からは「要請」されこそすれ、「証明」することはできません。
これは聖書の見方にもかなったものです。もし、神に関して客観的
な証明なんてできるものなら、信仰なんていらなくなりますから。
とうの昔に言い古されたことを顧みずに(もしくは無視して)今でも
一生懸命自説を力説している協会を見ているとなんだか虚しい気
持ちがします。

ちなみに、兄弟が書かれているところの「エントロピー増大の法則」
は正確には「熱力学第二法則」で、「人間主義」は「人間原理」だと
思います。前者は分かりやすくしようとして書かれたのかもしれませ
んね。

また、「4つの力」は単に物理学で扱われる力はすべてこの4つに
最終的に収斂するので、(よって物理学では念力、奇跡などは認めら
れないし扱わない)「創造者」の本はこの最も基本に位置する力が
どう「調整」されているかを説明しようとしたとも読めるので、そのこと
自体にはそれほど違和感はありませんでした。まあ、理解できる人は
少なかったろうとは思いますから、その意味で効果はあまりなかったと
の指摘には賛成ですが。

ここから話は違うのですが、兄弟に質問があります。
兄弟は現役の長老で開拓奉仕もされているようですが、兄弟の書く
エッセイをみると、とてもJWとして普通の長老がしようとするような
組織への献身まっしぐらの姿勢で奉仕することはできないと思われ
ます。自分の良心の叫びと、一方で要求されるJWとしてまた長老
としての奉仕の間の葛藤をどのように解決されているのでしょうか。
開拓奉仕をしてまで今の組織の穴だらけの教えを広めることに気が
ひけるなんてことはないんでしょうか。(別に責めているわけではあり
ません。あしからず)

また、いつかの「真実を求めつづけたい証人」の方からの質問に対
して兄弟は「この組織が真の神から用いられている組織であってほ
しいと思っている」みたいなことをかかれていたと思いますが、今でも
本当にそう願っておられるのですか?神がそのような方法をとられる
と本当に思われますか?

私も今はまだ「隠れエホバの証人」みたいなことをやっていますが、
いつまで「エホバの証人」を続けられるか、最近特に自信がなくなっ
てきています。

兄弟の中で実存的なクリスチャンとしてのあり方と、この組織の
方針との葛藤にどう折り合いをつけようとしておられるのか、兄弟
の考えを教えてください。私は統治体は使徒の15章の会議を模し
たものでもなければ、神から用いられてもいないと思っていますし、
それでもこの組織を辞めていない理由と言えば仲間の人間に聖書
の言う真理とは何かを知ってもらいたい、少なくとも考え直す機会を
持ってもらいたいという動機があることだけです。

もしよろしければ、個人的にメール交換したいので兄弟のメールアド
レスを教えてください。私も現役の奉仕の僕ではあるものの、現役の
長老であれば自分の情報を出すのに一層警戒する必要があるのだろ
うとは思います。それでも、もし教えていただけるのなら大変嬉しいこ
とです。

長くなってしまい、失礼しました。

#下の署名を含めたこのメールの全文を掲載してください。

-+------------------
msdb@ss.iij4u.or.jp
s01622md@sfc.keio.ac.jp

《編集者より》
「物事をありのままに考えるエホバの証人」からは、この場への投稿を通じてか、あなたへの直接のメールで返事が来ると思います。私の感想を一言。あなたの言葉で思い出したのですが、私もエホバの証人は「論ずる」ことが好きで、「論ずる」ことにより何かを「証明」し、それによって人を信じさせることが伝道である、と訓練されているように感じます。逆に言えば、神の存在が論証されて証明されているから信じている、という基本的態度がエホバの証人にはあるのではないでしょうか。私は最近、元エホバの証人で無神論者になった方(「僕は無神論者として科学を信じます」−元二世の再投稿)に興味を感じて返事に書きましたが、論証と証明で片付くのなら、科学のほうが遥かに多くの人々を納得させることが出来ます。従って論証され証明されるもののみを信じると言う態度の行き着く先は、先の投稿者のように、無神論者になるしかなくなるのではないでしょうか。つまりエホバの証人と無神論者とは、神に関する結論は正反対ですが、そのアプローチの方法において非常に似た考え方をしているように、私には感じられます。それに対し、あなたの言われたアプローチ、「形而下学を用いて形而上学上の命題に何か結論めいた判断を下すべきではない」、は神への信仰を、論証や証明とは別の次元に置くことであり、これは私の考える信仰と近いもののように思います。これを肌で感じて理解するのが最も困難であるのは、興味あることにエホバの証人と無神論者ではないでしょうか。

「物事をありのままに考えるエホバの証人」が、証人としてまた長老としての奉仕の間の葛藤をどのように解決しているのか、の質問は、もちろん「物事をありのままに考えるエホバの証人」さんご自身から説明されることでしょうが、私もアメリカで同じように組織に批判的な見方を持ちながら、現役の長老を続けているエホバの証人を何人か知っていますので、その人たちの気持ちはわかります。私の知る限り、その人たちも非常に悩み苦しんでいます。もちろんその人たちは、その悩みや苦しみを公然と表明できませんが、彼らが現役として留まっている理由の第一は、多くの家族友人たちとの関係を犠牲にできないこと、第二は長老としての責任感から兄弟姉妹に見切りをつけて群れを放棄することが出来ない、と感じていることがあると思います。もちろん見切りをつけた長老も何人もいますが、中には非常に大きな悩みと苦しみを抱えながら長老としての立場を続けている人々がいることを覚えるべきでしょう。