「僕は無神論者として科学を信じます」−元二世の再投稿

(4-11-01)


管理人様へ 「作り上げられた神その正体は」 を書いた元二世です


「私が神を信じるのはパラダイスを望んでいるからでも、滅びを恐れるからでもあり
ません。私にあるのは、神への愛と感謝の気持ちが主体です。」と言う貴方様の意見
について興味がわいたのでまた 投稿さしてもらいました 

貴方の意見は 神に求めるものはないが神に感謝してると言うことですが
百歩ゆずって 神が居るとします それならば 神はなぜ 人類を見捨てたのでしょう 
例えば 人が 子供を作り 育てることを 放棄 するとします 
それは とても悪いことです 
人が 目の前で殺されそうな人を 見てみない振りします 
それは とても悪いことです 
神は許されるのですか???
僕もまだ信じなくなったわけではないですが99%ぐらい いないと思ってます
管理人様も頭の良い方なんで50%ぐらいは居ないと考えてませんでしょうか???

ぼくは哲学 心理学 宗教 理論 的なものは何も信じないです 唯一信じれるのは
科学だけだと思います 絶対的証拠もないものはなにも信じれないです 

もし神が居るとしたら それは 神と言う名の 宇宙的物質 意思をもたない
モノだと思います 神と言う名の生命体ならば 人間的善悪の知識感情はないでしょう
 
管理人様のような頭の言い方がいるかいないかもわからない 神への愛と感謝の気持ち
を持つのは なぜですか たぶんあなたは今の暮らしがしあわせだからでしょう
この世に生まれてきたのを不幸せと思う 僕には 理解しがたいです

貴方の愛は 神と言う未知の存在でなく この大自然の恵みにたいしてではないですか???




話し変わりますがまた現役証人の方へいくつか質問さしてもらいます聖書や資料はす
ててないので昔の記憶です間違ってたらすみません。

他の人に研究を進めるまえにここの管理人様のいうようにあなた自身もう一度
聖書の神の矛盾と卑劣さを調べて下さい。あなたたちはエホバの証人となのるくらい
なら証人として絶対的証拠を見つけていなければいけません 証拠がないのなら 聖
書研究者 または エホバの広報係 または 神の奴隷 と名前を変えるべきです 

 1      なぜエジプトで神が奇跡を起こし エジプトの乳飲み子を殺したの
でしょう
神が人の子を殺したのです そんなことしなくても 偉大な神ならば 救えたはずで
す

  2             カイントアベルはささげ物をしたとき神に比べられました
カインは差別されたんです 怒って当たり前でしょう

   3            キリストが゜生まれる前 神による法律は 目には目を
奴隷は条件付で殺してもよかった  なぜ いまはいけない

これらは聖書にはっきり書いてある事実です 目をそらさず 考えて下さい
神がいかに 人間ぽく 支離滅裂で残酷かを !!!


最後に管理人様の感謝して愛してる信じれる神を教えてください 

なんと言う宗教の何と言う名の神ですか???

僕はその宗教を調べてみたいです!!! 

それともそのかみは
貴方の頭の中の 架空の神 ですか それとも
神と言う名の 宇宙的物質 意思をもたない
モノ 人間的善悪の知識感情のない物体でしょうか???

そうならば それを愛して感謝してる管理人様はすこし変わってますね
人類を作り出したかもしれない 大自然や宇宙的物質を愛してるなら 別ですが
......

僕は無神論者として科学を信じます 

細かく突っ込んですいませんが あなたのような頭のいいかたの意見を参考に
自分なりの哲学をつくり上げたいので 意見を聞かしてください

  失礼いたします...

《編集者より》
あなたの質問に一貫しているのは、人に対して神の説明を求めていることです。「神はなぜ何々するのでしょう」、「神がいるならこうなるはずでしょう」というあなたの質問は神に向けられるべきであり、人がそれを説明するとしたら、その神は人の知識の産物であり、神ではないのではないでしょうか。あなたは自分の頭の中で神を色々な形で作り上げ、それは神ではないと否定しています。私から見ればあなたの論じている「神」はあなたの頭脳の産物ですから、信じられないものと結論されるのは当然のことだと思います。つまり自分で作った神を自分で否定して限りのない堂々巡りをしているように私には見えます。

あなたは「科学を信じます」、「絶対的証拠もないものはなにも信じれない」と書いていますが、「信じる」といはどういうことでしょうか。私たちは日常色々なことを常に信じていますが、その「信じる」性質はみな違っています。あなたが夜寝る時に、約八時間したらまた朝が来て仕事や学校へ行くことを「信じて」予定しますが、それだって「絶対的証拠」を信じているわけではありません。しかしほとんどの人は、これはほぼ確実なことと「信じて」います。

あなが江戸時代に生きていたとして、目の前にボーイング777のジェット機を見せられて、これがこれから空を飛びますから「信じて」乗りなさいと言われたら、飛行機など一切見たことも聞いたこともない江戸時代に住むあなたはそれを「信じる」でしょうか。多分絶対的証拠がないと思ってあなたはそれを「信じない」でしょう。しかし現代に生きるあなたは、ほとんど何のためらいもなくボーイング777が空を飛ぶと「信じて」乗るでしょう。しかしあなたのジェット機に対する信頼は絶対でしょうか。時々、江戸時代の人が恐れたのと同じように、ジェット機は墜落します。現代でもある人は、飛行機は信じられないと言って、汽車や自動車や船にしか乗りません。

あなたは友人に本を貸すかもしれません。あなたは友人がその本を返してくれると「信じて」貸すでしょうが、それも「絶対的根拠」はなく、実際、借りた本を自分のものにしてしまう人もいるでしょう。私たちは日常、意識しなくとも多くの不確定なものを信じながら生きているのであり、あなたもその例外ではないでしょう。私たちは「絶対的証拠のないもの」を信じるからこそ、希望と信頼を持ちあって生きているのではないでしょうか。

私は、人が神、あるいは人間を超えた力を信じるのは、ほとんど本能に近い、人間の根底に植え付けられた心理であると思っています。人類のほとんど全ての文化はそれなりの「神」を持って来ました。もちろんそのようなものを信じない人もまたどこにも常にいます。しかし唯物論で成り立っていた共産主義国家が一世紀もしないうちに崩壊していったことでもわかるように、神のない世界は多くの人間には合わない世界ではないのではないでしょうか。私の神への感謝の気持ちも、私の一種の本能と理解して頂いてもかまいません。

最後に、前回のお返事にも書きましたが、私はあなたの無神論者としての立場を尊重し、神を信じないあなたをあわれな罪人とは思いませんし、あなたの見方、考え方も正当なものと思っています。神を信じる人が常にいるように、神を信じない人も常にいます。お互いが相手の立場を尊重しあって平和共存していく限り、全く問題はないと思っています。問題は神を信じる者が神を信じないものを「罪人」扱いにして相手を変えようとし、神を信じないものが神を信じる者を弾圧し出すようになった時が問題です。残念ながら歴史的に見て、このような葛藤は常に存在し、現代でもまだそれが残っていることは残念なことだと思っています。


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