「『思慮深い』人のではなく、『自分』の思考力を持ち続けたい」

(4-3-01)


    誰が集会を備えているか

     日曜日の朝、夫とこんな会話がありました。
    「君はいつまで集会を休んでいるつもりだい。僕は純粋にプログラムや
    兄弟姉妹たちとの交わりを楽しみたいのに、毎回いろんな人に○○姉妹〔わたしのこと〕
    は今日はどうしたの、って聞かれるんだよ。その度に君の替わりに
    いやきょうは具合が悪くてとかいい訳をしなくちゃいけなくて、気分がわるいよ。
    もういいかげん態度をはっきりしたらいいんじゃないのかな。長老に手紙を

    書くべきだよ。もう集会には行きたくないです、ってね。」
    「いまはそんな大げさにしたくないの。ただ少しそっとしておいてほしいのよ。
    いろんなことをゆっくり考えたいし・・」
     結局その日はわたしも集会に行くことにしました。
    そこでは、公開公演とものみの塔研究が普段通りに行われていましたが、
    わたしは長い間抱いていた気持ちを少しずつ整理していく時間に用いていました。
     公演は、聖書を辞書を引くがごとく時々開くものの、話しは協会の準備した
    筋書きで、何度となく聞いたことのあるテーマで進められていきます。
    聖書の話し、と大まかにはよべるものの、厳密に言えば統治体、もしくは協会による
    聖書の「解釈」を聞いている、ということになるのではないでしょうか。
    わたしはそれ自体に対しては抵抗はありません。自分より聖書に精通した人の
    考えや、彼らが時間を費やした調査の結果を聞く、という感覚で聞いていますし、
    同時にそういった現実的な見方ができる感覚を捨てたくないと思ってもいます。
     ものみの塔研究も同様に、すべてはある一塊のグループが聖書について
    書いた物を聞く又は読む、と言うことに過ぎないはずです。
    ところが集会は、神の聖霊が注がれていて、神によって備えられた食卓と
    同じであり、そこではわたしたちのために生きる糧が提供されている、と
    理解されています。だからこそ、「集まり合うこと」は重要なのです。

     親身になって集会に行くように薦めてくれる友人に、こんなことを
    言ってしまいました。神は王国会館ではある人たちのために「生きる糧」を

    週3回も与えられて、また一方ではアジアやアフリカの子供たちのように、

    「生きる糧」どころか、ただ死ぬに任されるような現状を許しておられるのはなぜ、
    わたしにはとても矛盾しているように思える、と。
     わたしは神が集会を備えているとはおもいません。誰が、というなら
    それは「ものみの塔協会」であり、彼らが不完全な人間の集まりである限り

    わたしたちには、彼らのいう「集まり合うことの意味」を含めた
    すべての「聖書の解釈」を、自分自身の思考力で考える義務と権利があると思うのです。
    すくなくとも成人した大人で、社会人であるといえる人はこの義務と権利を

    行使すべきですし、他の人はそれを尊重すべきだと思います。
    エホバの証人が、自立した社会人の集合体であるためには、一つとして
    集会に参加する権利と、参加しない権利とがあるということを認識する
    必要があるのではないでょうか。「行く事が良い」「行かないことが悪い」という
    短絡的なスティトメントの前に、もっと考えるべきことがあると思うのです。
    
     集会に参加しないと宣言すれば、長老たちが訪問してくるでしょう。
    訪問を拒否すれば別ですが、心情を吐露しても受ける扱いはあまり変わらないように
    思えます。つまり「霊的に弱い人」とか「注意を要する人」という分類分けがなされ
    再び感化の程度が引き上げられたことを確認できるまで、その扱いは続くことでしょう。
     究極のところ、この組織ではわたしたちにはクリスチャンが、いえ人間が

    当然あたえられるべき「権利」が十分に保証されていないのです。
     以前のものみの塔誌にこのような一節がありました。
    「真のクリスチャンであった人が、わたしはもう自分をエホバの証人とは
    考えていない・・・・・といって真理の道を放棄するかもしれません。
    この場合、その人はクリスチャンとしての自分の立場を放棄しているのであり・・」
     ある兄弟が執筆したこの一文に、わたしは同意しない、と言える権利もあるはずです。
    わたしは、クリスチャンとして生きたいと思っています。神を求める
    ことも一生続けていきたいと思っています。それでも「クリスチャンであることを
    放棄した」と判断を下されるのでしょうか。
    真のクリスチャンとは本当に「エホバの証人」のことなのでしょうか。
    「真理の道」とは本当はどういう意味で、どのような生き方を指すのでしょうか。
     すくなくとも、記事の中のこの一文を、自分自身の思考力を一度も使わずして、
    ただ丸読みしたまま頭に詰め込むようなことはしたくありません。
    疑問をもつことは悪いことではないと思うからです。それが組織に対するものでも、
    聖書に対するものでも、神に対するものであるとしてもです。
    疑問があれば思考力を発揮させて考えます。結論よりもその過程が人の成長に
    つながることもあると思います。なによりも、この思考力を人間に与えたのは
    神ご自身である以上、それを行使しながら答えを模索し、ひとりひとりの責任において
    結論をだしていく、このことこそ神の個人に対するご意志なのではないでしょうか。

     集会が、ひとりひとりの思考力と人間性を成長させる目的で組織されるなら
    とても意味深いものになると思います。
    聖句の背景や、意味をひとりひとりの思考力で考えられる機会と、自由を
    協会が与えてくれるなら、喜んで協会の資料を参考にしたいと思うでしょう。
     結局のところ、わたしたちは神の前に「組織」としてではなく、「個人」として
    立っているはずなのです。組織は道具にしか過ぎません。集会も「道具」として
    見るべきだと思います。


《編集者より》
あなたは現役のエホバの証人として集会に参加する中で、自分個人の見方を徐々に築き上げてきたようです。神は全ての人に自由意志と選択の自由を与えられています。そしてあなたも書かれたように、神の前に最終的に立つのは「組織」としてではなく「個人」としてですから、あなたの個人としての神との関係が全ての組織の事柄よりも優先するはずです。どうか周囲の圧力にめげることなく、自分自身の頭で考えて、自分自身の神との関係を探してください。


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