(3-10-11)
「君たちは卑怯で汚い」−エホバの証人を妻に持つ夫のJWICに対する批判 (2-22-01) 「あんたってホント気持ちの悪い人間だよね」 (2-21-01) に対するレスポンスにはすばらしいものがありました。 ヨブ記1:9にあるヨブの返答を垣間見た感じです。 9:ついに、その妻は彼に言った。「あなたはなおも自分の忠誠を堅く保っているのですか。 神をのろって死になさい!」 10:しかし、彼は彼女に言った、 「無分別な女の一人が話すように、あなたも話す。わたしたちはまことの神から良いことだけを 受けて悪いことは受けないのだろうか」。このすべてにおいてヨブはその唇をもって罪をおかさ なかった。 また、ヨハネ19章にあるピラトとイエスの会話も頭をよぎります。 このような内容を書いてくる方々はもし、エホバの証人であってもクリスチャンではないのでしょうね。 私も、家族のほとんどがエホバの証人ですから、彼らにいかに状況を把握させるかにとても苦労しています。 このように感情的になって、食ってかかってきますから、その対応にはとても疲れます。 しかし、それに対するあなたのレスポンスのすばらしさに私はどれだけ励まされるでしょう。 彼らが悪いわけではありません。そのような組織になってしまったものみの塔がきっと「大いなる バビロン」なんでしょうね。エホバの証人のみなさんは一人一人はとてもいい人ですから。 そのような方々が、ヨブの妻のような言い方をします。 きっと、本音はそんなことは言いたくないのだ、と信じています。 感情が前面にでてくるだけなのでしょうね。 それでも、その言葉を受けた方はとても悲しいのです。 エホバの証人のみなさん、私たちはあなた方を傷つけたいと思っているわけではありません。 自分が置かれている状況を正直に目をつぶらずに認識してほしいだけなんですよね。 聖書をよく調べて、自分で判断できるようになってほしいだけなんです。 ただ、それだけなんですよ。
《編集者より》
文面から察して、エホバの証人を家族に持つ方と判断しました。間違っていたらごめんなさい。あなたの「私たちはあなた方を傷つけたいと思っているわけではありません」という言葉は、全く私の言いたいことと同じです。あなたの言葉で思い出したのですが、一つインドの民話というのを紹介しましょう。(いつも聖書の話ばかり聞いていると、時に全く別の世界の話は新鮮味があると思います。)手短に要旨を話すと次のようになります。
ガンジス川の川岸で一人の老人が水を見ていると、一匹のサソリが川に落ちて溺れかけているのが見えました。老人が手を差し伸べて助けようとすると、そのサソリは老人の手を刺しました。老人は反射的に手を引っ込めましたが、手は腫れて血が流れていました。しかし、老人は思い返して、再びサソリに手を差し伸べました。サソリはまた老人の手を刺しましたが、今度は老人は手を引っ込めず、サソリを手に載せて岸に拾い上げることが出来ました。横でそれを見ていた少年は言いました。「じいさん、そんな畜生を助けたって何になる、自分が怪我して馬鹿なことだ」。これに対して老人は言いました。「刺すのはサソリの性質、溺れるものを助けたいのは私の性質」。
エホバの証人の方々は「異教のインド」のたとえ話として、無視したり軽蔑するかも知れませんが、私はこのたとえ話の中に、クリスチャンの愛に共通する二つの特徴が見事に述べられていると思います。インドの宗教上の背景から、ここに描かれているのは動物に対する愛ですが、それはそのまま「善きサマリア人」に描かれる隣人愛に当てはまります。その第一の特徴は、隣人愛はその対象になるものの反応によって左右されないこと、第二の特徴は、隣人愛は自分を傷つけるものも赦すこと、です。私は今後もエホバの証人で私に怒りを向ける人々を赦し続ける積もりです。エホバの証人の方々も私の批判が痛いものであっても、赦して下さることを祈っています。あなたも書かれているように、私の批判は決してエホバの証人個人個人に向けられたものではありません。一人一人の個性を超えて(あるいは無視して)勝手に動き回る怪物のような「組織」には、個人を超えた大きな制御が必要なのです。