真の幸福とは・・・ (七転八起)

(1-4-01)


明けましておめでとうございます。(今年は気持ちよく、この言葉をかけています)
年が明けて、日本列島も木枯らしが吹き荒れていますが、皆様いかがお過ごしでしょ
うか。

まず、12月28日の投書をくださった?さん、あなたの疑問に村本さんが答えられ
た通りです。それに、私や家族のことを気遣ってくださって、ありがとう。本当に心
温まる思いでした。

昨年12月28日(木)の夜11:00よりNHKの 「人間講座」 というテレビ番
組を見ました。熊本学園大学教授の原田正純さんが 「水俣病」 について語っていた
番組です。
この中で、胎児性水俣病で22年の短い人生を閉じられた方のお母さんが語られた言
葉を代弁していました。

その子は一度も「お母さん」と呼びかけることができなかったけれど、実は「たから
子」なのです。と・・・その理由は3つあります。
(1)水銀を全部1人で受けてくれたので、母体やその後生まれた子供達にほとんど
影響がな  かったこと。
(2)母がその子に手がかかった分、他の子供達が自分達で協力し合える、優しい子
に育ったこと。
(3)その子がテレビ・新聞・雑誌などに映像や写真入りで取り上げられることに
よって、世界中の人々や政府の高官・企業のトップの人々に訴えることができたので
はないかということ。

この考えかたこそ、逆境の中でつかんだ真実のように感じます。
私は幸福や価値観・達成感というものは、相当主観的なものだと思います。他人から
見れば不幸に映ってしまうことでも、本人の考え方・見方しだいで180度転換する
ことも可能になります。これが、イエスの言われた9つの幸いの本当の意味ではない
か・・・と感じます。「嘆き悲しむ人」「義に飢え乾いている人」「義のために迫害
されてきた人」「「人々がわたしのためにあなたがたを非難し、迫害し、あらゆる邪
悪なことを偽ってあなたがたに言う時」 など苦しい状況にあっても、当人が、どこ
かに幸福の理由を見出すことができれば、幸いになれるということではないでしょう
か。

政府も宗教も過去から現代に至るまで、ユートピアを実現したいという夢のために多
くの方法が試されてきました。社会福祉を充実したスウェーデンでは、お年寄りの自
殺が多いようです。人間は、社会や環境を整備するだけでは満たされない、霊的・精
神的充実感が必要であるわけですが、それは 「ものみの塔」が示すように、一方的
に与えられるものでしょうか・・・。
それは、個人的に見出していく事柄ではないでしょうか。画一的なものではなく、実
に多様性があっていいと思います。与えられるものではなく、自分で考え実践して、
つかみ取っていくものだと思います。

人類の歩みの中で過ちは付き物です。特に現在は、環境破壊が警告として叫ばれてい
ます。
地球の温暖化・水の汚染・森林伐採・・・等、上げればきりがありません。「ものみ
の塔」 は、その点でも不安感をあおって、この体制の終わりを叫ぶ根拠としていま
すが、村本さんがセントヘレナ山の溶岩の跡地に生物が生息している事実を提示され
たように、地球自身の自生力も大きい力を持っていますし、人類が歩みを反省して方
向転換をすることによっても、ずいぶん違ってくると思います。

日本でも富士山のクリーン作戦で、昨年の夏に、一旅行社が募集したツアーで、五万
人もの人達が参加して清掃登山を含む活動をしました。
長良川沿いの地方自治体が協力して、クリーン作戦を実施します。
ユニセフの活動も活発で、コンビニの店頭にも募金箱が置かれていますし、飛行機や
ツアーのバスの中でも募金活動がなされています。
非政府組織のボランティア活動も至る所で、増加しつつあります。
環境・福祉の両面で反省した人類の活動が活発になりつつあります。

ところが 「ものみの塔」 が寄付を組織以外の人々の災害や困窮している世界の人々
への援助に使ったという話は全く聞こえてきません。大会会場として借りる建物以外
を清掃奉仕したという経験を聞いたことがありません。常に、自分達の利益しか考え
ていない組織と感じます。
今は、世界中で環境・福祉に目覚めた人達がボランティアとして前向きに活動してい
ます。
このような生き方が、真の隣人愛であり、幸いの理由となる一つの例ではないでしょ
うか?
今こそ、真の幸福は組織に奴隷として仕えることから生じるのかどうか、真剣に考慮
してみるべきだと思いませんか?

《編集者より》
あなたの投書を読んで考えたことですが、この社会をよくするのにどうしたらよいか、という議論に大きく二つの見方があるように思います。最近のアメリカ大統領選挙での民主党と共和党との間の大論争にもこれがあらわれていましたが、一つの見方は政府なり管理者なり組織なり、何かの中央の権力が世の中を監視し、お金を分配し、よい政策をもっと立てることが社会をよくする道である、という考え、もう一つは人々の良心に期待し、その自由を尊重して個人個人の自発的な創意工夫によって社会をよくする、という考えです。財政政策で言えば、前者の考え方では政府を大きくし税金をもっと取ってそれで福祉を充実させるという方向ですし、逆に後者の考え方では税金を少なくし政府の出費を減らしてその分個人の寄付活動を増やすという方向です。これはアメリカの国民性もあるでしょうが、僅かの差で後者に軍配があがりました。アメリカは伝統的にボランティア活動の非常に盛んな所で、私は政府の福祉政策より一般の人々の寄付と奉仕がアメリカ社会の福祉の最大の原動力になっていると見ています。日本にもどんどんボランティア活動が増えていると聞き、心強く思います。

ものみの塔のように、この滅び行く事物の体制はいくらよくしてもしょうがないという態度ではもちろん何も始まりませんが、規則と義務で縛られる組織の内部の生活も、幸福とは程遠いものではないでしょうか。エホバの証人はそのような生活を耐え忍び、「地上の楽園」の希望にかけて目の前にぶら下がる人参を追いかける馬車馬のような生活をしてきました。もちろんそれが幸せと思う人はそれでいいのでしょうが、確かに真の幸せはものみの塔の挿絵に出てくるような物質的な充実ではなく、その時その時の心の状態によるのではないでしょうか。どんな世界とどんな環境に住んでいても、幸せは馬車馬のように追いかけるものではなく、いつも身近にあるのかもしれません。水俣病の子供の母親の証言はそのことを如実に語っているように思いました。


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