「真実を求め続けたいエホバの証人」より−その5

(11-27-00)

 先月投稿してくださった感想と情報、ありがとうございました。長老の決定は、実
質的に、協会からの指示や出版物に基づいて行われるとのこと。聖書の神の名のもと
に行われているので、出版物が聖書と調和していることが前提で、統治体の責任の重
さを改めて感じました。
 このところ忙しいために手落ちの多い内容になるかもしれませんが、また感じたこ
とを投稿してみます。管理しておられる方の辛口のコメントは考える糧になります。

@アベルの犠牲について
 ノアの時代以前、まだ動物を食べる習慣がなく、従って殺す習慣もないはずの時代
に、まるまると可愛らしい子羊を殺して捧げたアベルと、それを喜ばれた神の話は、
贖いの血に関する信仰と関連づけなければ、大変残酷な、サタン顔負けの話になって
しまいます。それで聖書には、「信仰によってアベルはカインより価値のある犠牲を
捧げた」としか説明されていませんが、協会は、アベルが贖いの血に関連した信仰の
ために、そのような行動とったと補足してきたのだと思いました。

A開拓奉仕について
 先月投稿された方と重複するかもしれません。 例えば、一般社会の夫婦について
言われることですが、経済的、精神的に自立していない妻は、夫に依存していなけれ
ば生きていけないので、夫の横暴や理不尽にも黙って耐え、離婚しない(できない)
と言われています。同じことは会社組織や宗教組織にも言えるのではないでしょう
か。
 例えば特開者、旅行する監督たち、ベテル奉仕者の兄弟などのように、生活全てを
組織に依存するようになると、会社人間と同じ拘束状態になって、何を見、何を感じ
たとしても、自尊心を持って生きていくためには組織人間に徹するしかありません。
中高年になって組織から出されたら、ホームレスにもなりかねない時勢です。札幌広
島会衆の問題を扱うことになった巡回監督のアヤフヤな態度には、そんなサラリーマ
ン的悲哀も感じました。上記の兄弟たちで「組織への恐れ」(神への恐れでなく)を
持っていない人達はいないのではないでしょうか。会社人間が、会社に感謝している
と同時に組織権力の恐ろしさも熟知しているのと似ていると思います。「あなた方は
皆、兄弟です」というイエス・キリストの言葉とは裏腹の、対等に意見を言えない上
下関係があることは否定できません。雑談や軽口など、いわばどうでもいい内容の話
に関しては気さくで親しみある接し方をされますので、それが結果的にカムフラー
ジュの働きをして、わからない人にはわからないということになっているようです
が……。例えば札幌広島会衆の元長老の話にもありましたが、協会の威信に関わるこ
と(そう思っていること)にひっかかると、支部も統治体も別の様相を呈してくるの
です。イエス、オーケー、サンキューだけ言っている人は大事にされますが、いろい
ろな面で煮詰まりつつある今は、聖書的原点に戻るべき「時」で、間違っていること
を指摘することは、利己的な不平不満とは違うものです。、
 コリント第一13:3では、命をかけてどんなに善行をしても愛がないなら神の前
に無益と言っているのですから、協会の指示のもとにやってきた良いことが神の前に
価値あるものとなるためにも、体質改善をして真に愛のあるところとすることが必要
不可欠と思うわけです。
 脱線してしまいましたが、開拓奉仕も前述した拘束状態にならない形で行ったほう
が賢明と思いました。勧言と甘言はあるかもしれませんが、病気になっても、事故に
遭っても、どんなに窮地に陥っても、統治体や支部は助けてくれません。「開拓に入
ることを決定したのはあなたでしょう」と突き放されて終りです。日本の野外は、
「収穫は少ないですが、働き人は多いのです」というのが正直な現実で、開拓奉仕が
必要なのは、むしろ本人や会衆内や組織内といった内部事情によるのです。いろいろ
な面をよーく考えて、それでもしようと思うならすべきだと思いました。
 また、開拓奉仕という取り決めができた原点は、1881年、「終りは近い(1914
年)」という考えから生まれたようですが(「ふれ告げる」P.405等)、以後常に
「終りは近い」という言葉とセットになって勧められてきました。でもルカ21:8
では、終りの日のしるし兼警告として、「……『その時が近づいた』とか言うからで
す。そのあとに付いて行ってはなりません」と明記されています。いつ来るかわから
ないから常に目覚めているように、ということは聖書のアチコチで言っていますが、
「近づいた」ことをアピールして人を動かすことはご意志ではないということになり
ます。でも、それを言ってしまうと、20世紀のエホバの証人はご意志じゃない“神
の禁じ手”を使って拡大したことになってしまいます。どうなんでしょうか……。
 禁じ手というのは、使うと危険があるとか、よくない結果を招くとか、勝つけれど
も見ている人(神)に不快感があるとか、いろいろな弊害があるわけです。神から下
される判断はどうなのか、多かれ少なかれエホバの証人は皆「その時が近づいた」と
言って伝道してきましたから、これからの進展は、私たちすべてに関係する神のご意
志を明かにしていくことでしょう。神の摂理によっては、エホバの証人総懺悔という
ことになってもいいと思っています。間違いを認めることは、面子のために言い訳す
るよりずっと霊的な行動ですから(ダビデとサウル)。

B輸血が断絶になったことについて
 これが本当だとしたら、輸血が、淫行や偶像礼拝より重い処罰(問答無用の一方的
処罰)というのは聖書的ではないのではないでしょうか。淫行や偶像礼拝について
は、ギリシャ語聖書でもいろいろなところで繰り返し禁じ、処罰を強調しています
が、血に関して述べているのは1ケ所だけ、使徒15:29だけです。しかも啓示2
1:8のダメ押し的聖句でも、淫行の者と偶像礼拝する者に関しては火の湖と明示し
ていますが、血に関しては、殺人という流血についての処罰を言っているだけです。
ですから使徒15:29で列挙されている事柄の中で、淫行や偶像礼拝が輸血より重
い処罰に取り決められることはあり得るとしても、輸血が淫行や偶像礼拝より重い罪
というのは聖書と調和しないと思いました。
 また、弱さからそうしてしまう可能性も考えますと、それを問答無用に切り捨てて
しまうのは、エホバのご意志と全くかけ離れてしまいます。
 医学的な詳しいことは説明されても私の脳細胞は応じきれず、読んでいるうちに注
意散漫になってしまうのですが、凡人かつ常識的判断として、血液成分から作られる
ものを受け入れているのでしたら(エリスロポエチンとか)、私たちは献血してもい
いのではないでしょうか(輸血とは別問題)。税金と同じで(軍備に使われる部分も
大きい)、すべての使い道みまで責任は持てませんが、聖書的に用いられる見込みも
あり、クリスチャンも恩恵を受けるわけですから、良心的決定でいいように思いまし
た。

C感謝について
 映画などで見ただけですが、やくざの世界から足を洗いたい人が親分や兄貴分に言
われることは、「今までさんざん世話を受けておきながら、よくそんなことが言える
もんだなあ」とか、「命を助けてもらった親分の顔に泥を塗るつもりか」とか、感謝
知らず、恩知らずというニュアンスの言葉です。その言い分は偽りに基づいてはいま
せんが、でも神の目に正当でないことは明らかです。足を洗いたい人も、当然感謝は
していますが、それと悪を容認することは別と考えているわけです。統治体をやくざ
の親分に例えたのは不適切なのですが、時々雑誌に見られる協会の論理が間違ってい
ることをはっきりさせるために、敢えて使いました。感謝=すべてを黙認することで
はありません。聖書的でない論理を展開して、聖書的と思わせ、黙認させてきたこと
が、組織を官僚化させ、曲げてしまった原因の一つだと思うのです。非聖書的なこと
を黙認することこそ、組織を神から遠く離れた存在にしてしまうのです。

《編集者より》
「真実を求め続けたいエホバの証人」からの5回目の投稿をいただきました(第1回6月24日、第4回9月19日)。物事を冷静に分析的に見てこられたあなたの態度に心から敬意を表したいと思います。別のメールであなたは私の返事が「重いすぎる」とおっしゃっていましたので、できるだけ軽いコメントをさせていただきます。@については、私の知識の不足かもしれませんが、ポイントがよくわかりませんでした。もう少し詳しく説明していただければ幸いです。

Aはとても興味ある見方です。私も日本での開拓は、まず自分たちの実績のためにやっているのではないかと思います。世界の他の国と比較して、日本の開拓者の率は異常に高く、しかもそれに比較して実績が非常に少ないのが現状です。自己満足と兄弟姉妹の間での暗黙の競争が開拓者の数を異常に引き上げてきたのではないかと思います。その点で韓国が似たような状況にあることは、アジアの似たような国民性の反映か、とも思います。終わりの日を予想して「近づいた」と触れ回ることが聖書の教えと調和しないという見方は賛成ですし、そこにものみの塔宗教の根本的な問題があると私も思います。それが神の禁じ手であるかどうかは知りませんが、予想を立てること自体が聖書の教えの本質をないがしろにする態度であると私は思います。現在地震の予知は少しずつできるようになっているようですが、もし本当に地震がいつくるかわからない時、私たちはそれに備えた毎日を送ることになります。しかし、あと100年は来ないと触れ告げれば、大部分の人は少なくとも後80年間は準備する必要がないと思い、緊張感はなくなります。逆にあと一週間以内に来ると触れ告げれば、今度はそれを予想してある人は仕事をやめて、家を売ってどこかへ逃げ出すでしょう。どちらの態度も「ずっと見ていて、目を覚ましていなさい。あなた方は、定められた時がいつかを知らないからです」(マルコ 13:33)という教えに真に従っているとは言えません。どちらの態度も主人の帰りを予測してそれに従って態度を変える奴隷のたとえ話の態度と同じです。前者はちょうど「世代」の教義が変わって「終わり」が先延ばしになった時のエホバの証人の態度ですし、後者はちょうど1974年頃に次の年の「終わり」を予想して翌年の収穫のために種をまくのをやめたり、生命保険を解約したり、退職して家を売り払ったエホバの証人の態度そのものでしょう。われわれの生き方が真に「目ざめて」いるためには、「主人」がいつ帰ってくるか全く予想がつかないことが最も大事なのではないでしょうか。少しでも予想がつけば、それが直ぐにであっても、遠くに先延ばしになっても、私たちの生活態度はそれにあわせて変わってしまいます。本当に予想がつかない時に、私たちは毎日、特別なことはしなくとも、地震がいつあってもいいような備えをするのではないでしょうか。私はこれが聖書のメッセージであり、ものみの塔はこれを履き違えてあなたの言う「神の禁じ手」をその教義の根幹としてしまったのではないかと思います。

Bの輸血については、あなたのおっしゃることに概ね同感です。ただし、「弱さから」輸血を受けた場合には問答無用で断絶することはないと思いますし、それは協会も色々な機会に言明しています。大抵の場合、悔い改めの意思がはっきりしていれば、「弱さから」輸血を受けた人は断絶も排斥もされないはずです。問題はある血液成分が受けられるか受けられないか、協会の見方と違った見方をとるエホバの証人の場合です。この場合そのエホバの証人は、協会がある血液成分を受けることは輸血ではないから許されると考えるのと同じように、別の血液成分を受けることも輸血ではないから許されると考えます。従って、このエホバの証人は協会と同じようにその治療行為は「輸血」と考えませんから、何も悔い改める筋合いはないと考えます。ただ一つだけ違うことは、そのエホバの証人は協会が定めた方針(それは聖書の内容と直接関係ありません−聖書には血液成分のことは一切書いてありませんから)と違ったことを行っただけのことです。この場合、この人は間違いなく断絶になるのです。私はこれが最も問題となる、ものみの塔協会の独裁政権顔負けの暴挙であると思います。断絶の理由はここではもはや輸血でも偶像でも淫行でもない、ただ協会に服従しなかったからということだけなのです。献血に関するあなたの見方には全面的に賛成です。

Cについても全く同感で特に付け加えることはありません。