「胸を張って生きよう!」−静かに活動をとめることを考える現役証人

(11-3-00)


 いろいろ考えていて、思い悩み、ため息をついている自分のことを思うとなんだかばかばかしく
なってきました。自分の人生はたった一度しかないのに、なんでものみの塔協会の指導者の決めた
枠組みの中でこんなにウジウジと悩み苦しまなければならないのでしょうか。私にとって最大の問
題は結婚でした。何人かの人が私に関心を持ってくれているのです。私ももう四十を越えました。
こんな私に結婚の機会を与えてくれる社会はエホバの証人の社会しかありません。ある奉仕の僕の
兄弟は、私が開拓奉仕を降りたので躊躇するようになったみたいです。私はドロップ・アウトだと
でもいうのでしょうか。人間を開拓者であるか否かで値段をつけなおすのです。それがショックで
した。ほんとうにショックでした。開拓者であってもなくても私は私です。つまるところ結婚生活
というのは肩書きなんかよりも、人間そのもののつきあいなのではありませんか、私は結婚した経
験がないのでよく分かりませんが。それに彼は私より9年年下なので、まだ他にも結婚の機会があ
ると踏んだのでしょうか。(エホバの証人の社会では女がちょっ
と年上というパターンはけっこう多い)ちょっとプライドが傷つきました。これでも世俗の職場で
はけっこうたくさんの誘いがあったものです、二十代の頃から。それらの中にはいい男もいました
。そんな人たちよりちょっともさっとした人からそんな態度を取られた、という気持ちもあること
は正直に認めます。でも結婚となると私だって一生懸命になります、クリスチャンの積もりですか
らね、これでも。
 今はでも板ばさみです。国体護持ならぬ神権体制護持のためのうそ偽りで塗り固めた教理・政策
、自分たちを特殊に思い込む誤った信念、誤った信念にはまた頭数の拡大がエホバへの崇拝である
という信条や、自分たちが一斉に世界的布教活動を行えばそれが終わりの日のしるしになるとでも
思い込んでいるかのような、盲目的な布教の煽動も含まれます。自分たちの聖書読解能力の欠如が
露見されることを恐れてか、輸血禁止の強行などは私たち信者への愛や気遣いなどつめの垢ほども
持っていないように思います。こんな組織でずっとやってゆけるかという気持ちがあります。でも
今までは、結婚できるかもしれない、という気持ちがありましたから、見て見ぬ振りをしていまし
た。きっとそういうずるいやり方に罰が降りたのでしょうか。結婚の期待が遠のいたのは。
 いつまでもウジウジしていてはせっかくの人生の貴重な時間を無駄にしてしまいます。こんなと
きはいったん白紙に戻してみるの方が、新しい展開の糸口になるかもしれません。私も静かに活動
をとめてみようと思います。ちょっと心を休めてみたいのです。もう誰にどう思われても平気でい
られるように思います。いつもいつもみんなにどう思われるかと気をつかって生きてきました。自
分の人生ですから自分に合ったペースで生きて何が欠落していると言うんでしょう。勝手に何とで
も言ってくださいな。子供を生めずに人生を閉じるのだろうかと思うと恐怖と凄まじい怒りがこみ
あげてきそうです。でもこんなときにこそ冷静にならなければなりません。怒って喚き散らしても
、自分の品性と評判を傷つけるだけで仕返しの目的はなにも達成できないと思います。とにかくし
ばらく静かに暮らそう、私はそう決心しました。それもみんなこの「情報センター」のおかげです
。とくにこの投書コーナーに貴重な経験を正直に投書された方々には心よりお礼を申し上げます、
どうもありがとうございました。この投書を読んでくださる若い
エホバの証人の方々、意欲に燃えて開拓奉仕に入るのは立派なことだと思いますが、決して無理は
しないで下さい。きちんと将来の設計を考慮するのは決して信仰の欠如ではありません。むしろ、
ハルマゲドンが近いに違いないから、あとのことはエホバが何とかしてくれると考えることこそ、
正しい信仰心の欠如だと私は思います。王国を第一にするなら、とは書かれていますがそれは物質
主義を言うことで、質素な暮らしでもきちんと自分を管理するにはエホバ任せにして、生計を立て
る責任を放棄することはできません。ものみの塔協会が全時間の宣教を強調するのには誠実な信仰
から来るものではなく、彼ら自身の面子のためであるのが明らかになってきました。聖書よりもも
のみの塔の記事の方を重要視し、自分ではきちんと論証できないのに、ものみの塔協会の出版物の
文章をひたすら繰り返すさまは、なんだか、一部屋に集まって無心にナンミョウホウレンゲキョウ
を声高く唱えるある宗教団体とそう変わりが無いように思えます。聖書にはその逆で「理性による
神聖な奉仕」が勧められています。事実にもとづいた教理でなけ
れば「理性にもとづく神聖な奉仕」とはいえないのではありませんか。
 ものみの塔の十二月一日号の最後の記事を読みましたか。専門家はいつも正しいかという副見出
しがあって、三十ページの終わりで「自らを賢いとする人々は往々にして、『神はいない』とか、
『聖書は信頼すべきではない』とか、『今は“終わりの日”ではない』などと言います。神の目か
らすれば、そのような考えは「2=1」であると言うのと同じくらい愚かなことです。(コリント
第一3:19)権威ある人たちがどんな主張をしようとも、もしそれが神を否定し、み言葉を無視
し、常識に反するのであればその結論を受け入れる必要はありません。結局のところ、“すべての
人が偽り者であったとしても、神は真実であることが知られる”ようにするのが、常に賢明な道な
のです 」と書いてあります。専門家は確かに全てのことに完全に正確であるのではありませんが、
事実を正確に明らかにしようと努めます。教科書に掲載されるような陳述はみな、学会を国際的に
開催して、専門家が大勢頭をよせて、事実であると確認されたものなのです。バビロンによるエル
サレムの陥落の年もそういう風にして結論されたものです
。どこかの宗教指導者のように、イスラエルが幽閉から解放された年から自動的に七十年を引き算
しただけという短絡的な思考から導き出された結論とは調査の重みが違います。ここでの核心は「
今は終わりの日ではない」という主張にあります。インターネットの成果を協会は気付いています
、あたりまえの観測でしょうが。こんな強引な記事でしか自分たちの主張を通せないのです。この
記事はエホバの証人の知性がどれほど劣っているかを世間に言い広めるでしょう。
 尚、引用されているローマ人への手紙の3:4ですが、ここで言われている「多くの偽り者」と
いうのはユダヤ教の人々です。「律法を誇りとするあなたがたが、自分では律法に違反して神を辱
めるのですか。“神の名はあなた方のために諸国民の間で冒涜されている”とあるのであり、書か
れているそのとおりです。」という指摘の対象となっているユダヤ教の影響下にあるクリスチャン
を念頭に置いています。ユダヤ教の人々について同じローマ人の手紙は、「彼らは神に対して熱心
ではあるが、正確な知識によるものではない。彼らは神の義を知らないで、自分たち自身の義を確
立しようと努めたために、神の義に服さなかったのです」とも言っています。エホバの証人の中央
にいる人たちは脇の下に汗をかかずにここを読めるでしょうか。「心が無感覚に」なっていれば読
めます。
 とにかく若い皆さんにはうそ偽りがなく、正直な良心を抱いて組織にではなく、真にエホバ神に
崇拝を捧げるようであってほしいと思います。事実をその通りに受け入れる人でなければクリスチ
ャンとして謙遜でいることはできない、と思いませんか。ここにはとにかく神を真剣に擁護しよう
という気持ちはないと私は身をもって知りました。以上です。
 長ったらしい文章ばかりですいません。

《編集者より》
今回更新したエホバの証人の世界統計で日本の開拓奉仕者の割合が他の国に比べて非常に高いこと、奉仕時間も伝道者との割合にすれば世界一であることを示してありますが、あなたの経験を読むと開拓奉仕への異常なまでも心理的圧力が日本のエホバの証人の間にあることがよくわかります。あなたが考えている「静かに活動をとめてみる」という方向は、最も無難に組織を離れるよい方法であると思います。もし何か言われたら、体調や病気を理由としてもよいでしょう。うまく対立を避けながら、静かに距離をおいていき、徐々にその距離を開けていくことをお勧めします。その間にご自分の心のリハビリテーションに心がけ、健全な社会復帰をされることを祈っています。


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