組織にとどまる現役エホバの証人の組織批判

(10-30-00)

 エホバの証人が他のキリスト教団体には見られない拡大を遂げた理由は、まず何より
も「目的」をはっきり示したことにあると思います。私は「証人」となる以前、あるキ
リスト教団体に関わっていたことがありますが、その活動といえば、クリスマスの前夜
に、同じ団体の信徒たちの家を訪れて、玄関先で讃美歌を歌うというようなものでした
し、説教も聖書にもとづいた話ではなく、牧師さんの個人的な人生観が話されただけで
、あんな話なら自分でもできると思ったものです。とにかく、こんな活動がいったい何
を成し遂げるのか、何の意味があるのか分かりませんでした。キリストに召された者は
天でキリストと共になると話されましたが、共になってどうするんだということはあや
ふやでした。一般のキリスト教は人間に達成感というか、生きがいのようなものを提供
できないのだと感じています。それは日本の仏教も同じです。エホバの証人のいう世俗
の仕事の方がはるかに人間に生きがいを与えます。二十世紀の技術の進んだ社会でさら
に技術を開発してゆくという仕事は逆に人に大きなやりがいを与えます。宗教離れが進
むのも当然だと思います。
 しかしエホバの証人は違っていました。彼らは目的を知らせました。クリスチャンは
神と神の目的を知らせなければならない、神の目的は地上を公園のような場所に整備す
ることだというのです。事情があっていくらかの人々が「エホバの証人」として天へ召
しあげられることになったが、当初の目的は変わっていない、神は神の目的に同意する
人々に整備された地上で永久に生きて、神から与えられた仕事を行い続けるという希望
があると言います。エホバの証人は、人は何のためにクリスチャンとして生きるのかと
いうことを説明するのです。ここにエホバの証人の強さがあったのです。生きる目的が
はっきりすれば、人は自我を確立できます。自分で信じたことを守りぬくために一命を
賭した人たちも大勢いました。日本人の中では特に異質で異様な人々と見られるのも、
ここに理由があります。日本人は一般に自我が未熟なので、身内の者が個人的に信条を
持つことを認めることができません。エホバの証人のような強烈な信念を抱いた人は反
感を買い、自分勝手で大人じゃないと評価されます。家
庭が壊れる理由も全てではありませんが、一部こういう理由もあります。今まで文句を
言いながらも言う通りにしていた妻が、あるとき理屈を言って違う決定をするのを見て
、夫は家庭が分裂すると思うのです。でもはっきりいってそれは誤解です。結婚したか
らといって、妻は自分で信条を選択できないなんて、それこそ独裁じゃないでしょうか
。妻は自分の依って立つところの信条を自分で選択し、決定する自由を持っています。
妻は家庭を分裂させようとしているのではなく、夫とは異なる見解、信条を持つように
なったというだけのことなのです。道理に適った信条であれば、信条はそれぞれ異なっ
ていても夫と妻は共同生活を続けてゆけます。夫が家の信条、夫個人の信条でなければ
ならないと考えるので、家庭に波風が立つのです。それは人権の侵害だと私は思います
。夫婦であっても、いえ、夫婦であるからこそお互いの考えを尊重するべきだと思いま
す。
 ただエホバの証人の場合、集会が週日にも二回あって、それぞれ夜に子供を連れて行
き、9時過ぎにならなければ帰ってこないという事情があるため、家の人たちは違和感
を持ってしまうのでしょう。そのために兄弟たちの場合は集会に定期的に出席するため
に、転職しなければならないケースもあります。集会に定期的に出席できるように「調
整」しなければ兄弟たちはその後奉仕の僕や長老に推薦されることはありません。それ
らは決して階級や優れた地位ではないと口先では言われますが、実際は違います。何年
経っても「奉仕の特権」といわれる役職に推薦されないとその人は霊的に低い人、進歩
の見られない人という評価が貼り付けられます。この投書コーナーにもありましたね、
鉄道関係の仕事をされておられる方の経験談です。極端な場合あのような仕打ちを受け
ることもあります。非常に類似した出来事を私も私の会衆の人々も目撃してきました。
そしてこういう出来事はエホバの証人の中では決して珍しいことではないのです。みん
なが恐れているのは村本さんがおっしゃるように、ハルマゲドンではなく、長老や巡回
監督に悪い印象を与えてしまうことなのです。それはそのまま、会衆内で針のムシロに座
らされることを意味するからです。集会に集まり合うことは聖書に書かれている指示で
あり、重要なことです。が、人々の重荷となるようなやりかたは思いやりに欠けている
とは私も思います。エホバ神への敬虔な専心に沿って生きようとすれば必ず迫害に直面
することになると、聖書は警告していますが同時に私たち自身の違反や無知などの理由
で反対を身に招くのは恥であるともペテロの手紙は述べています。ですから私たちの方
で、聖書を十分に検討しないで極端な解釈を行って、それが非難の理由となったのであ
れば、私たち自身が反省しなければなりませんし、そういう極端な教理を作って守らせ
た人々は責任を取るべきです。その意見には私も賛成です。極端な教理を人生と生活の
全体で受け止めて重大な損失を被った人に対しては特にそうです。
 極端な教理の中には、確かに輸血や武道教育そして年代計算、終わりの日のしるしの
ことがあります。正直に読むと、聖書の記述からはこんにちの私たちが神経質になって
いるほど禁忌事項ははっきり禁忌と断定できないのです。断言します。中学のときに日
本人は関数とグラフを学びます。グラフの直線は座標上にふたつの点が定まらなければ
決まりません。輸血や武道の授業の履修、運動会での棒倒しも同じです。聖書に書かれ
ている事だけでは白か黒かを決定できないのです。根拠となる情報が少ないからです。
例えば血についてのヘブライ語聖書の部分の記事からは医療処置としての血液の使用方
法まで指図していると確定できるほどの事が書かれているでしょうか。戦いを学ばない
ということはスポーツとしての武道教育を履修しないという意味である、と断定できる
のでしょうか。「国民が国民に敵対して立ち上がる」というのは第一次世界大戦にしか
当てはまらないのでしょうか。主権民族、国家間で行われる戦争はみな国民と国民の殺
し合いではないでしょうか。単にものみの塔協会がそう解釈しているにすぎないのです。
このHPから教えられたことは私たちが普遍の真理として教えられてきた教理の重要な
部分、ものみの塔協会が、「決して変化しなかった教理」と言う部分がしっかりした根
拠を持っていなかったということでした。私たちが正確ではない解釈を絶対的真理と思
い込んで、社会と摩擦を起こし、死人まで出してきたあげく非難されてきたのだとした
ら、それを「不当なバッシング」、「信仰ゆえの迫害」などと言えるでしょうか。むし
ろひとりよがりのヒロイズム、ファンダメンタリストの自己陶酔でしかありません。年
代を近い未来に算定して、信者たちに普通の生活を放棄させてきたやり方は、神以外の
者が終わりの時を知ることはないというキリストの教えに真っ向に反対するものです。
私たちに求められてきたことは神が定めた時に確かに世界のありさまは変わることにな
ると信じて、聖書道徳を注意深く遵守して暮らすことです。その中には互いに励まし合
うために集まることと宣べ伝えて弟子を探し出すことも含まれています。それは聖書そ
のものが指示していることですから守らなければなりません。しかしものみの塔が推薦
するやりかたしか神に受け入れれる方法はないという脅迫観念に束縛されるのはもう終わ
りにしたいと思います。ものみの塔協会が聖書的な手順に注意深く従っているのであれ
ば確かに唯一の経路だといえます、たとえ幾らか間違いを犯したとしても見えない権威
に対して謙虚に従うのであれば、「み名のための民」と言うことができます。しかし対
面や権威の失墜を恐れて、間違いを隠しつづけ、偽りの上に偽りを塗りたくるようなや
りかたを続けるのであれば、それは神に捨てられたかつてのユダヤ教の諸派と同列のも
のでしかありません。「うそをつく者はエルサレムの外に追いやられる」と黙示録(私
たちは“ヨハネへの啓示”と呼ぶ)に書かれているのです。
 私はこのHPをご覧になっておられる方で、もうエホバの証人の社会から切り離され
ては生きてゆけないほど年を取ってしまった方、二世、三世の若い方で思い切りのつか
ない方、一世ではあるが、聖書の音信に信仰を持つようになった方たちに言いたいのは
、「終わりが近いから、将来設計を変更して開拓奉仕に入りましょう」というような巡
回監督たちの話にひょいひょいのらないようにするべきだということです。王国を第一
にしていれば生活は破綻することは決してないとか、いろいろな際立った経験を話して
、信仰があれば生活は保障されると言うことでしょう。しかしそういう経験は本当にま
れで、際立ったものなのです。滅多に起きることのないものです。あなたが独身男性で
あるなら、開拓奉仕に入らないと長老や奉仕の僕に推薦されにくくなるかもしれません
。しかし聖書の約束にあずかるのに開拓者であることが要求されているのではありませ
ん。日本の会衆は数多くの小さな会衆に分会してきました。おそらく兄弟たちに主宰監
督のポストを与えることを第一の目的として分会させたのでしょう。狭小な区域で地道
に宣べ伝える私たちが時間の要求を満たしながら働くのに、どれほどの苦労が増えるかと
いうことには全く配慮されずに会衆の数を増やそうとするのでした。あげくの果てが開
拓者が減り、野外宣教への熱意が弱まり、区域の反応は悪くなる一方で、宣教の内容も
薄っぺらくなり、成員が少なくなった分、王国会館の維持が難しくなるのです。今日本
では逆に会衆の合併が行われています。何でも頭数だけを増やそうとするやり方が今私
たちを押しつぶそうとしています。このことから私たちは教訓を引き出すべきです。も
のみの塔協会の方針は聖書的な関心と調和していない場合が多く、聖書的な関心から外
れている場合も多いということです。聖書の解釈さえ道理を欠いていることが多く、極
端でひとりよがりです。あなたは開拓奉仕に入れば後はエホバの聖霊が援助してくれる
だろうと考えますか。それは信仰の正しいありかただと思いますか。冷静になって考え
てみてそんな考え方をする自分をどう思いますか。責任感ある大人の考えですか。それ
ともあなたは、自分はまだ若いから、巡回監督や長老に認められるまで開拓を続けて、
「奉仕の特権」たる地位に就いたらもっともらしい理由を作って降りればいいとでも思っ
ているでしょうか。あなたのような長老たちのために私たちがどれほど不必要なストレ
スにわざわざさいなまれるか分かりますか。私たちだっていつまでもおとなしくはして
いませんよ。この種の兄弟は本当に存在します。決して少数ではありません。私は開拓
奉仕という制度そのものを否定しているのではありません。開拓奉仕は宣教活動にとっ
て必要なものだと思います。開拓奉仕を行うために生活様式を簡素にし、調整するのは
立派な自己犠牲です。しかし自分の生活と人生を管理する責任を放棄し、神の方へ責任
を押し付けるのは子供じみた行いです。そうするのは早く長老たちに認めてもらおうと
してすることで、イエスが言われた「人に見せようとして(崇拝の行為を)行うこと」
です。そういう事態が実際に起きるのには、背景があります。それは開拓奉仕を行わな
いから信仰が弱いと判断するものの見方です。聖書に書かれていない基準を作って人間
をより分けるのは明らかに聖書を踏み超える行いです。それを正当化し続けるのはそれ
こそエホバの意向に対する反対、聖霊を冒涜することです。そのために成員たちに取り返
しのつかないストレスを負わせるのであればなおさらです。もともとそうした見方は、
つまり若い人が、また年齢が高くても独身者であるなら開拓奉仕をしないで老後の生活
設計を考慮に入れて普通に職業に就くなどというのは信仰のない証拠と断定する見方は
、神の裁きの時が統治体の見解に沿って起きることになっているという見方なのです。
もしそれが誤っていたなら、将来への備えを捨てさせる圧力をかけてきた人たちは責任
を取ってくれるのでしょうか。答えはノーです。開拓奉仕を行うか否かは個人的に、自
発的に行われるものだから、その個人的な決定から生じた事は個人で片付けるべきだと
言うでしょう。開拓奉仕を行わないと排斥された訳でもないのに、排斥者であるかのよ
うに村八分にする暗黙の圧力をかけるやり方のことなどあるはずがないかのように誰も
注意を向けません。ですから、たとえそういう会衆内の「役付き」に身分になれないか
らという理由だけで、十分な将来設計もせずに開拓奉仕に入ったりしないでください。
あなたのためにもなりませんし、第一にそれはエホバへの信仰をきちんと示す方法ではあ
りません。あなたは単に巡回監督に認めてもらおうとしているにすぎないのです。
 そして皆さん、現役であろうと、さよならした人であろうと、外部の人であろうと、
すべての人の前で言います。これがエホバの証人の「霊的パラダイス」の実態です。こ
のような社会にいることを幸福に思えとものみの塔協会は雑誌の中で強調します。神を
主権者として受け入れることは人間や組織に服従することではありません。組織あるい
は指導部が神の指導書である聖書を踏み越えているのであれば私たちとしては「人間よ
り神に従わなければなりません」。しかしあからさまな反乱は自分を傷つけるだけで、
一般の主婦である信者たちも急激な変化には強い嫌悪感を覚えるので、みなを敵に回す
ことになります。「彼らはモーセの座にいるゆえ彼らの言うことには従うが、彼らに倣
わないように」というのが聖書的なやり方だと思います、創造者エホバを信じると言う
のであれば。
 エホバの証人情報センターからは本当に目を覚まさせる優れた情報を得ることができ
ました。これからも期待しています。基本的にエホバの証人の「組織」の始まりは前提
そのものが誤っていたことと、ラッセル亡きあと、いわゆる「二世」的な人々が権力欲
を満足させるために勝手に宗教組織を建てて、中世のカトリックよろしく独裁支配を行
って、自分の満足だけを追求してきたのだというのが実際の有様でした。エホバが生き
ていて、人間に関心を払っているというのであれば、必ず事を正して下さいますように
、正真正銘神の裁きの定められた時に。いろいろ言いたいことはたくさんあります。ま
たいろいろ気付かされたことが多くあります。それらを神を信じていながらものみの塔
協会によってずたずたに傷つけられてきた人々に訴えたいとも思っています。でもその
ことはこの「情報センター」が行ってくれるでしょう。信仰は正確な知識に基づいてい
なければならない、使徒パウロのことばです。それなのに「忠実で思慮深い」という統
治体が真実の情報を隠すのであれば、あなたたちは本当に神に仕えているつもりか、そ
れともサタンのように自分の惨めさを慰めるために、私たちを道連れにしようとしている
のか。でも真実は残る、真実だけが残る。それは人間が存在するようになるずっと以前
から自然世界で起きてきたことだ。私はこの「情報センター」心より感謝します。ただ
ひとつ、村本さんを満足させられないことに、私はエホバへの信仰をやはり捨てられな
い、ということです。これは私が自分個人で決定した生き方なのです。

《編集者より》
真の神権組織か、単なる思い込みか」に続くお便りです。長いお手紙で現在の心境を語っていただきありがとうございました。ただ一つ、最後の言葉についてだけ一言申し上げます。私はあなたが「エホバへの信仰」を捨てることで満足することはありません。あなたのおっしゃるように、あなたが自分自身で決定した生き方を私がなぜ変える必要があるのでしょう。私はあなたがエホバへの信仰を持ち続けるべきであるし、もし組織に残りたいと考えるのであれば、それも一つの生き方であると思います。私の目的はエホバの証人に「エホバへの信仰」を捨てさせることでもなければ、組織から脱退させることでもありません。この読者の広場への投書者の中にも、多くの現役の証人が「覚めた目」を持ちながら組織にとどまっています。私はそのような目覚めたエホバの証人が組織の中に増えるに連れて、いつか組織の膿が白日の下に絞り出されることを願っているのです。目覚めたエホバの証人が一人でも組織の中で増えるなら、私はそれで「満足」です。